カテゴリー「中央集権、地方分権、学校自治」の8件の記事

国レベルでの政治と教育の分離

 教員免許更新制を廃止する方針を文科省が出した。これ自体については、現実的な良い施策だと思う。

 しかし、手続きの問題がある。政権が変わったら、とたんに廃止の方針が出た。中教審への諮問と答申を経ていない。免許更新制を作ったときは、中教審答申を受けて作った。
 それをいきなり変えた。

 教員免許制度は、教育の専門性と、一般社会との接点になる制度である。一般国民の代表である議員や大臣も関与していい制度だが、専門家の関与なしにやってははいけない。

 では、中教審を通せばそれでいいのかというと、それも問題だらけである。民主党政権下で諮問を出せば、それに対するOKが返ってくるに決まっている。それで審議したと言えるのか。
 教員免許更新制が出来たときだって、中山大臣が諮問した段階で、もう結論は決まっている。ほんとうに専門的な見地から審議したなら、実効のない免許更新制ができるはずはないと思う。
 本当の専門家機関など存在していないのだ。

 問題は、ほんとうの意味での恒常的な”専門家機関”が存在していないことにある。
 中教審委員は、大臣が人選する。人選の段階で、結論はだいたい分かっている。政党から送り込まれた大臣が人選するような機関に、ほんとうの専門的な審議はできない。

 中教審は、文科省内の機関である。諮問されたことにしか答えられない。
 国立教育政策研究所も、文科省の影響が強い。場所でさえ、いままでの目黒の独立した建物ではなく、霞ヶ関の文科省の建物の中に移転した。
 文科省の初中局は、もちろん文科大臣の指揮下にある。

 国の機関のうち、たいへん専門性を必要とする部門に、政党の影響が簡単に届くのである。
 国の教育政策機関のうち、教育内容や、教育運営に関与する部門を独立させ、文科大臣の指揮下からはずすべきである。文科省が免許制についてなにか案を出したら、諮問されなくても問題点を指摘してくるような機関を作るべきである。

 民主党は2003年以来、文科省を中央教育委員会に改組するとの案を出している。いまも政策集に載っている。文科省を改革の聖域におかないことは重要だ。しかし、この案ではいけない。
 内閣の中に入って、予算や法律をガンガン主張するような機関がないと、教育が尻すぼみになってしまう。

 改組すべきは、教育の内容や、学校運営のやり方や、免許の在り方のような、きわめて専門的なことを扱う部門の独立である。ほんとうの意味での、指導・助言・援助する機関が必要である。
 中教審と、文科省初中局のかなりの部分と、国立教育政策研究所を合わせて中央教育委員会とし、文科大臣の指揮下からはずすべきである。いっぽう、文科省は、予算、法律など教育の条件整備に関与する機関となって、大臣の指揮下に教育を振興すればいいのである。

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小話 権威主義的な教育をなくす

小話を作ったので、読んで下さい。ちょっと、おもしろいでしょ。

世の中で権威主義的な教育は良くないと言われるようになった。
そこで文部科学大臣が、「権威主義的な教育をなくすにはどうしたらよいか」を、中央教育審議会に諮問した。
中央教育審議会は、立派な答申を出した。

文科省は、それを教育委員会に通知した。

教育委員会は、それを校長に指示した。

校長は、教員に「権威主義的な授業をしないように」と指示した。
それから生徒に「権威に頼らないで、自分の頭で考えましょう」と訓示した。

教員は、生徒に「権威主義はいけない理由を次の中からえらびなさい」というテストをした。

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「増大する業務の効率化」 ─ 中教審で検討する問題か

 こんな記事を目にした。日本の教育システムは重病だなと思う。

 「教員が授業に集中できる体制を 増大する業務を効率化せよ」(教育新聞08年12月22日)
  中教審初等中等教育分科会の「学校・教職員の在り方及び....作業部会」は、...学校の業務負担について議論を交わすとともに、その方策として
 ①多様な業務を推進するには、学校全体で組織として遂行する
 ②教員が授業に集中できるよう、それ以外の業務は専門人材や地域人材を活用する
 ③業務の効率化と削減に努める 
──などをあげ、今後の議論を深めていくことになった。

 学校はたいへんな重病である。雑務が病気ということではない。雑務が多くて困るという問題を、自力解決できないほどの重病なのである。

 なぜ、雑務が多いくらいの問題が、中教審で議論するテーマになるのか。現場で解決できないのか。中教審から処方箋が出るまで待っているようなテーマなのか。

 困っているのは、学校現場の人たちのはずである。忙しくて困っている、雑用が多くて困っている。
 その人たちからなぜ声が上がらないのか。なぜ、現場で解決できない問題なのか。別に、法令がからむ問題ではない、それぞれの教育委員会や学校の運営体制の問題である。

 しかし、これが中教審の議論になるのである。それが現実である。
 教育が地方分権化されているなんて、建前である。学校の自主性なんて、ただのきれいごとである。実質は、学校はどっぷりとお役所仕事に漬かっている国営事業みたいなものである。こんなことにまで、文科省(中教審)が乗り出してくるのだ。

 実際は、指導要領を初めとして、「学校はこうすべし、ああすべし」を文科省=中教審がたくさん出している。学校は、すっかり上からの指示に依存する体質ができている。だから、それを解決してやるのにも、文科省=中教審が乗り出さなければならない。

 文科省(中教審)─教育委員会─学校という官僚ピラミッド体制が、学校の自主性を奪っているのだ。学校は上から降りてくる雑務を断れず、法令と前例と上司の顔色で動き続けるのである。この官僚体制そのものがなぜ、問題にならないのか。
 文科省(中教審)のおせっかい、学校のお役所体質、それが学校不活性の原因なのだ。

 学校の業務を問い直すより、文科省と中教審の業務を問い直したほうよい。

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中央で、政治と教育が分離していないわけ

 戦後教育行政は、地方では教育委員会を作って、政治ときちんと分離したのに、中央では政治と文科省が分離していません。これはおかしいと思います。教育が、政治による奪い合いの対象になってしまいます。
 文部科学大臣は、政権政党から送り込まれます。そして、学習指導要領も教科書検定も指揮できる立場にあります。おそらく、直接の指揮はかえって反発を招くのでやりにくいでしょうが、影響力を駆使することは可能です。
 学力テスト、教員免許更新制などは、中山大臣が方針を出し、中教審がそれにあった答申を出し、という経過で実現しました。政治主導です。

 どうして政治家が教育の細部まで指揮権を持てる仕組みを作ってしまったのかと、戦後教育改革を調べました。当初、文部省も中央教育委員会に改組する案が出ていたのです。ところが、そのころの案では、カリキュラムも教科書検定も、すべて各地方の教育委員会に委譲することになっていました。文科省は、ほんとうに縁の下の力持ちになる予定でした。
 それなら、文部省を改組する必要もあるまい、と中央教育委員会は見送られました。

 ところがその後、文部省は”暫定的に”、教科書や学校基準設定権を持ち、主要な権限の譲渡をまったくやりませんでした。そのため、政党に属する大臣が指揮する文部省が、教育の細部まで決める権限を持ち続けました。

 中央集権で行き詰まった教育を立て直した例にフィンランドがあります。フィンランドは、教育省と国家教育委員会を分離させ、法律と予算は教育省、教育内容は国家教育委員会としました。

 日本も、これに相当する分離をきちんとやるべきです。

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戦後教育行政の不幸な歴史

 ちょっと忙しくて、更新に間を開けてしまいました。

 戦後日本の教育は、教育委員会という新制度を中心にやっていこうという人たちと、そんなアメリカ輸入の制度ではなくて国としての教育をやっていこうという人たちの二派がありました。

 けっきょく、国としての教育をやりたかった人たちが主導権を握りましたが、名を捨てて実をとった形になりました。それが、教育委員会は名目は責任者になっているが、非常に弱体化している理由です。

 ところが、90年代にはいって、学校と教育委員会の自主性や、地方分権が言われるようになった。そのときになって、教育委員会を弱体化させてきた仕組みが、こんどはネックになりました。いくら自主性と活性化を言っても、なかなか動けないのです。
 現在の教育委員会は妥協の産物としてできているので、なぜ作られたのか、なんのための組織なのかもわかりにくいです。

 文科省、教育委員会のあり方そのものから問い直さないといけないのですが、学校と教育委員会を弱体化させている構造に手が付けられません。
 その構造というのは、「学校教育法」等による国の学校基準設定体制、「地教行法」による権限分散体制です。保護者・住民に対して責任をとる仕組みを閉ざしていることも大きいです。

 学校と教育委員会を弱体化させている構造に手をつけないまま学校と教育委員会を活性化させようとするから、教育改革は精神論が流行るようになるし、現場を疲れさせるだけのことが多くなります。。

 拙著「変えよう!日本の学校システム」(平凡社)に、できるだけ読みやすい形で、歴史的経過と現状をまとめてあります。読んでいただければ幸いです。

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教育は、地方、現場に委ねてこそ生きる

集英社の 「イミダス」という現代語辞典があります。
その、時事問題をあつかった「解体新書」に
『教育は、地方、現場に委ねてこそ生きる』を執筆しました。

 ネット上の有料サイト(月額210円)なので気が引けるのですが、読んでいただければ幸いです。
http://imidas.shueisha.co.jp/info/bitway/index.html#isp_list
から入れます。

 内容の要旨を紹介します。

■世界の流れは「画一」から「個別」へ

 先進国での教育は、決められた知識を画一的に伝えることから、それぞれの子に合った教育を行う方向に動いてきている。
 個性を尊重するには、単に少人数学級を実現すればよいのではない。授業の方法、教科書のタイプ、生徒への対応などで、子どもが直接見えるところにいる人たちが、判断力と裁量権を担っている必要がある。

■教科書は自由出版、自由採択が大勢

 先進自由主義国では、教科書は自由出版、自由採択が大勢を占めている。

■文部科学省の間接指揮体制
 教育は地方自治が建前であるが、教育委員会─学校のラインへの文科省コントロールが強い。
 次のような問題点がある。

(1)上意下達の指揮体系になっているので、問題があったときに、自律的に発見し自律的に解決する能力に乏しい。

(2)保護者・住民に対して責任を負わない。保護者・住民も学校に対して無責任になりがち。

(3)学校マニュアルに相当するものの多くが法令の形になっている。公務員には法令順守の義務があるので、改善・改革が起こりにくい。

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なべぶたかヒエラルキーか

 学校組織は、役職のヒエラルキーを作って指揮するのが良いのか、教師同士が平等な”鍋ぶた式”がいいのかの議論が1960年代からある。「重層構造・単層構造」論争である。

 どちらも一理はあると思う。
 いじめ事件など、学校としての責任体制がしっかりしていたら、ずいぶんと違うのにということもある。一部の教師がゴネれば、校長がそれ以上のとりまとめのしようがなくなるのも困る。

 いっぽう、上位下達の指揮で学校がお役所みたいになっていたり、上の意向ばかりを気にする”ヒラメ教員”が現れたりするのも、困る。

 しかし、私は、基本的に学校は単層構造のほうが向いていると思う。それは、学校という団体の特殊性による。
 学校の職務のもっとも重要な部分は授業を中心とした教師と生徒の関係そのものであり、それは教師一人一人が担うしかない。教師の人格と識見がものすごくモノをいう。いくら教員同士の連携などと言っても、合同授業ができるわけではないし、授業中の教師を管理職が四六時中視ていることはできない。

 「けっきょく、先生たちにまかせるしかないのです」
 これは、どこの国でもどこの学校でも、校長たちが最後に言うことであろう。
 学校は、教員同士の同僚性を中心にすべきだと思う。だれだって、仕事をやりやすいのは、よき同僚がいることではないか。

 それより気になることは、現在の学校の無責任と非効率を指揮系統の弱さだけに求める論調である。
 公立学校の無責任さは、校内指揮系統の問題ではなく、官営企業の無責任さと同質のものではないのか。社会主義国の官営企業に自主性と判断力がないのと同じである。

 私は、市場原理主義者ではないのだが、昨今の日本の教育改革は、ソ連末期の経済改革とよく似ていると思う。ソ連政府は企業を活性化しようと、綱紀粛正をやったり、企業責任を設定したり、報奨金を出したりしていたがどうにもならなかった。
 キーポイントは学校自治にあり、単なる管理組織強化ではないと思う。
 学校の組織形態は、子どもと親に対してきちんと責任を取ってくれればどうでもよいことだと思うが、それぞれの学校に自由にやらせれば、単層構造に近いところに自然に落ち着くだろうと思う。

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文科省が学校を指揮していないという建前

 教育は専門領域として尊重されるべきであるから、文科省は学校を指揮していない、という建前がある。しかし、「学力」か「ゆとり」かなど、教育の基本方針は、文科省が指揮している。どうしてそれが可能なのか。

 文科省による指揮は役人が監督するわけではない。文科省は、学校の基準を定める法令によって実質指揮を執っている。
 この法令が細部にまで及んでいることが文科省指揮の正体なのである。
 全国の学校の教科時数と教科内容を決定する権限を文科省が持ち、教科書を検定している。学校の組織と運営方法にも詳細な法令を持っている。

 これは指揮ではないという建前が、日本の教育に誰が責任を持っているのがわからなくなってしまう一番の原因である。「ゆとり」だろうが「基礎学力重視」だろうが、立案者は文科省、実行者は教育委員会である。問題があったとき、実質決定者の文科省は責任をとれる立場になく、形式責任者の教育委員会は決定に関与しようがない。それで、多くの教育問題が、うやむやになっていくのである。

 文科省は、出先機関を持たないし、教育システムには代議員制度に相当するものもない。文科省は言わば頭脳だけの存在である。文科省の一存で選んだ有識者たちに相談して物事を決めている。
 そのため、実際に問題が起こったときのフィードバックがきわめて鈍いのである。

 文科省は、「生きる力」とか「学力」とか「いじめ」とか、教育の具体的な内容に関与するのをやめて、教育費などもっと基本的な条件整備に徹した方がよいと思う。

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