カテゴリー「発達心理学」の3件の記事

小学校1年生

 ひさしぶりに小学校1年生に教える機会があった。長らく、高校生以上ばかりを相手に、物理だ英語だと教えていた。
 1年生くらいの、子どもらしい感じ。
 ああ、これ、これ、これなんだと、故郷に帰ったような気分がする。

 まだ依存の中に生きている年齢の、ほわんとした感じ。
 知性と情緒と肉体がまだ分離していない、やわらかい状態。

 マンツーマンだった。粘土細工の人形を使って、ストーリーの世界に招待してみる。その中で、足し算と引き算をやる。
ついてくる子だった。

 そのうち、私といっしょに絵を描いて、自動車を5台描いた。「一つの車にタイヤは4つあるんだ。ぜんぶでタイヤはいくつある?」と尋ねたら、その子が即座に「20」と答えた。
 え? と思って「どうやってわかったの?」と聞いても答えなし。
 まだ、掛け算はならっていない、と母親にきいたのだけど。
 子どもって、わからないことだらけ。

 7,8歳の子を相手にしてよく思うのだ。講義形式の集団授業は、補助的にすべきだ。教育は、さまざまな作業や活動を中心にしたほうがいい。無理矢理すわらせておこうとすると、なにかしらすさんでくる。
 でも、学校は1年生から集団行動を取れることを自明のこととして要求する。教科書と指導要領と慣習のせい。
 そうすると、学校に適応させるために、幼稚園が訓練的になるし、親も一生懸命に集団行動に慣れさせようとする。

 結果として、親からの自立がかえって遅れるし、大事な大事な子ども時代が、浅いものになってしまう。

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大人と子どもの違い

 こどもは大人と違う。どこが一番違うかというと、肉体そのもの、感情そのもので生きていることである。
 子どもに「どうしてそんなことをしたの」と尋ねても、子どもは答えようがないものである。とにかく、やってしまっただけなのだ。だから、子どもが答えたとしても、ひどく公式的だったり、とってつけたような屁理屈になったりする。

 考えで自分を動かすようになるのが完成するのは、20歳を少しすぎたあたりである。
 変化は段階的に起こる。
 まず、9~10歳くらいに大きな変化がある。このあたりから客観的判断が育ってくる。このくらいの年齢から憎まれ口が多くなる。親を客観視し始めたということである。
 14~15歳くらいの変化は非常に大きい。このくらいから、子どもの行動のハンドルを親が握ってしまうことはできない。それまでは、なんだかんだ言っても、結局子どもは親に従うが、このくらいの年齢からは、もう従わない。
 十代半ばからは、大人のロボットになるわけにはいかない、しかし自分で多くのことを学ばねばならない、という重い課題を子ども達は背負う。基本的に、仲間から学んでいる時期である。

 大人は、目標を持ち、それに向かって行動するのが当たり前であり、よいことだと思っている。
 そうではない。

 子どもであるとは、全身を感覚にして生きること。なんでも身体ごとぶつかって生きること。好きなこと、嫌いなことなどで、心ごと生きること。
 そんなことが、子どもの天職なのである。
 子ども時代にこれを尊重しないと、ひからびた結論だけの大人になってしまうのである。

 教育は、子どもと現実に接している人たちが作り出さないといけない。そうでないと、この子どもの天職に沿った教育ができないのである。
 教育システムも、官僚機構が教育の内容や方法にまで立ち入らないようにすべきである。
 そうでないと、すぐに教育は目標管理と評価という方式に落ち込む。これは、子どもの現実に合わないのである。

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子どもの感覚の混乱に理解を

 昨日、車を運転していたときのことだ。
 見通しの悪いT字路を曲がろうとしたとき、左から歩いてくる歩行者と、右手の交差点ミラーに写った歩行者の両方が眼に入った。一瞬、歩行者がほんとうはどこにいるのか、わからなくなった。ほんのわずかな瞬間だが、空間感覚をなくし、パニクッてしまった。
 五十代の後半にもなるので、死滅した脳細胞がかなりあって、実物と鏡像の違いを補正するのに手間取ったらしい。

 子どもに教科を教えていると、子どもにこれと同様のことがよく起こる。
 足すのか引くのか一瞬わからなくなると、パニクッてしまって、しっちゃかめっちゃかになるとか。一生懸命に文字を書いているつもりで、鏡文字になっているとか。同じ漢字の書き間違いをいくら指摘されても繰り返すとか。

 子ども、とりわけ小学校の低学年くらいまでは、まだ基本的な視聴覚や運動感覚の仕組みを作っている最中である。「学校に行く年齢になればこのくらい当たり前だ」と思われていることが、実は当たり前ではないことがよくある。これは、小学生に限らず、何歳でも起こっている。

 そこで、とくに危ない教育上の注意点は、こどもの感覚が混乱していることがわからなくて、叱ったりプレッシャーをかけたりすることである。すると、感覚の混乱が恐怖と結びつく。恐怖は回避行動を引き出す。そうなったら、たいへんである。ちょっと感覚の混乱が起こると、子どもがすぐに学習を放棄するようになる。それを大人から見ると、たいへんな不道徳であるように見えるから、大人は怒ったり、お説教したりする。それでますます悪循環。

 子どもの感覚の研究、情動の研究、学習の生理学的研究は、ものすごく遅れていると思う。それで、いろんな道徳や標語が流行るのだと思う。「頑張りましょう」が飛び交ったり、精神標語が張り出されるのは、子どもに対する無知を示してるのだと思う。

 特に、子どもと直接に接していない人たちに教育方針を作らせると、社会主義国みたいな計画を立て、賞罰や法令の力で実行させようとする。教師たちは、実情に合わないところを標語でカバーするようになる。
 現在の、文科省と中教審が、カリキュラムと教科書を決めている仕組みは、教育が発達しない遠因になっていると思う。

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