カテゴリー「入試制度」の4件の記事

入試による教育水準コントロールへの疑問

 春は高校別の大学入学者発表の季節です。週刊誌が売り物にしています。

 これがまた、実質的な高校ランキングとなっています。東大を頂点とする有名大学に何人入ったかがたいへん重要なのです。有名大学合格者数が増えたか減ったかで、自分のところの教育方針を考える学校も教育委員会も多いでしょう。

 よく、思うんです。どこかの高校が東大入学者を一人増やせば、どこかの高校が一人減らしているわけでしょう。これは、ただのゼロサムゲームです。お互いの奪い合いをしているだけ。どこかが伸びれば、どこかが凋落します。

 全体の教育水準が上がったのか下がったのか、ということとは関係ありません。自分の学校のことしか考えていないんです。

 日本の教育の質をコントロールしているのは、実はこの高校ランキングです。そしてランクの高い高校に入ろうとする競争があることで、中学の教育もコントロールされています。
 日本は学校査察があるわけではありませんし、生徒や保護者の参加による質の保証があるわけでもありません。大学入学者数がコントロールしているんです。

 でも、競争で人を評価していると、劣者は動機を失います。たくさんの人がやる気を失うんです。

 人がやる気を持つのは、自分のことを理解し、認めてくれる人がいるときです。教育に限らず、どんな分野でもそうです。どんな学力の生徒であっても、自分というものを理解し認めてもらっていれば、学ぼうとします。
 ところが、競争によるコントロールは、認められない生徒達をたくさん生み出してしまいます。現在、教育の舵取りをする立場にいる人たちの多くは、受験競争の勝者たちです。一部のランクの高い学校ばかり見ていて、全部をそうすればいいのにと思っているようです。競争の中では、それは不可能です。

 マネーゲームに支配された経済では、ほうっておくと貧富の格差が大きくなって、けっきょく全体の経済水準が落ちてしまいます。ひどいと、暴動や内乱にゆきつきます。
 いま、教育でそれをやっているのだと思います。

 教育内容も、入試問題で高得点を取ることにどんどん特化してしまい、「人を育てる」という本来の目的から、どんどんはずれていきます。

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大学入試問題漏出事件

 大学入試の問題が、試験時間中にネット上に漏れ、解答を求められたという事件が大きく報道されている。

 そんなに大騒ぎすることかなあ、と思う。
 このカンニングはすぐに明るみに出てしまう。やった本人が誰かもバレやすい。拙劣なカンニングだ。「ある受験生が携帯を使ってカンニングを試みたが、ネット上に公開で答えを尋ねたのですぐにバレてしまった」という、お笑い記事なのだと思う。

 それなのどうしてこんな騒ぎになり、コブシを振り上げることになのだろう、むしろそれが不思議で考えてみたくなる。
 もっと、巧妙にやれば、携帯とネットを利用して何が起こるかわからない、という不安。それもあるかもしれない。

 でも、やはり「入試は、公正かつ厳格に行われなければならない」から、こんな騒ぎになるのであろう。

 しかし、しかしである。
 ほんとうに入試は公正かつ厳格なほうがいいのであろうか。よく、考えてほしいと思うのだ。入試が公正であれば、人を見分けることができるのか。
 カンニングをしていいという意味ではない。そうではなくて、入試の意味を、もっと深く考えてほしいと思う。

 なぜ、入試が公正か厳格であってほしいのか。

 どんな入試をやろうが、人のほんとうの能力を見ることなど不可能である。おおよそのことの目安にはなる。だが、どんなに試験方法を工夫したところで、その試験方法に合うかどうかを見ているだけであり、まして、本人の将来性などわからない。それは教育界の常識であろう。
 ほんとうの能力などわかりっこないから、代用としてペーパーテストをしているにすぎないのである。


 入試の公正さ、厳格さが求められるのは、その大学の質を維持したいからとしか思えない。一流大学に、一人でもカンニングで入学したとんでもない学生がいると、その大学全体が信用を失う。特に大学関係者とその大学のOBは、大学の質の維持に敏感であろう。
 それから、「私達の指導に従って勉強すれうば報われる」とする、高校や予備校の関係者であろう。そして、その指導に従って労力を投資し、「まじめに勉強した者が損をするのは許されない」とする受験生であろう。

 ようするに、既得権益の維持ではないか。
 ○○大学卒ということをレッテルだけで通用させたい。一人一人を見なくてもいいようにしてほしい。レッテルを得た人たちの基盤を揺るがしてほしくない。大学を目指す人たちの希望を挫いてほしくない。

 入試が公正かつ厳格であるほどに、受験生を選別しレッテルを貼る作用が強くなる。その入試方法に合わせた勉学が流行る。学びが、歪曲される。いわゆる入試の弊害が大きくなるのである。

 「まじめに勉強すれば報われる」ことを大事にしたいという意見もあるだろう。しかしそれならばむしろ、入試主義をとるより、絶対点数によって入学資格を得る方式か、内申一本にすることを考えるほうが効果的であろう。

 私は、競争入試廃止論者である。

 競争入試なしで、たかい科学と文化の水準を維持している国が現実にたくさんあるのである。スウェーデン、フランス、ドイツ、オランダ、デンマーク‥‥‥

 教育を「選抜」にしてはいけない。
 学びは、人々の喜びであり基本的人権だ。学ばない人は没落する。学ばない社会は没落する。それだけのことだ。選抜されるための競争など、じつに、せせこましい。

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知性なき達成と頑張り

 ときどき、何の理由もない幸福感がやってくることがある。すべてが静かで、すべてが意味をもっている状態。その中からふっとはじめたことは、結果を気にすることなくただ物事を見て行うことができる。
 その幸福感の中に、明晰さがある。明晰であることを阻むのは、欲と恐怖だ。大人でも子どもでもそうだ。

 達成したときの喜びがある。しかし、それは、幸福とはまた違うのだと思う。
 大会での優勝した感激のようなもの、試験で好成績をとるようなものは、興奮に近いものだ。その時は楽しい。有能にもなれる。が、達成し終わればむなしさの反動がやってくる。達成の過程で、他のことを振り捨てるから、知性と感受性の鈍磨が起こる。

 なぜ、教育がこれほどまでに「達成」にこだわるのか。
 もっと鋭敏な教育はできないのか。知性の動き、感受性の動きそのものと向き合うことはできないのか。歴史を教えても数学を教えても、生徒に優越感や劣等感で動くようにさせたら、その生徒の知性を損なっているのではないか。

 教育を、達成目標を掲げて努力させる体系とすべきではないと思う。
 少なくとも、そうでない教育をしたい人が、独自の教育をできるようにすべきだと思う。

 官僚統制された教育システム、進学競争による教育水準維持。
 この二つが教育を独占すると、どうしても教育が、何かを達成させるために生徒に頑張らせる体系になってしまうのだと思う。

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入試をそのままにして塾を批判する

 民間人校長藤原氏で有名な、杉並区の和田中が、有名進学塾を夜間に学校内で開くことにしたことについてさまざまな議論が為されている。
 「公立学校という場で授業料を取っていいのか」
 「中学を受験教育の場にしてはいけない」
 「エリート教育になってしまう」
などなど。

 しかし、中学になったら、大半の子が塾通いをしているのが現実である。その理由は、内申書のために定期試験の対策をとる必要があるのと、高校の入学試験への対策である。

 進学のための競争入試をそのままにして、塾通いの弊害を語っても、塾通いがなくなるはずがない。問題は、塾通いをせざるを得ない事情にある。藤原氏は、現実が良く見えているのだと思う。

 学校と教育行政側は、入試制度に手をつけない。手をつけないまま、受験教育を批判する。建前と現実があまりに乖離している。偏差値や塾が生まれるのは入試制度があるからだということを忘れて、表に現れた症状だけを批判していると思う。

 欧米のほとんどの国で、高校入試でムチを入れて勉強させるようなシステムは存在しない。受験で追い立てなくても、高度な産業・社会システムは維持できるのである。

 進学競争によって教育システムを成り立たせるのは、発展途上国に見られる現象である。
 いつまでも、勉学意欲を競争入試に依存しているから、燃え尽き層、落ちこぼれ層が大きくなり、社会不安の元になるのである。そろそろ根本的なところから考える時期に来ているのではないか。

 選別に頼るのではなく、それぞれの人が天職にたどりつくことを援助する教育に転換すること。つまり、『教育への権利』、『学習権』というようなものを基盤にして、いかなる人にもその人に合った教育が提供されるようにすること。その方向へと、大きな舵を切る必要があるのではないか。

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