カテゴリー「賞罰原理と教育」の7件の記事

ささやかな恐怖。学校で植え付けられた

けさ、自分がいつもひたされていた恐怖のことを意識できていました。
ささやかな恐怖。何十年もずっとひたされてきたものです。
身体全体で感じる、ちょっとすくんだような感じ。子どもが怯えて、物陰に隠れるような感じ。

この恐怖があるから、いつも考え事をします。その考え事をするということが、物陰に隠れること。
他人から見てどうであるか
自分が承認されているかどうか
いまのままで自分ではだめだと考えたり
もっとほんとうの自分があると考えたり
あのときああすればよかったと悔やみ
こうなったらどうしよう、こうなったらどうしようと、いつも思いをめぐらす

この恐怖で、
つい、自分を自分以上に見せたり
よく知らないことを吹聴したり
逆に、ひどく卑下したり。
他人の欠点をいつも見つけ
なににつけても論評します。
言葉を頭の中で回転させているときは、他の事は全部忘れてしまえる。

間違えるのが怖いから、誰か権威者の言ったことだと注釈をつけるし。それも、誰もが認める権威より、ちょっとマイナーな権威を利用するし。

20代のときに、他人から見てどうであるかを気にするのがいやになって、気にしないと決意したら、他人に迷惑ばかりかけるKYになってしまったし。

この恐怖、学校で植え付けられています。
家庭ではもっと自由だったし、親には言いたい放題が言えました。恐怖にはならないです。小学校に行きだしてから、恐怖に満ちた内面生活が始まったことを、よく覚えています。3年生くらいになったら適応でき、明るくしていましたが、この恐怖があったために、かえって明るかったのだと思います。

集団生活には、たしかにそれなりの取り決めや規律が必要です。
でも、先生たちは、それを、恐怖や辱めに訴えて植え付けようとしていた。
授業を成立させるためには、先生たちは、手段を選んでいなかった。
自分勝手で暴力的な子どもたちは、押さえつけられただけで、なにがまずいかの感受性を発達させてはいなかった。

私は、学校の雰囲気に怯えて、何をするとしかられるか敏感に察知している子どもでした。

この恐怖は、ささやかではあるけれど、虚栄や、偽善の根源になってます。

こういう恐怖で自分が動いていることは、考えればわかることだし、他人を見れば一目瞭然です。でも、感じ取れないうちは解放されない。
それをやっと見つけた。説明ではなく、言葉に置き換えてしまうのではなく、身体の実感として。

とりとめがなくてすみません。思いつくままに。

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放射線、原子力、核兵器

 大地震のあと、原発と放射線がどうなっているのかを、固唾をのんで見守ってきました。放射線と原子力のブログを別に作りました。どうか、こちらもご覧ください。
http://economyhuman.blog88.fc2.com/

 原発は、もうやめたほうがいい。

 でも、もっと大事なことがあります。核兵器の廃絶です。
 原子力発電は、原子力を平和に使おうとしています。たまたま想定不足で事故が起きたけれど、目的は発電だった。

 ところが、核兵器は、わざわざ人に危害を加えるために作ったものです。
 核戦争が起きたら、勝者などいない。すべての人間が苦しむだけです。人類全滅の可能性もあります。
 でも、核兵器は廃絶できない。「自分が使わなくても、相手が使うから」、怖くて手放せないのです。それほど、人類は深く恐怖にとらわれています。

 核兵器に対して、反戦運動は無力です。平和のための戦いが、平和をもたらすことなどありえません。
 どんなお説教も平和条約も無力です。それで、戦争がなくなるくらいなら、とっくに世の中から戦争はなくなっています。
 人類が恐怖にかられているかぎり、戦争はなくなりません。恐怖にかられた人間は、どんなことでもしてしまうのです。

 教育だけが、人類を恐怖から解放する可能性を持っています。
 あまりにも単純なことです。子どもを恐怖に訴えて動かそうとすることをやめましょう。賞罰、競争、脅しに訴えた教育をやめましょう。子どもに対する、心ないド突きやからかいをやめましょう。

 恐怖がないときに、人間は、事物とも他人とも、心を通わせて生きることができます。それは、欲しい物に目を血走らせたエネルギーではありません。理解と共感の中に、とてつもないエネルギーがあります。

 そのエネルギーを知っている人は、原子力より大きなエネルギーを手に入れています。

 

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恐怖に対する条件反射

大人でも子どもでもそうだが、逃げてばかりいる思考、融通の利かない思考、聞きかじりの結論ばかり蓄積している思考は、恐怖に対する条件反射である。

自分を観察すればわかる。生徒を観察していてもわかる。ただし、言葉での結論なしに、直接に知覚する必要がある。

恐怖自体はモヤモヤとした、身体全体で感じる身体感覚である。言葉ではない。そのモヤモヤを一瞬感じ取ると、たちまち、さまざまな条件反射が起こる。これは、あまりに素早く起こる条件反射なので、恐怖によって引き起こされたことが非常にわかりにくい。

話をそらせる。
りっぱなことをしゃべりはじめる。
お決まりの楽しいことを思い出す。
何かをいじりはじめる。
お決まりの解決方法を思い出す。

そのようなことが起こる。
これは、恐怖自体を感じないですむように、気持ちが楽になることを記憶の中から呼び出しているものである。自動反応となっている。

これが、生徒が授業に集中しない原因である。原因は他にもいろいろあるが、もっとも大きなものの一つだと思う。
これはまた、大人同士のコミュニケーションがうまくいかない大きな原因の一つだと思う。大人は、恐怖の引き金が引かれると、たいていは一方的にしゃべりまくって、相手の存在が見えなくなる。

小学校にあがる頃には、多くの子どもが恐怖を抱え込み、たくさんの条件反射で反応している。教育困難と呼ばれる子供たちのかなりがこれだと思う。

教育にできることは、この条件反射を解きほぐしてやることである。親切に暖かく、かつ逸脱をたしなめて、物事そのものを見るよう援助することである。おきまりの恐怖の回路にはまりこみそうなときに、ちょっと手をさしのべることである。恐怖からやることは、上の空であり、型にはまっている。しかし、その型に落ち込まずに、物事を意識的に好感をもって行うと、条件反射回路が消えて、自由意思が使いこなす道具の一つになる。
それが教育のすべてということではない。しかし、大事な一部である。

同じようなことをしているようでも、これを厳しく、批判的に、逸脱に罰を与えて止めるようにすると、逆効果になる。そのつらさを逃れようとして新しい条件反射ができるのである。

教育にとって、知性と暖かさがどれほど重要であることか。
子どもが、木登りをして落ちても大丈夫と感じていることが、大事なのだ。

「何歳までにかくかくができるようになること。脅しても辱めても競争させてもかまわない」
これが、逃避的で、頑なで、無力な知性をたくさん産み出してしまう。

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威圧と放任

 先週、「子どもたちが威圧されていること」を書いたが、子どもたちが学校ですさんでいくのに、別なコースがある。

 これは、先生がリーダーシップを発揮することができない教室で起こる。子どもがとても他人迷惑なことをしたときに、「だめだよ」と注意することができない。そのうち、教室の中での、他人に迷惑な行動がどんどん広がる。だんだんと、教室の中が力づくの世界、押しの強さがまかり通る無法地帯になっていく。

 その中で、子どもたちはなにが正しいのやらわからなくなり、他の子どもたちに圧迫される。まわりで起こっていることがあたりまえのことだと思い、自分もけっこう他人迷惑なことをする。

 このコースは、先生の直接の威圧でひしゃげていくのではなく、子どもどうしの力ずくの世界によってひしゃげていくのである。

 教育に直接たずさわっていない人たちは、教育問題があると聞くと、
「管理しすぎるからそうなるのだ」

「規律がないからそうなるのだ」
のどちらかの答えを出すことが多い。
 しかし、実際はどちらもあるし、そんな単純な問題ではないことが多い。

 でもなによりも、あの学校の雰囲気には、基本的に威圧的なものがあると思う。その雰囲気の中で緩めると、子どもたちが逆襲に出たり、わがままになったりする。
 学校で当たり前になっている、講義形式の授業を次々とこなしていくタイプの教育にも、基本的な無理があるように思う。あれは、大人なら通用する教育スタイルを、そのまま子どもにも持ってきただけだ。その基本的な無理から、教師側も無理を重ねるようになって、権力型や放任型が現れるのではないかと思う。

 もっと、家庭的な雰囲気が必要だと思うし、教科書より作業が中心になったほうがいい。個人として集中する時間、遊び的な時間、祝祭的な時間などでリズムを作っていったほうがいいと思う。

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子どもたちが威圧されていること

 教育でいちばん大事なことは、子どもが取り繕わなくて済むことだと思う。分からないことは分からないと言い、木登りして落ちても叱られないと感じていることだと思う。

 普通の学校にこれが乏しい。先生たちがあたりまえと思っている学校文化は、子どもたちを威圧して成り立っていると思う。
 このことの実証的なデータをとりたいが、学級内に入って観察はできないので、私が述べるのは、学校外で子どもたちと接することからの推論である。
 とくに重要なのは、学校に入学しての、最初の2週間くらいである。ここが決定的な時期である。この間に、生徒への威圧が起こっていると思う。

 あの「生徒一同、起立!」」というような号令体質。
 教室で、なんとか座らせておこうとするための、さまざまな精神的罰、はずかしめ。
 「生徒になめられないようにしよう」とする、先生たちのさまざまな工夫。一罰百戒をねらった叱責。
 これらが、教育機関を成り立たせるための最低線を超えてしまっていて、子どもたちに無用の怯えや緊張をもたらしているのだと思う。

 もっとも手こずる子どもたちでもおとなしくなるようにできているのだから、気の弱い子どもたちには、大きなストレスになる。このストレスは、先生からは見つけにくい。学校では良い子にしていて、家に帰ってきたとき、親に対するぐずりやわがままになるのである。子ども本人も、その理由はわからないままやっている。親も原因がよくわからないまま、手こずるのである。

 親戚、知人の子ども達が育つのをずいぶんと見たが、例外なく、小学校に行くようになると、大人の話に素直に耳を傾けなくなった。揚げ足取りや茶々を入れるのが多くなる。話を逸らせるのが多くなる。強い刺激で振り回してもらうような遊びを好むようになる。おおむね、子どもたちが騒々しくなる。

 こういうのは、恐怖があったり、威圧されてしまったときの、二次的な症状だ。荒れ、すさみの症状の一つだと思う。

 この状態の中で、単に、子どもを自由にしようとか、のびのびさせようとすると、収拾のつかない状態になりやすい。学級崩壊は、自由主義型の先生のほうが起こりやすいものである。

 二次的な症状が出て来たのを、”元気な子どもたち”と捉えることが多いが、それは違う。

 子どもがほんとうに元気なときの特徴は、一心不乱さと、天真爛漫さのようなものだ。
 安定した子どもは、事物だろうが、大人の話だろうが、注意力のすべてを傾けてその中に入り込んでくるものだ。そのときに学びがあるし、その学びは人間全体に深く染みこんでいくものである。テストで、期待された答えを出すのとは違う、もっと深い学びである。

 天真爛漫さは、いっさいの先入観がないときに現れる。それは、権威、権力による圧力が痕跡を残していないということだ。

 小学校に適応できるようにするために、幼児教育が訓練的になる。
 中学校に適応できるようにするために、小学校教育が抑圧的になる。

 逆だと思う。
 適応しなければならないのは、小学校や中学校の学校文化のほうだと思う。その文化は、当たり前の空気になっていて、先生たちが気付いていないと思う。
 その背景にはまた、授業遂行が至上命令となっている官僚機構的学校がある。学校は、教育学や子どもの研究をもとにして作られたのではない。官僚機構が、国家や産業の発展のために訓練的な教育機関の法律を作り、施設を建て、人を雇用して運営させているものなのである。

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麻薬としての賞罰、競争

 賞罰、競争に訴えた教育の最大の問題は、それが麻薬的な性格を持っていることだ。一度これで子どもを動かすと、やめるにやめられなくなるのである。

 ほんらい子どもは、アメやムチに訴えなくても学ぶ。それは、7歳までに、子どもがどれほど多くを習得するかを見ていればわかる。ほんとうは、これは一生持続するものである。

 ところが、大人の強い干渉や、賞罰や競争に訴えると、この自然な学びの感覚が弱っていく。
 大人からの叱責や賞罰に比べれば、子どもの持つ好奇心感覚は微弱なものだ。

 テストや入試や強制的授業が続くうちに、子どもの内面の感覚が抑圧される。子どもが刺激依存型になっていく。「子どもは、無理にでもやらせないと学ぼうとしない」というのが事実になっていく。
 よく、刺激の強いビデオゲームに子どもがのめり込むことが問題とされるが、テスト対策の学習は必ずしも無味乾燥ではなく、思考のおもしろさは十分にあって、ゲームによく似た性格をもっている。刺激への依存が共通している。

 賞罰、競争に訴えた教育がよくないことがわかっていても、それをやめると子どもはたいてい享楽的な遊びに走る。自主的に生きるには繊細な感受性が発達していなければならないからである。

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教育ドーピング

 私が教育ドーピングと呼んでいるものがある。
 結果を出したいために、副作用の大きい手段に訴えること。
 賞罰、競争、野心・羨望によって学習させること。

 薬物ドーピングは競技での成績を出すが、肉体を損ねる。それと同じである。教育ドーピングは知性を損なう。

 教育ドーピングによって、一時的な結果を出すことができる。ところが、副作用として、自主性の喪失、答えを憶えただけの浅薄な知性、自分だけよければいい生き方を生み出しているのではないだろうか。

 いかに現実の必要に迫られようと、ドーピングはドーピングである。いったんドーピングに手を出すと、自発的な学習能力が失われるから、以後ずっと強制的な教育に頼らざるを得なくなる。
 特に現在の中学校全体が、高校入試ドーピングにどっぷり漬かっていると思う。

 賞罰、競争、野心・羨望によって学習させることは、現在、当たり前のこととされているが、やがて、それが犯罪と見なされるような世の中がやって来るだろうと思う。
 これは、時々の世間的利害を一切はなれて、人間の感受性と知性の発達を観察すれば、自然に出てくることだろうと思う。

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