カテゴリー「道徳教育」の9件の記事

道徳教育の無責任体制

道徳を教科にすることに反対です。

むかしむかし、ある国の王様が、すべての人をよい人にしようと思いました。
王様は、それは子どもたちの教育から始めなければならない思いました。王様は教育にくわしい学者たちを呼んで
「何を教えれば、よい人間になるのか」
と尋ねました。
学者たちは、頭を寄せ合って一生懸命に考えて
「自主、自立、自由と責任、向上心、個性の伸長、希望と勇気、相互理解、寛容、....」
とたくさんのよいことを言いました。
「どうやってそれを教えるのか」
そう王様は尋ねました。学者たちは
「それは私たちは知りません。私たちが知っているのは何を教えたらいいかだけです」
と言いました。

そこで王様は大臣に、
「どうやって、こどもたちによいことを教えたらいいのか」
と尋ねました。大臣は
「法律を作って、学校の先生たちに教えさせればいいのです」
と言いました。
「先生たちはどう教えたらいいのかね」
と王様が尋ねると、大臣は
「それは私も知りません。でも、法律で目標を決めて、あとは先生たちが工夫しなさいと言えばいいのです」
と言いました。

そこで王様は先生を呼んで
「どういう工夫をすればいいのかね」
と尋ねました。先生は
「そんな難しいことは、私は知りません。でも教科書を作ってもらえれば、その通りに教えることはできます」
と言いました。

それでその国がどうなったか、ですって?
子どもたちが大人の真似をして、みんなが「誰かさん任せ」にする国になったとさ。

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おバカさんにならないでね

あのね、世の中を見ていて、素晴らしいこともたくさんあるけれど、ああいうことになってはいけないな、ということもたくさんあるよね。

その中でも、これはほんとうに不幸をもたらしてしまう、というがある。それは、人々が集団を作って対立し、憎しみ合い、ののしりあい、殺し合うことなんだ。

たくさんあるよね。イスラム教もキリスト教も平和を言っているよ。でも、イスラム教徒とキリスト教徒は、昔からたくさん殺し合いをしてきた。

国同士の戦争がたくさんあった。いまも、たくさんある。自分の国の悪口を言われると殺したくなるんだ。それで、ほんとうに殺し合いをはじめてしまうんだ。

やっている人たちは、自分の国が絶対に正しいと思っている。それが、相手から見ると、すごいおバカさんだってわかる。それで、相手をののしる。ほんとうは、どちらもおバカさんなのにね。

遠くの国のことを見ていると、どちらもおバカさんだってこと、よくわかるんだけど、自分の国のことになる、頭が熱くなってしまう人が多いんだ。頭が熱くなった人たちは、自分の国の人は、自分の国に味方しなければいけないって、思うんだ。子どもにまで、「自分の国を愛しなさい」って言うんだ。

もし、お父さんとお母さんが喧嘩して、「私の味方だと言いなさい」って言ったらどうする? 悲しくなっちゃうよね。「もっと賢くなって」って、言いたくなるよね。

だれの味方をするか最初から決めたりしないで、どんなこともよく考えないといけないよ。それが賢いってことなんだ。

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利己的な人間を育てたくなかったら

利己的な人間を育てたくなかったら、理解と共感の場で育てることです。

利己的な人間を育てたいのなら、いつもその人の欠点を見て「おまえときたら」と指摘することです。

賞罰で行動を誘導していると、自分の利害しか考えない人間を育てます。

自分の利己主義から抜け出したいなら、利己的な行動を取るときの裏にある恐怖を抱きしめることです。

なんか、えらそうな箴言になってしまいました。
利己的というのは、その人が悪い人だということではないんです。
恐怖や不安にかられた行動を取っているだけなんです。


 

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自己知と感受性

 自己知というのは、一生続く、もっとも価値ある学びなのだと思います。
 自分がどのような動機で動いているのか、それは全存在、全感覚を使ってのみ、理解できるものです。言語でのみ自分を捉えていると、どんなに反省したつもりでも無意識領域が大きくなり、自己知が浅くなります。

 その例です。
 さっきちょうど、あるメーリングリストに思うことを存分に書いていて、自分がちょっと調子に乗りすぎていないか、みなさまから「あいつ一人のための場じゃないぞ」と言われそうな気がして不安になりました。

 ....と書けば、頭で考えて自己反省したみたいです。
 そうじゃありません。実際に起こったことは、言語を介していないのです。

 「自分がちょっと調子に乗りすぎていないか」は、他人が私に対して、あいつめ、と思う場面を瞬間的にイメージしています。思い浮かべていますが、言葉としては何も浮かんでいません。思考の一種ではありますが、野生動物は、たぶんこんなふうに思考しているだろうな、という思考です。

 そうしたら、条件反射的に、胃のあたりに不快な感じがします。まずい、やばい、という感じです。これは言語が出て来るよりはるかに速く、瞬間的に起こります。

 それは、サッカーの試合をしていて、あっちから敵が来る、と見て、やばいと瞬間的に向きを変えるようなものです。言語の介在なしに、きわめて短い時間で起こります。

 これは、私の中にできている条件反射です。生まれて育ってくる過程のどこかで刷り込まれています。
 この条件反射があるために、わたしは臆病です。人前で遠慮が多くてのびのびしない感じになります。でも、ときどき、意識的に臆病さを乗り越えようとして、こんどはほんとうに反感を買うようなことをしてしまいます。
 と同時に、この条件反射は日本人の文化そのものでもあります。他人の中にも、同じものを見つけることが多いのです。

 場面を想定しては、条件反射的に反応する。
 私の中に、この、膨大な堆積があります。でも、私はそれに気付かないまま行動しています。

 人間の自由を奪っているものはたくさんありますが、その最大原因は、この条件反射だと思います。

 子どもは、このような言語を介さない世界を生きています。感受性によって生きているのです。
 ですから、子どもが何かしたときに理由を尋ねてもわかりません。子どもは、ただ、そうしただけなのです。でも、子どもにとって瞬間瞬間の判断というのはちゃんとあるのです。それは、子どもを見ていれば、わかることです。

 問題は、これがただの条件反射であるか、感受性で受け止めた上での主体的判断であるかなのです。

 恐怖に訴えて結果を出させるだけの躾は、条件反射作りです。その子の自由を奪います。その子は、自分の中の何が起こっているかのプロセスに関与することなく、さまざまな気分が湧き出てしまうのです。それがなぜか理解できなくて、他人のせいにしたり、自分のせいにしたりします。

 そうではなくて、どんな感覚も避けることなく、怖いことを怖いと感じ、やるせないことをやるせないと感じる、そのような感覚に対する全面的受容があれば、その子は判断に基づいて生きることができます。

 あるがままを認める愛が必要なのです。それが人間を自由にします。

 言語過程の外側にあるが、生き物としては当然に感じていること、それを感じ取れることが、知恵そのものなのです。

 場面を想定しては、条件反射を起こしていること。それはあまりに素早く起こっていて、言語でフォローできない。
 そのため、私は内面で何が起こっているのか知らないのです。

 これは、そのプロセスを感じ取ることができると、消えます。感じ取れれば、条件反射ではなくなります。子どもの時の負の刷り込みが大きかったとしても、誰でも自由になることができます。自分の中でほんとうに起こっていることを感じる勇気さえあれば、自由になることができます。

 これは不思議なことなのですが、全感受性をあげて、一切の言語化をせずにあるプロセスを生きることができると、それは条件反射ではなくなって、私の自由を邪魔しなくなるのです。
 これは、大人にも子どもにも共通です。

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祈り

子どもたちが、罵声を浴びることなく育ちますように。

子どもたちが、怯えることなく育ちますように。

子どもたちが、他人と比較されずに育ちますように。

子どもたちが、どんな種類の兵士にもされませんように。

子どもたちにとって、世界が理解可能なものでありますように。

愛と理性が、つねに子どもを取り囲みますように。

 

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知らずを知らずとなす

 倫理道徳の当たり前であり、知識・技能の当たり前であること。そして教育の当たり前であるべきこと。

 「知るを知るとなし、知らずを知らずとなせ。これ知るなり」

 ところが、学校ではテストで点数を付けられるから、丸暗記でも、あてずっぽうでも、点を取ることが推奨される。とくに中学以降の常識は、「知らずとも知るとなせ。これ利口なり」である。
 自分はまったくわからないから、と白紙で解答を出す生徒は、「せめてなにか書け。まぐれあたりということもある」と叱られるだろう。

 でも、知らないことを知っているとしたときに、人間の精神は大事なところで崩れていく。

 世の中にでると、なんでも立派にしゃべれば通用する。
 人にひけらかす気がないとしても、きれいな説明を持っていると不安がなくなり、対処できる気になる。
 役職につくと、知らないことでも知っていると見せなければならない。

 それで人間たちが、真理感覚を失い、崩れていく。

 試験勉強に励む受験生に接したり、
 レポート書きをする大学生に接したり、
 「私の若い頃には...」と教育に注文をつける実業家に接したり、
 中教審の答申を読んだりすると、
 知らずを知らずとなすことは、大事だなあと思う。

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生徒の自殺への責任の取り方

 08年3月25日に、東京都板橋区のマンションで小6の男子が飛び降りて死亡した。この子は卒業式の「門出のことば」で「大好きな○○小学校」と言うところを「大嫌いな」と言ってしまった。式後、校長が「何であんなことを言ってしまったの」と尋ねると、「緊張して間違ってしまった」と答えたと言う。遺書のようなものがあり、自殺とみられる。(朝日新聞(東京)3.26・夕刊)

 新聞報道に誤りがないとしてだが、(事実が複雑な場合も、おうおうにしてあるから)、私はこの校長に、業務上過失致死を問うべきだと思う。
 校長に悪意はまったくない。校長もたいへん苦しんでいるであろう。しかし、このような事故は再発防止を最優先すべきである。量刑はもっとも軽いものがよい。しかし、不適切な言葉によって業務上過失を問われることがあることを確立すべきだと思う。

 これは、交通整理の指示が不適切で車を谷底に転落させてしまったとか、電気工事で電線の被覆が不十分だったので火事になってしまったとか、そのような事柄であると思う。悪意がまったくなくても、知識や訓練が不足していてはいけないのである。

 業務上過失を問われるには、それが予見可能であり、回避可能であったことでなければならない。
 校長先生という立場の人が、大きなミスをした子に「何で...」と尋ねたのである。いくらその気がなくても、詰問されたと受け取られる可能性があることは予見できるのである。

 「何で」とか「どうして」とかという尋ね方は、危ない言い方である。言ったほうは「単純に理由を尋ねた」、言われたほうは「詰問された」となりやすいのである。これは、カウンセリングのイロハである。普通の人にこの知識を問うことはできないが、教員という職業にたずさわる者には要求すべき知識だと思う。防災訓練が行われるのと同様に、教員に対する訓練が為されていなければいけない。

 従来、このような事件は、「その子が、特別に感じやすい子であった。いろんな特殊事情が重なった」として、学校側の責任が問われないことが通例である。私はそれではいけないと思う。こんなケースなら、ちょっと繊細な子には、誰でも起こりえるではないか。
 とにかく、学校で起こってはならないことが起こったのである。「その子が特別だった」で済ませていたら、教育の場としては、道徳がひどく退廃していると思う。

 業務上過失という刑事責任までは問えないケースであるかもしれない。それでも、管理者側は道義的責任を取るべきだと思う。
 学校に起因する生徒の自殺が起きたら、校長と教育長は責任を取って辞職するという慣習を作るべきである。直接の過失がなかったとしても、そうすべきである。起こってはならないことが起こったのだから、最高責任者は防止できなかったことの責任を取るのである。そのような姿勢があったときに、具体的な再発防止の知恵が切実なものとして教員や保護者から沸き起こるであろう。

 「その子が特別だった」と学校や教育委員会が済ませてしまうのは、刑事責任や賠償責任の問題として正当であったとしても、私は「学校というのはなんか退廃してるなあ」と思う。
 
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欺瞞を生み出すもの

 ここ2、3日、自分に影のようにつきまとっている恐怖を感じとれる。その中に、多くの発見がある。でも、「見つけた」と定式化したら、たちまちその真実が逃げていってしまうようなもの。
 それでも、少しはまとめたり、他人とシェアしたくなる。言葉にしたものは、すでに抜け殻ではありますが。

・ この恐怖がふっと変形して、慰めになる理論や希望的観測を生み出そうとする。それが自己欺瞞の原因。

・ 自分がいつも頭の中でおしゃべりしているのは、この恐怖感をまぎらすためのテープレコーダーのようなもの。

・ 人といる時に、この頭の中のおしゃべりをはじめると、人の言っていることをまったく聞いていなくなる。これが私が勉強ができなくなった原因。

・ 抽象的に立派なことや正しいことを考えたり言ったりするときは、この恐怖に動かされている。

 などなど。

 この恐怖は、孤立感と過剰適応に結びついているもので、小中学校で身につけたものだと思う。決して学校のせいだけではないが、学校はシステマチックにこの恐怖を培養していた。

 恐怖によって培われた美徳は浅薄なものだ。後年、生きづらさやノイローゼなどの源になる。

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倫理・道徳の教条化

 前回、小学生のときに威圧された恐怖が甦ったことを書いた。その後、その続きみたいに湧き起こるものがある。昨日は、小学生のときにずっとひたされていた、学校での怯えが甦っていた。日中でも感じていた。
 ああ、これこれ。この気分でいたのだ。

 私の怯えは、パニックのようなものではない。学校の雰囲気に対していつも感じていた怯えである。学校の生徒管理全般から生じていたものだと思う。私は、先生に叱られないように気をつけていた。私は、問題のない良い子だった。でも、ほんとうに善良だったのではなくて、適応していただけだ。いちおう明るいほうの子だったが、怯えと優柔不断をひきづっていた。
 私は内弁慶で、家庭ではこんなに萎縮していなかった。

 大学生になってから、いつも怖くて優柔不断な自分がいやになった。自分の持っている善悪観は、怖さから従っているだけの浅薄なものだと感じた。すべての善悪は疑わしかった。
 恐怖にまけてなるものかと、恐怖を感じないようにし、善悪は自分で決めることにした。そうしたら、私はモンスターの一種になってしまった。自分の頭で考えたことで行動し、場の空気が読めず、人に嫌がられていることも読めなくなる。

 倫理・道徳こそ、子どもを威圧するのではなく、発見的な手法で伝えてほしかった。倫理・道徳こそ、憶えるべき箇条書きになってはいけないものだと思う。
 でも、国が徳目を書き出し、現場がそれを教えることになっている体制があるのだから、どうしても倫理・道徳は教条になっていく。

 これも、私が制度問題を言い続ける理由である。

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