カテゴリー「上からの教育改革」の4件の記事

上からの教育改革の限界

 90年代から始まった”教育改革”に大きな限界があった。

 改革を発想する人間と、行動する人間が別々であることである。政府主導の教育改革会議が作られ、方針を出して、公務員組織に実行させる。文科省も、遅れをとってはまずいから、同じようなことをする。

 だから、ダメなのである。
 言い出した人間は、言ったきりでそのまま。審議会でけっこうなプランを作れば、それで責任を果たしているのだから。
 動いた人間は、報告書を出して、ほっとしてそのまま。形を作ればそれで責任を果たしているのだから。

 だから混乱ばかり作り出す。「教育改革の幻想」(苅谷剛彦)なんて言われるのである。

 そもそも、改革というのは、問題を抱えている人たちが、「こんなことで困っています」とか「こうしたらいいんじゃないですか」と動き出して、成立するものである。だから、行政の仕事は、困っている人たちに道がつくようにしてあげることだ。それが民主主義国というものだ。

 それなのに、教育ということになると、政府も文科省も、自分が問題を解決してやると一手に引き受けて、立派な旗を振る。
 うまくいきっこないのは、当然。

 近年の動きの中で、なにかしらを本当に改革したなと思われるものは、言い出した人が実際に身を挺して人々によびかけ、流れを作り出している。「学びの共同体」の佐藤学とか、「TOSS]の向山洋一とか、「不登校」の奥地圭子とか、「シュタイナー教育」の子安美智子とかである。
 他に、「この人は確かに何かを作っている」と感じられる人たちは、ことごとく実際に現場から動いている。

 けっこうな理念があって、それを官僚機構が率先して実行し、みなが力を合わせて立派な教育ができる。この美しいイメージにとらわれてしまうことそのものが問題なのだ。
 社会主義国が潰れていったのは、美しいイメージに酔い痴れ、問題を抱えた人たちが自律的に動けるようにしなかったせいである。

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ゆとり教育が理念倒れになる理由

 文科省がゆとり教育を言い出したときがあった。
 中身を見て、「やっとこういうことを言うようになったか」とも思ったし、「文科省がやると、制度はいじれないものだな」とも思った。理念だけ変えてなんとかなると信じているようであった。

 具体的に言うと:
・ 「ゆとり」をなくす最大の原因は、受験体制なのに、入試システムに手をつけていない。これだと、中学は高校受験を控えているから、変化しようがない。保護者と生徒も点数取り勉強をやめるわけにいかない。学校がゆとりを持とうとすれば、保護者と生徒は塾へ行くだろう。

・ 「ゆとり」と言うが、授業時数がほとんど減っていない。土曜を休業にしたぶんは、平日に回してしまった。平日の6時間目など、教師も生徒もすでに疲れていて、時間数をこなすだけの消化試合みたいなものである。ドイツなんか、学校は午前中だけである。(PISAの結果が悪いので揺れて、検討されていると聞くが) 

・ 「ゆとり教育」を運用するには、学校と教師の主体性が必要であるが、制度的に学校の独立性が弱すぎる。「ゆとり教育」のような、教師力を必要とする方針は、官僚機構からの指揮では無理である。中教審は、教え方を指示するのではなく、学校が裁量できる時間を増やすべきだった。

・ 学校への権限委譲をほとんどやっていない。大綱化した指導要領だけ残し、教科時数も教科書も学校任せにすべきである。

・ 教員への締め付けが強すぎる。文科省 vs 教員組合の図式で作られた教育行政と学校管理のシステムはが、東西冷戦が終わったのにまだ精算されていない。教師を監督したい施策と、教師の自由が必要な施策の両方をいっぺんにやっている。

・ 学校に、上からいろんな雑用が降り積もる構造に手をつけていない。上がけっこうな事を言うと、現場では会議と書類が増えるだけになる。教育行政改革に手をつけないと、学校はただの下請けにされてしまう。

・ 公立学校はしがらみが多すぎる。新しいことをやりたいなら、チャータースクールのような独立性の高い学校を作り、意欲的な教員にやりやいようにやらせるほうがよい。どこの国でも、教育発展の原動力は「学校を作る自由」である。
 意欲的でない教員のほうが数は多く、それを権力的に動かそうとしても、おざなりなことばかりして混乱におちいる。

・ 「ゆとり教育」の理念やノウハウの蓄積があり、かつ、歴史的な検証を経ているのは、オルタナティブ系の教育(シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、ニール流の自由教育など)である。公立学校の中で、中教審からの指示でいじっていては、発想がひろがらない。オルタナティブ教育学校を解禁したほうが、よほど、文化的なイノベーションが起こる。

・ 検定教科書をやめていない。自由出版、自由採択が主要国の趨勢である。教科書は、現場と出版社のやりとりだけで作られないといいものができない。指導要領に作った「ゆとり」の部分は、教科書会社が使ってしまい、学校は教科書をこなすのに精一杯という状況が変わらない。

 などなどである。その他、いろいろ考えて、「ゆとり教育は理念倒れに終わり、反動を招くことになるだろう」と思った。
 いま、その反動が出る時期になった。

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公教育批判 米国と日本

 米国では、1960年代に公教育に対して批判が噴出する。画一的、権威主義的であることが批判され、公教育を改革する運動が起こるし、民間には草の根フリースクールが雨後のタケノコのようにできた。

 この状況が、1990年代以降の日本とたいへんよく似ている。

 ところが、けっきょく、アメリカでの教育改革で今も大きな規模で残るのは、チャータースクールとホームスクールである。
 アメリカの公教育の自己改革は、いろいろなものを生み出してはいるが、平均的にはあまりうまく行かなかったと見てよい。少人数学級が改革の切り札のように言われたが、厖大な予算をつぎ込んで、その結果はさほどはっきりしたものではない。

 結局、アメリカの場合、改革エネルギーは教育機関の多様化に向かった。チャータースクールは、補助金つき私立学校のようなものであるし、ホームスクールは学校への不信任そのものである。

 日本の場合、この多様化が起こらない。日本では、アメリカより教育の統制がはるかに強い。それで、オルタナティブ系私学や特色の強い私学が出てきて、教育文化を刷新していくことが起こらない。チャータースクールもホームスクールも制度が認められていない。
 そのため、日本では民間からの教育運動がか細い。

 しかも、日本の場合、戦後の55年体制教育システムがまだ終わっていない。55年体制教育システムというのは、教育が東西対立に巻き込まれて、教員に主導権を取らせないようにし、保護者・住民の運営参加権を奪ったシステムである。そのため、公教育の中でも、現場からの問題点フィードバックがとても弱い。

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現場にいない者の限界

 教育改革で、官庁発の改革に特有の限界がある。彼らは、データや報告を元に美しい結論を出し、見事な方針を出し、うまくいかないと、「現場のだらしのなさ」に持って行くか精神論に行く。~委員会、~会議の形を取っていても、同じようなものである。

 書類やデータや、普通の事情聴取では、実情把握が難しいからだと思う。それと、「よい結論を出さなければ」というバイアスのせいだと思う。
 現場にいれば、書類やデータにできるものは、現実のほんの一断面であることがよくわかるものだ。とくに、それぞれの人間を動かしている本当の動機の部分は、書類やデータにならない。しかし、現実を作っていくのは、その見えない動機の部分が大きい。
 教育界は、見えないしがらみによる動機付けの、たいへん多いところである。

 そして、官庁発の改革では、改革を唱導する人間が、自ら情熱をもって行脚し人に訴えていくことがない。行政機構と書類が、学校に影響を与え実行させようとする。だから、どんなけっこうな方針が立ったとしても、索漠たる抽象と命令が現場に届く。せいぜいが、美しいパンフレットである。

 教育は人間関係そのものである。教師も生徒も、時々刻々相手の様子を見ては対応している同士だ。お互い、バカじゃないのである。素晴らしいマニュアルができると、かえって沈滞するのである。

 授業の仕事は、芸術家や芸能人の仕事に近い。音楽家は感動を取るアーチストであり、落語家は笑いを取るアーチストであり、教師は理解を取るアーチストである。
 音楽家や落語家の仕事の内容に、官庁がアドバイスするだろうか。教育もそれと同じではないか。人間を育てるやり方は、文化の領域であり、法令化になじまない。

 教育は、教師と子どもの関係の中から生まれてくるものである。
 標語・スローガンの蔓延は怠惰な知性を暴露しているにすぎない。賞罰・競争の横行は、いかに教育での信頼が崩れているかの指標にすぎない。

 「日本の教育をよくしよう」から出発したら、まずたいていは抽象的な作文か、強引な権力集中で終わる。中教審発の改革も、教育再生会議発の改革も、その多くは、一つの穴を塞げば、二つの穴があくというような結果になる。

 それより、どんな結論も持たずに、不登校で困っている人の話をじっくり聞くことです、落ちこぼれの子の親と教師にじっくり話を聞くことです。学級崩壊に直面した教師たちの話をじっくり聞くことです。

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