カテゴリー「文科省指導要領」の6件の記事

感受性に根ざすこと

 なぜ、教育が「学力」や「指導要領」を中心に回転するのか、よくわからない。

 子どもたちが、世界と関わろうとしている。そのとき、怯えてすくんでしまっていたり、浅薄な理解に留まってしまったり、無理なものに手を出して挫折したりしないように援助する、それが教育というものだと思う。何を習得させるかは、二次的な問題ではないのか。世界との関わりが信頼に満ちていれば、知的なものはおまけみたいについてくる。

 子どもたちに、自分の感受性に根ざしていいのだということを伝えること、その感受性のところでいっしょに戯れること、教育はそれに尽きるのではないかと思う。
 教育のもっとも現実的な課題は、子どもたちが持っている恐怖を理解することだと思う。恐怖こそが、人間が自分の感受性から切り離されてしまう原因だから。
 感受性と切り離されると、あてずっぽうをいい、権威者の言葉をコピーするようになる。

 大人たちが人間や社会について語ることの大部分は、権威者の言葉のコピーであり、知ったかぶりであり、あてずっぽうではないのか。その証拠に、人生問題も、社会問題も、ちょっとやそっとでは解決しない。

 なぜ、教育が「学力」や「指導要領」を中心に回転するのか。
 子どもと直接に接していない人たちが教育に対して決定権をもつと、どうしても客観的な目安が必要になってきて、何を何時間教えましたかとか、ちゃんと何点以上取りましたか、ということが中心になってしまうからではないか。

 そうすると、そういう客観的な目安を目標に教育が行われるようになってしまって、けっきょく、子ども達を怯えさせたり、わかったふりをさせたりしてしまうのだと思う。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

なぜ教科書同士が似るのか

 物理を教えてほしいという生徒がいたため、一年かけて高校の「物理Ⅰ」を教えていた。啓林館、第一学習社、実教出版の三社の教科書を見比べながら、進めていた。
 そうしたら、高校の教科書がいったいなんであるか、長所も短所もよく見える気がした。

 三社の内容はよくそろっていた。ところが、文科省指導要領を見ると、高校の教科については大綱化がよく進んでいる。たとえば、「波」については
  ア  いろいろな波
  イ  音と光
   (ア)  音の伝わり方
   (イ)  音の干渉と共鳴
   (ウ)  光の伝わり方
   (エ)  光の回折と干渉
  ウ  波に関する探究活動
しか書いてない。
 指導要領はうるさくないのだから、他にいくらでも教科書の作りようはあるだろうと思ったが、実によく揃っている。

 教科書同士を比較しやすくて有り難いとも思う。しかし、なぜここまで揃うのかとも思う。説明の質も、天下り的である。簡略で的確であるという長所があるが、発見的ではない。理科の精髄をはずしている感じがする。実は国語の読み取り問題+いささかの計算練習をやっているのに近い。

 ここまで揃う理由の一つは値段の問題だろう。生徒に買ってもらう以上、欧米の貸与型の教科書のような分厚くて値段の張るものは作れないだろう。
 しかし、教科書内容が揃う最大の理由は、どう考えても受験対策とくにセンター試験対策である。

 センター試験側としては、教科書に扱わないことを出題できない。教科書会社としては、センター試験に出ることを落とすわけにいかない。しかも、授業時数は限られているから、あまり余分なことを盛り込めない。そこで教科書の内容と質が揃ってくるのであろう。

 教科書内容は、指導要領だけで決まっているのではない。指導要領と教科書検定と入試問題の三つが入り組んでいるのである。
 「知識の量は少なくても、発見的、実践的に」と文科省や教師たちが考えたとしても、そうかんたんには行かないのである。

 これが、中学校になると、指導要領は微に入り細をうがっている。この指導要領と教科書検定、高校入試問題が組み合わされると、ちょっとやそっとでは、詰め込み型教育を脱することができなくなる。それが現状だと思う。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (1) | トラックバック (0)

学習指導要領は受験を緩和しない

 学習指導要領の法的拘束力をなくすか、あるいは国が規定する分量を少なくして最低基準化したほうがよいと思っている。しかし、次のような心配が出てくる。

 各学校で教えることが、まちまちになってくる。
 そのため、入学試験問題に学校で習わないことが出題される。
 そのため、塾等に通わないと入試に対応できない。
 したがって、進学競争が激化する。

 これが、学習指導要領の拘束力を解くことができない、最大の理由ではないだろうか。

 しかし、現実を見てみよう。

 私立中学の入試問題は、学習指導要領の範囲を守っている。応用的な難しい問題を作って、「学校の勉強をほんとうに理解していれば解けるから、学校外の勉強は必要ない」というのが建前である。
 しかし現実には、進学塾に行かないと、私立中学の問題に対応するのは困難である。
 私立中学受験イコール塾通いであることは、常識である。

 高等学校の入学試験問題は、指導要領と教科書の範囲から出題され、とりわけ難しい問題はない。しかし、中学後半になる過半数の子が、高校受験を目的として塾に通っている。生徒の負担も、親の経済的な負担も大きい。

 このように、出題範囲を学習指導要領に限定しても、進学競争は緩和されていない。
 入学試験では、「成績順に上から何名」を合格させるのだから、出題範囲をどのようにしようと、その範囲の中で競争が起こる。「上位何名の中に入らなければならない」のだから、当然である。

 学習指導要領への拘束によって、入試競争による生徒の負担をなくすことはできない。
 入試の内容を学習指導要領の範囲に限定すれば、「学校の勉強だけで進学できます。あとは本人の問題です」と学校関係者が言うことができるようになる。それだけのことである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (1) | トラックバック (0)

中教審主導でいいのか

 中教審が決めたカリキュラムが一つだけあって、全国が一斉に方向転換する時代はもう終わるべきだと思う。教育というのは、教師と生徒の関係そのものの中からいつも生成しているものであって、柔軟性が必要である。
 全国単一カリキュラムは、教育の普及期には意味もあったが、すでに1970年頃には歴史的役割を終えていたと思う。

 欧米の教育の大変化が始まるのが、1970年頃である。これは、”欧米”というより、産業社会が発達した国々で、既存の知識・技能を注入する教育から個人の自主対応能力を重視する教育への転換が必要になったと捉えるべきだと思う。
 これはまた、学校の裁量権と自治能力を増やすことでもあった。注入型でない教育を行うには、学校と教師の自主性が必要である。

 教育の転換は時間がかかるものであるが、30年くらいかけて、世界でじわじわと大変化が起こっていた。PISA型の学力観もこの教育転換に対応したものである。

 その間、日本は「成功した日本教育」のイメージにとらわれていたのだと思う。生徒のストレスが非常に大きい上に成り立っている教育であることを無視していたと思う。
 70年代から不登校の数字がじわじわと上昇してくる。学級崩壊の問題が90年代に明るみに出てくる。現場の先生たちの悲鳴みたいなものがたくさんあがる。
 その後の上からの教育改革で、こんどは教師のストレスが非常に大きくなった。そこにPISAショックがやってきて、学力低下議論がはじまる。

 しかし、学校でのストレスを減らすとか、学力を伸ばすということは、カリキュラムだけでなく、教師力や生徒力や家庭力まで含むたいへんな問題であり、現場に居ない文科省=中教審が有効な解答を出せるようなものではないと思う。

 中教審が頑張ってよい答えを出そうとするほどに、現場の考える力が衰える。ちょうど、先生が答えをみんな言ってしまう授業のようなものである。
 
 なによりも必要なのは、教育を受ける側の権利をいかに保障するかのシステム作りである。そうすると、問題が小さいうちに明るみに出てきて、きちんと対応されるようになる。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (1) | トラックバック (0)

学習指導要領で教育を指揮する問題

 戦後の制度設計は、教育委員会が主役であり、文部省(のちの文部科学省)は援助機関のはずであった。しかし、この形式を崩さないまま、文部省が、実質的に全国の教育を指揮した。そのため、日本の教育の責任者がどこなのかわからなくなった。

 文部省の実質指揮ができた理由は、「学校教育法」によって、学校組織や教育内容を文部省が決められるためである。それを使うと、学校運営と教育内容まで指揮できる。その中心は、学習指導要領と教科書検定である。
(文部省が実質指揮を取った経緯については、拙著「変えよう!日本の教育システム」(平凡社)に詳しいので、読んでいただければ幸いである)

 でも官僚機構というのは、外形を作るときに力を発揮するものである。官僚機構は、家を作る大工さんのようなものである。大工さんが、子育てのやり方まで口出しして、なかなかうまくいかない。大工さんは、どこかで聞きかじった、けっこうなことばかり言う。

 しかも、この大工さんは立派な中央省庁であり、立派な有識者を集めた審議会を通して指揮する。日本の教育全体が、けっこうなことを復唱するだけになっていく。学習指導要領と教科書検定は、日本の教育が、マニュアル的になっていく大きな原因だと思う。

 「ゆとり」だろうが「学力」だろうが「生きる力」だろうが、そういう人間性に触れることは現場から沸き起こり、現場が主導するものでないとうまくいきっこない。

 教育基本法改正で、文科省は『教育振興基本計画』の策定権限を得たのだから、文科省はそちらに専念したほうがよい。
 学習指導要領と教科書検定を使った教育指揮は、姑息だと思う。地方分権、学校自治、教育を受ける側の権利保障を真剣に考えるべきである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (2) | トラックバック (0)

指導要領の法的拘束力をなくせ

 新しい文科省指導要領が中教審で論議されている。学力路線へ戻すため、中学の英語と理科を殖やすなどするそうだ。

 ゆとり版が出てきたとき、授業時間をちょっと減らして「ゆとり」と言っていた。そんなことないだろう、高校受験と中学独特の生徒管理がゆとりをなくしているのに、と思った。
 今回、学力版がでてきたが、学力は、ちょっと時間を増やしたり、プレッシャーをかけたくらいで伸びるものではない。学校が安心できる場になっているかどうかと、生徒と教師の信頼関係が、最大要因なのだ。

 それより、文科省指導要領で、教育全体を指揮しようとする体制そのものを疑うべきである。現場が型にはまってしまうのである。
 戦後文科省は、教育を指揮する正式権限がないので、教育内容概要に過ぎないもので、全国の学校教育を指揮しようとしたのだ。

 しかし、教育基本法改正で、「教育振興基本計画」ができた。これによって、文科省は政策官庁に格上げされたと見てよい。
 「教育振興基本計画」があるなら、指導要領での指揮はなくてよい。

 教育の内容と方法は、学術、技術、文化の領域にある。法的にきめるべき領域ではない。
 文科省指導要領の法的拘束力を早急にはずすべきである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)