カテゴリー「義務教育とはなにか」の6件の記事

就学義務を定めているのは憲法ではない

 世界の義務教育には、いろんなものがある。アメリカ、イギリスなど、家庭で教育することが合法である国も多い。

 「でも、日本は、憲法で就学義務を定めている」
と思っている人たちが、けっこう多いようである。

 これが、違うのである。
 憲法ではない。

 憲法26条は、保護者が子どもに普通教育を受けさせる義務を定めているだけである。

 だから、”家庭で受けさせる普通教育”や、”フリースクールで受けさせる普通教育”が法律で定められて義務教育とされても、かまわないのである。

 教育基本法も、普通教育を受けさせる義務としていて、就学義務としてはいない。

 『学校教育法』という法律で、はじめて就学義務が現れる。
 日本の義務教育の構造そのものは、意外と柔軟なのである。普通の法律を作るだけで、いくらでも新しい義務教育を作り出すことができる。

 『学校教育法』は1947年にできたもので、住み込み奉公に出されている子どもや、家業を手伝わされている子どもたちを就学させることを念頭に置いていた。それで、親に対して、教育委員会が就学を強制できるようにした。
 当時のこととしては理解できる。ところが、数十年後に、学校ストレスのために学校に行けなくなる子どもたちが何万人も現れるということは、その時代にはまったく想定していなかった。

 今の時代に義務教育が行き渡るようにするには、就学督促を定めるより、親側に「うちの子にあった教育を可能にしてください」という教育請求権を定めるべきだったのだ。

 『学校教育法』ができた1947年には、『世界人権宣言』がまだ出されていなかった。『世界人権宣言』は、「親は、子に与える教育の種類を選択する優先的権利を有する」としている。
 この、親側の立場の尊重が、その後も日本の教育システムにまったく取り入れられなかった。そのため、義務教育は、いつまでたっても教育の配給制度なのである。

 『学校教育法』だけで、すべての親が教育義務を果たせるようにする、というのが無理であることは、不登校の子どもたちが現実に13万人近くもいることで、明らかである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (3) | トラックバック (0)

教育配給制度

 義務教育の考え方を変える必要があると思う。
 親には子どもを教育する義務があることである。

 これが、義務教育というのは、国が提供する教育を受けなければならないことだ、と誤って解釈されている。だから、義務教育は、教育の配給制度になってしまった。

 配給といっても、受け取らないわけに行かない強制配給である。この配給に要望を出すと、じきに「そこまで対応するのは無理です、当方も忙しいことをご了解ください」とか「お子さんが特別です。家庭でしっかり育ててください」というような答えが返ってくる。
 この答えの多くは、学校の現実としては正当である。しかし、保護者の立場が見えていない。保護者には他の教育手段がないのに、そういう現実論ばかりいうから、保護者側に不安と不信がたまるのである。

 結果は、攻撃的な保護者がたくさん発生する。他の公共領域では、こんなにクレームが発生しない。学校と同じように子どもを扱う保育では、こんなにクレームに悩まされていない。

 個別の学校の対応に限界があることは当然である。問題は、教育行政のほうにある。教育行政が学校と一体化しすぎているのである。保護者の立場が軽んじられている。
 保護者の教育義務を定めたなら、それに対応して「教育を請求する権利」と、柔軟に教育が発生してくる仕組みを作っておかないと、教育難民が発生してしまう。それが、不登校である。

 民主主義が発達した国の多くでは、国が提供する以外の教育を親が選べるようになっている。国は、本当の意味での最低基準を設定しているだけである。学校教育を提供するのは自治体や私立学校である。学校に合わない子ども達が発生すると、それに応じた教育が、なんらかの形で発生してくる。どこを選んでも、無償であるようにしている国が多い。
 その柔軟性が、必要なのである。 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

結果を出す必要に迫られること

 子どもの恐怖に訴えたり、成績競争をさせたり、野心に訴えたりせず、この世界がどうなっているか、それぞれの人がそこでどのように自分の生を充実させることができるかの発見を手伝うこと、それが教育だと思う。なによりも、この世界が信頼するに足るところであることを、大人が身をもって示すこと。

 その教育のために、専門の場を作り、教師を雇用しているのが学校。

 ところが、学校とはかくかくである、教師の仕事はかくかくであると、法律やら官庁が決めているうちに、眼に見える結果だけが問題になっていく。
 手段であるものが、どんどん自己目的化していく。

 親も眼に見える結果がほしい人が多い。教師も、結果を出さなければならない。学校を管轄するお役所は、眼に見えないものにまで立ち入れないから、文書や数字になる結果を求める。
 進学にあたっても、上級学校は、文書や数字を求める。
 どのような学校に進学できるかを確保してやるのが、親にできる最大の仕事でもある。
 いっぽう、子どもの内面は見えない。

 それで、眼に見える結果が最優先され、子どもの恐怖に訴えたり、成績競争をさせたり、野心に訴えたりすることに、多くの人が鈍感になり、美名をつけてしまう。

 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

子どもを威圧する弊害

 ときどき、普段は気付かない私自身の感情を感知できることがある。けさ、学校のトラウマだと思われるものにであった。
 目が覚めて布団の中にいるとき、身体と感情がこわばっていた。じっとこらえてその状態を感じ取っていたら、恐怖感のようなものだった。権威・権力に威圧された状態だった。
 声もでない、思考も湧かない、体も動かない、そういう状態だった。

 その権威・権力は小学校のエッセンスのような感じがした。小学校での出来事が残した影だった。どの出来事のトラウマかは思い出せない。

 以前から、こういうトラウマがあると推測はしていたが、実物にやっと出会った。私の学校生活が怯えたものであった、大きな原因だと思う。私は成績もよかったし、友達もいた。でも、学校はイヤでイヤでたまらなかった。学校は、怖いところだった。
 これがあるから、私は今でも、権力的なものに威圧されてしまうか、反抗するかしかなくなってしまう。すべてを小学校の体験のせいにしてはいけないと思うが。

 私塾をしていて、教師あるいは学校の雰囲気に威圧されてしまった子どもたちをたくさん見た。

 小中学校の教師たちは、子どもたちをちゃんと整列させる、授業中におとなしく座らせる、それが最大の課題だから、全力を尽くす。そのときに、子どもの内面を威圧してしまっているのだと思う。

 威圧された子どもは、知性が制約されるし、素直な感情表出が少なくなる。
 しかし、いまの学校制度、教育方法をとる限り、子どもを威圧でもしない限りまともな授業や集団行動を成立させることは難しい場合が多いだろう。

 私が、制度問題を言い続ける理由である。 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ 当ブログ応援クリックのためのバナー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

義務教育の二つのタイプ

 世界の義務教育に二つのタイプがある。一つは、学校への就学を義務づけるタイプ。二つ目に、親が子どもを教育することを義務づけるタイプである。

 二つ目のタイプのほうが、教育が柔軟にわき起こりやすい。親が教育を選ぶことが前提になっているからである。カトリック文化圏の国に多い。

 日本は、就学義務のタイプである。親の教育権という考え方が薄い。
 そこに、民主主義原則なしの運営システムを取った。
 だから日本の教育は社会主義国の経済運営のようなものになってしまった。

 具体的には、「すばらしい理念を言っていればそれでよし」、の世界ができてしまったのである。
 現場にいない人たちが指揮すると、理念を言うしかしょうがないのである。現場は、理念を復唱するしかしょうがないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

国が定める教育でなく

 義務教育の考え方を変えないといけないと思う。

 国が定めた教育を受けさせることを義務教育とするのではなくて。

 一人一人の子どもの人格の発達のために親は、子どもを教育する義務がある。それが義務教育。
 現在も、憲法と教育基本法をよく読むと、義務教育とは親の教育義務である。

 国は、親に義務を背負わせた以上、それを可能にする手段を提供しなければならない。国はできるだけ多くの人が満足できるよう、教育が柔軟にわき起こる仕組みを整えなければいけない。

 国が定めた教育を義務教育としていると、自分にあった教育に巡り会えない人たちがたくさん出てしまう。
 例えば、不登校の子どもたちを考えれば、わかりやすいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (1)