カテゴリー「不登校」の11件の記事

不登校は制度公害(9) 『学校教育法』の時代遅れ

現在の日本のもっとも緊急な教育問題は、画一的な学校教育を強制しているために、教育を受けられない子どもが大量に生じてしまっていることである。その最大原因は、『学校教育法』の不備である。 

『学校教育法』は、国によって標準化された学校に出席することだけを教育と認め、それに出席していないと就学義務違反になる仕組みである。この仕組みのために、日本の義務教育システムは不登校問題に対応できなくなってしまった。既存の学校では無理だ、という子どもたちが現れても、いかに既存の学校に戻すかの施策しか取りようがないのである。

『学校教育法』は昭和二二年の法律であり、子どもを無理やりにでも学校に行かせるのが恩恵だという考えのもとにある。その時代の子どもが学校に行かない主な理由は、教育に対する親の無理解だったり、家が貧しいためだったり、子どもが住み込み奉公に出されているためだった。そういう時代の法律である。 

現代で学校に行かなくなる理由は、学校と子どもが合わないことである。子どもに恐怖反応がある場合が多い。しかし、教育運営では、戦後になっても民主主義原則がなかったために、実情がなかなか把握されなかった。生き地獄と言ってよいものが多発していた。

 民主主義原則がないと、言いたいことが言えなくなるのではない。権威者の言うことが鵜呑みにされるようになるのである。学校に行けない子どもたちは、学校に適応できない自分たちが悪い、と信じ込んでいた。親たちは、自分の育て方が悪かったと信じ込んでいた。不登校の問題認識はきわめて遅かったし、その深刻さが認識されなかった。
 

遠からず不登校問題は、水俣病など公害病と同列に扱われることになるだろう。不登校問題は、民主主義原則がないとどんなことが起こるかの見本として、何百年も語り継がれると思う。 

『学校教育法』は、六・三制教育のスタートが急に決まったため、原案作成から国会通過まで二ヶ月足らずで制定された。文部省原案がそのまま通ったため、戦前と同じ義務教育観が、『学校教育法』に残った。国会は、深い審議をしなかった。法案を早く通してやって、新しい教育をスタートさせてやろうという一心だった。たしかに、それまでに比べれば画期的な法律だったのである。 

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不登校は『制度公害』(8) 就学義務のない国デンマーク

就学義務のない国デンマーク


 デンマークに住んだことのある人に話を聞いた。デンマークでは、保護者、住民に「教育は自分たちのもの」という意識が定着している。不登校問題のようなものはないそうである。

デンマークの教育制度は、たいへんに柔軟で、いかようにも教育が生まれるようになっている。

親が公立学校に満足できない場合もある。そういう人たちのためには、私学がいろいろとある。自由主義系、各種宗教系、シュタィナー教育、学力系などさまざまある。親たちのさまざまな教育観に応じて、できていったのである。私学には運営費の七五%の補助金が出ている。だから、富裕な家庭でなくても、子どもを私学に通わせることができる。生徒の一二%が私学に行っている。

親が自分たちで学校を作ってしまう道もある。学校を作ること自体はまったく自由である。学校を作りたい親たちが教育省に相談すると、教育省は「こうすればいいんですよ」というマニュアルをくれて、なにかと面倒を見てくれる。学校を作ることに許可は必要ない。その上、ごく緩い基準を満たしていれば補助金をもらうこともできる。敷地や校舎はなんでもいいし、親が自分たちで先生をやってもかまわない。

気にいった学校がなければ、家庭で子どもを育てることもできる。それは法的に保護されている。

ところがおもしろいことに、デンマークでは、家庭で子どもを育てる人の数は、統計の数字にも表れないほど少ない。学校に行かない自由があるからこそ、子どもが来たくなるような学校ができていくのである。

高等教育も、大学まで無償である。

デンマークでは、一八世紀前半に、グルントヴィという"国父"とも言うべき人物が現れて、一国の文化に大きな影響を与えた。グルントヴィは、民衆教育の父とも言われ、「義務教育は怠惰と無関心を生む」「親の教育権を国家に侵されてはいけない」というような主張をした。グルントヴィの教育思想に呼応して、フリースコーレと呼ぼれる暗記や訓練によらない自由な学校を作る運動が起こり、現在にいたるまで一世紀半の歴史を持っている。このフリースコーレの運動が、公立学校にも大きな影響を与えている。

現在でも、デンマークの教育では、競争をさせず、点数評価に重きを置かない教育哲学が広まっている。=二歳までは、点数の試験を課してはいけないという法律すらある。ところが、国際的な学力調査をやると、デンマークは先進国の平均的なレベルにあるし、成人の学力となるとさらに高い。

世界中を旅し、人々と暮らしぶりを見てきた友人が言っていた。

「おそらく、デンマークは世界でも一番暮らしやすい国じゃないですか」

それは、教育のためだと思う。子どもたちを、自分自身と社会を信頼し、知恵を出し合って生きていけるように育てているのだと思う。

なお、国ではなく親に教育権があるというのは、欧米諸国では常識である。だから、公立学校の教育に問題があっても、親がなんとか別の教育を手配できるのである。

(拙著「変えよう!日本の学校システム」からの引用です)

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不登校は制度公害(3)

 不登校は、制度が不備であるために、自分に合った教育に出会えない子どもたちがたくさん生じ、学校に行かないことを非難され、追い詰められていったという現象です。不登校は『制度公害』です。
 以下は、拙著「変えよう!日本の学校システム」からの引用の続きです。


 教育方法が狭い

小学校低学年の例である。

ある母親が、人の紹介で、私のところに教育相談に来た。その人は、しばらく子どものことを説明すると、涙を流し始めた。息子は、小学校一年生の秋までで学校に行かなくなったのだ。息子は、顔にチックが出ていた。

母親が、なんとか学校に行かせようとした時期もある。そのため子どもは親の言うことに素直でなくなっていた。先生からは、「親離れができていない」と言われた。相談に行った公的機関のカウンセラーは、幼児期の育て方に問題を見つけた。

「私の育て方が悪かったんです」

 と母親は涙をぬぐう。カウンセラーに言われたことは、重く受け止めている。しかし、実際はどうしようもないのである。過去の原因を見つけたところで、タイムマシンで過去に飛んで解決できるわけではないのだから。 

このままだと将来はどうなることか、日々自分が子どもをダメにしているのではないかと、不安な毎日が続く。そのため息子にあたってしまうこともある。それで、また自責の念にかられる。

いっしょにやってきたその子は、隣の部屋で遊んでいた。工作が好きで、工作用紙をたちまち切ったり貼ったりしてなにかを組み立てていた。一人でよく遊ぶし、そうとうにクリエイティブだと母親が言った。よく行き来する友達もいるとのことだった。

 この子に、そう大きな問題があるわけでもない。障害と分類されるようなものを持っているわけではない。母親からの話を聞くと、かなり感受性の強い子だし、自分のやり方を通そうとする子でもあった。そのため、なにかのきっかけで担任の先生とこじれてしまったようであった。たぶん、学校にとっては、その子はなんらかの問題児であったろう。先生には先生のご苦労があったろう。しかし、それだけのことである。
 

学校と教育方法に合わなかっただけで、この親子がここまで追い詰められることはないだろう。親は、転校も考えたが、次の学校でも同じことになる可能性が大きいと考えた。

一方通行的な集団授業に対する反省は、世界中で起こっており、各種のオルタナティブ教育(画一的な教育の代替として第一次大戦後頃から起こってきた新しい教育法の総称。フリースクール、シュタイナー教育、モンテッソーリ教育などが有名)が存在している。それが、日本で解禁されていれば、ずいぶんと選択肢がひろがっていたろう。そこまで本格的な教育でなくても、とりあえず、親切な大人が接して信頼関係を作り、好きな工作でもやらせ、友達ができやすい環境を作るくらいだったら、私でもできる。 

ホームスクールが制度的に認められていれば、世間の目をしのぶような立場を余儀なくされなくても済む。

現在の学校だと、まず集団授業があり、それについていけるかいけないかの二者択一である。そして、現状の教育に合わないと、生徒または親の心理学上の問題にすぐに飛んでしまう。心理学上の問題がすぐに浮上するのは、教育方法のオプションが狭いということでもある。 

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不登校とオルタナティブ教育

 不登校とオルタナティブ教育の関係について思うことが多い。

 日本の現実の学校は、ある年齢になった子供たちを集めて、知的なものと社会的なものを中心に、訓練を施すところである。
 それがが学校のすべてだと言ったら間違いになる。学校により先生によりさまざまな工夫がなされている。しかし、やはり学校の骨格は「訓練」である。

 ところが、実際の子どもは、さまざまな肉体的欲求、感情、で動いている。子どもは特に、よくケアされ、暖かい人間関係に包まれ、探索行動をバックアップしてもらうことを必要としている。大勢の子どもを預かっている学校で対応しきれない問題は非常に多い。

 そのために、学校という訓練的な場で、やっていける子とやっていけない子がいる。
 学校というのはそもそも集団の場であり、訓練の場なのだから、子どもがそれに耐えられるところまで家庭や地域でちゃんと育ててほしい。学校にそれ以上のことを要求されても、対応することは不可能である。それが学校側の言い分である。

 学校でやっていけない子が、先生たちには「その子が特別なせいだ」と見える。
 それはその通りではある。不登校の児童・生徒たちは全体の1%にすぎず、もともと学校生活に困難を感じるようなものがあったから来れなくなる場合が多い。

 先生たちには「家庭要因が大きい」とも見える。 
 家庭がしっかりした生活習慣と共感のある人間関係を作っていれば、子どもは家庭外でのストレスがあっても、を吸収できることが多い。それも事実である。

 保護者の側からすると、個別の教員や学校に問題があるためとも見える。行政からもそう見える。それも事実である。教育というのは、”人”の要素が大きく、児童・生徒と教員がもつれてしまったケースも多いのである。

 しかし、もともと日本の学校そのものが持っている問題があって、それが特に敏感な子たちに現れているのだ、とも考えられる。

 私は、そちらが事実だと思う。
 学校に適応しにくい子は世界中どこにでもいるが、1%もの不登校が生じているのは、日本に特有の現象なのである。
 子どもにも親にも普通の意味での問題はないが、子どもが学校に行けなくなる例も多い。
 教員の質だって、日本は高いほうである。

 現実に、不登校の数は12~13万人程度で横ばいを続けている。
 90年代に不登校の急上昇があったため、学校も行政も手を尽くしている。そして、総数の横ばいにまではなった。しかし、それ以上は減らないのである。
 不登校問題を子ども個人の問題、家庭の問題、教員個人の問題で済ませている限り、解決しないであろう。

 教育を狭く考えなくてもいいのではないか、学校が訓練の場であることを根本から見直していいのではないか、そういう教育観がある。
 世界を見渡せば、いろいろな教育がある。発想も方法も違う。
 子どもが自発的にやろうということだけで学校を作ってもいいではないか。
 そもそも学校なしでも、子どもを育てられるのではないか。
 そういう教育すら、世界に存在している。

 それらの教育は、オルタナティブ教育と総称されている。私は、オルタナティブ教育への道を開くことが、不登校へのもっとも根本的な対応だと思う。日本教育を根本的に問い直すものが実在しないと、日本教育は比較の対象がなくて、子どもと家庭と教員個人ばかりに問題を見つける。

 ただ、不登校に関して、長期と短期の両方の取り組みが必要であると思う。
 オルタナティブ教育を興すことは、不登校に関して長期的な取り組みである。一気にいい学校がたくさんできてくることなどあり得ない。

 短期的には、不登校を不登校として対応する、いろんな場が必要だと思う。公立でも民間でもなんでもいい。暴行・監禁等の人権侵害以外は、どんなやり方でもいい。いっさい、人々の創意工夫に任せたほうがよい。
 不登校は、原因もさまざま、解決もさまざま、としか言いようがない。いろんな人が「不登校はこういうものであり、こうすればうまくいく」と言う。しかしそれは、そういう例もあったと言うだけのことだけである。どんなやり方をしても、そのやり方に合わない子もいるし、やりそこないもある。「一律の道などない」、ということを前提にすべきである。

 どのような道でもよい、現実的に対処すべきである。そのために、学校に行かなくても、子ども1人1人に教育費がついてまわるような仕組みをつくるべきである。そうでないと、家庭で途方に暮れるしかない人たちがたくさん生じてしまう。

 そういう現実的な場と、長期的にオルタナティブ教育を興すこと、その両方が必要だと思う。

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ほんとうに教育の論理ですか?

 不登校というのは、会社勤めしている人が大きなストレスにさらされて心身が限界に達したのと同じ状態です。

 会社勤めだったら、とにかく休みます。
 それから、元の職場に戻るか、会社に配慮をお願いするか、その会社を辞めるかします。それは、それぞれの事情によります。一律に職場復帰しろと言うのは無理です。

 不登校も、それと同じに考えればいいことです。ただそれだけのことです。その子その子に合わせて柔軟に考えればいいだけのことです。学校を絶対視するのは無理です。

 しかし「学校教育法」という法律に就学義務が書いてあります。
 先生は個人的に「無理だな」と思っても、「学校に来なくてもいいよ」とは口が裂けても言えない立場なのです。先生たちは公務員です。公務員は法律を尊重しなければいけません。

 でも先生が法律を持ち出して「来なければならない」と言ったら、「あなたはまるで公務員です。教育者ではないのですか」と非難されます。
 だから、ほんとうは法律に制約されているだけなのに、先生たちはいろんな理屈を作りだしました。

  ─ 怠け癖をつけてはいけない

  ─ 社会に出たときのために我慢できないといけない

  ─ 子どものいいなりになれば、子どもは安易に流れる

  ─ 子どもの将来が閉ざされる

 というような理屈をたくさんたくさん作り出しました。なんと無慈悲な。

 これらは、ほんとうに教育者としての論理なのでしょうか。学校に来させなければならない公務員の立場が生み出した言い訳ではないのでしょうか。
 たくさんの子どもが追い詰められました。

 90年代に文科省が「不登校は誰にでも起こりえる」という通知を出してから、先生は「休んでもいいよ」と言えるようになりました。それから、不登校の子どもの追い詰められようは、軽くはなりました。
 でも、学校が絶対であることは変わりません。「しばらく休んでもいいよ。でも元気になっても戻らなかったらズル休みだよ」なのです。

 学校には「病気以外休んではいけない」という不文律があります。ズル休みを防ぐためです。
 学校はつまらないところです。誰もがズル休みしたいのです。だから、病気以外で休むことはぜったいに許されないことだ、という学校文化ができていました。

 学校は、就学義務の上にあぐらをかいています。いくら内容が悪くても、利用者が逃げ出せないのです。

 学校を創る自由と選ぶ自由を認めて、強制力で成り立っている学校が自然淘汰されるようにすべきです。
 学校を創る自由と選ぶ自由は、基本的人権なのです。教育を健全なものにするために、基本的な知恵なのです。国際的条約になっています。

 前回と同じ引用をもう一度。

「いかに多くの大人たちが、役人のように官僚的に考えるかに気づいたことはないだろうか?
 もし彼らが教師なら、彼らの考えはその役割に限定される。
 彼らは、生と共に脈動している人間存在ではない。文法の規則や数学、あるいは歴史を少しばかり知っているが、しかし彼らの思考はその記憶、その知識によって限定されるので、彼らの知識は彼らを殺していくのだ」 (「未来の生」 J.クリシュナムルティ)

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市教委と一部マスコミによる”魔女狩り”

 新潟市で08年5月に出された13名の不登校督促事件に関して、「財界にいがた」という、地元の月刊誌が記事にしている。ようするにこれは”魔女狩り”だと。
 この内容は、私が取材して得た感触に近いものである。

 5月下旬の新聞報道は、怪しい団体が蔭にあって学校に行かせないようにしていることを示唆するものであった。
 その後のフォローの記事はない。それは、そうであろう。ここには、カルトめいた問題はなかったのだから。

 親たちは、たしかにミコト・カレッジという幼児教室に来ていた人たちだった。しかし、このミコト・カレッジの教育観は、「子どものことをよく理解する」であり、そのために実践的に親が子どもに関わるやり方を開発していた。ここの教育思想に「学校に行かせない」に類したものはない。
 本音が言える子どもたちがたくさん育った。そうしたら、学校に行きたがらない子どもたちも現れた。親はその子ども達を保護しようとした。自分たちでフリースクールを作ろうとした。
 要約すれば、それだけのことである。

 ミコト・カレッジに行けば学校嫌いになるかというとそんなことはなくて、楽しく学校に行っている子どもたちのほうが多い。

 新聞記事になったそもそものきっかけは、市教委から発したものではない。逆であって、出席督促を受けた親側が「これはおかしい」と思って、新聞社に通報したことによる。
 そうしたら、市教委側に取材した記者が、市教委の見解に沿って記事を書いた。市教委は「怪しい」という予断を持っていた。

 しかし、実際のことを調べると、市教委は現地の調査に来ていない。事実誤認もたくさんやっている。裏付けをとる作業が足りないままの危うさに、市教委自身が気が付いていないのだと思う。
 教育委員会というところは行政の一つなのに、選挙の洗礼は受けない。市長に指揮されているわけでもない。そもそも、正式な職務の中に、住民の意思を代表するという項目がない。教育委員は複数いるが、月に2回くらいの会合に出てくるだけである。実質は、教育長の独走になりやすい体質を持っている。

 「財界にいがた」の記事は、第1章タイトルを「市教委と一部マスコミによる”魔女狩り”」としている。この言葉でほぼ事件の全容が現されているように思う。意図的な不登校狩りではないが、影に怯えた思いこみが相当にあり、事実確認を怠っているから、市教委はこのくらい言われてもしょうがないであろう。

 しかし、今回の問題は、ただの魔女狩り問題にとどまるものではない。
 根本に、もっと本質的な教育問題が横たわっている。

 ある親の方が言っていた。「子どもがほんとうに学校に行くのを嫌がっているんです」と教育委員会の人に言うと、「子どもは、学校に行きたくないって言うものですよ。それを真に受けてはいけません」と言われて、話がぜんぜん通じないという。

 問題はいくらでも出てくる。
「行政と親と、どちらが子どものことを深く理解しているか」
「『学校に行きたくない』という子どもの言葉の信憑性をどう判断するか」
「学校は必ず子どもにとって最善なのか」
「親に教育を選択する権利はないのか」
  学校教育とはなにか、義務教育とはなにかを、突きつけてくるような問題である。

 06年に教育基本法が改正された。その第十条に
「保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。」

 「子どもの発達のためにどうしたらいいかを決める責任者は親ですよ」と言っているではないか。この条文ができたので、子どもの教育に責任を取るのは誰なのかの問題は、新しい局面を迎えていると思う。

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新潟市教委の出席督促

 新潟市の小学校が、13名の子どもの親に対して出席督促をしたとの報道があり、大きな波紋を投げかけた。

 親側の人たちに直接話を伺う機会があった。事実関係で、報道とは大きな食い違いがある。

 この問題を突き詰めると、日本の教育システムが戦後の仕組みそのままであり、未整備な部分がたくさんあることに行き着くと思う。
 今後も、「親が悪い」、「学校が悪い」、「教育委員会が悪い」、「どうせカルトだろう」、などの悪者探しが横行するであろう。しかし、どの人も大きなシステムの中で、自分の立場を懸命に生きているだけと思われる。それぞれの人がなぜそうせざるを得なかったかを、暖かく視るべきだと思う。

 実際の報道は次のようなものである。
 新潟市の小学校が出席督促書 新潟日報 08年5月29日
http://www.niigata-nippo.co.jp/pref/index.asp?cateNo=1&newsNo=110713

 朝日、毎日、読売の地方版も、この件を報道している。各社の新聞報道をさらりと読むと、たいていの人には「これはカルトが裏にある。市教委はその子どもたちを助けようとしている」という推測が湧くであろう。裏付け取材はないのに、匂わせるような記事になっているのはまずい。

 私の知るところを書く。

・ このグループは、子どもの感情を尊重しようという幼児教室が発展した子育てグループである。宗教性、政治性はない。子どもの意見をどこまで尊重するかで、多数派の教育観との違いがあるが、常識の範囲内である。

・ 親側は、学校と話し合って不登校扱いとしてもらうことの通常のプロセスを踏んでいた。

・ 13名のうち4名が新一年生であり、当初から学校にいっていない。しかし、事前に学校側に諒解を取っていた。小学校にあがるときに「この子は、いま、学校は無理だ」と判断されるケースは多く、たとえばフィンランドでは就学年齢を遅らせることが認められている。しかし、日本では、「学校に一日も行きもしないで学校を忌避するのはおかしい。どうせ、カルトだろう」と判断されることが多い。

・ 「ホームスクール」あるいは「家庭で責任を持って育てます」の言葉が、当局側を大きく刺激したらしい。学校長→市教委と報告が伝わるうちに、親側の言った文脈とは切り離されて解釈されたようである。

・ 新潟市の教育委員会規則によると、出席督促は各学校長の判断で出すことになっている。そのため、親側にとっていったん話がついているはずの学校長から文書で出席督促がなされた。これは、親側に大きなとまどいと衝撃を生じさせた。実質の指揮者は市教委である。校長たちは板挟みの立場と思われる。

・ 新潟市教育委員会は、2006年4月からの「不登校未然防止プロジェクト」で、2008年までの3年間で、不登校の児童生徒を半減させることを目標にしていた。

・ 不登校に対する学校側の基本方針は、時代によって大きく揺れている。「学校復帰一本」→「容認、静観」を経て、現在は、「放置せず」の方針に変わり、マニュアルも存在する。これは、現場の教職員には、通常業務以外のたいへんな経験と判断力と時間的・体力的負担を生じさせる方針であり、積極的な実行は困難である。現場から市教委へは、ツジツマ合わせの報告が多くなり、市教委の判断が現実に立脚しなくなるのではないか。
 また、「放置せず」は基本的には学校復帰策の一つであり、それでは無理な事例がかなりあると思われる。

・ 不登校は、大きな社会問題であり、学校に行かないことは事実上容認されている。しかし、そのための法的整備はなされていない。そのため、行政の対応が恣意的であるし、教職員も、親も、法律の援助なしのつらい立場を強いられることが多い。

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もっとも困っている者が非難される

 不登校では、もっとも苦しんでいる者が非難され追い詰められてしまっている。

 子どもが学校にいけなくなるとき、子どもはものすごいストレスを抱えている。反抗しているとか、怠けているとかいったなまやさしいレベルではない。たいていは、子どもが強度のストレスにさらされ、逃げたくても逃げられない状況に長く置かれ、ついに限界に達してしまった状態である。

 多くの場合、不登校の子どもは、外界に対応するための中心が機能しなくなっている。
 だから、「どうして学校に来ないの」と尋ねても答えが返ってこない。
 「なにがあったの」と尋ねても答えが返ってこない。
理由や立場があるようだったら、人に訴えたり、闘ったりできたであろう。言葉などありはしない。赤むけにされたイナバのシロウサギが、洗濯機に入れられてガラガラ回されているような状態である。

 ところが、従来型の義務教育では、頑張って学校に行くことそのものを教育だとしている。学校に来れないとしたら、やむを得ない病気か、そうでなかったら怠けやわがままなのである。そのどちらかに分類して考えるから、なかなか実情が見えてこないのである。
 「学校でストレス状態にある子ども」という捉え方が確立していないことが大問題である。

 また、「教育方法が子どもに合わない」という発想がない。日本では、教育機関を作る自由がないことに、あまりに長い間慣れてきたので、教育方法の比較対象がないのである。今の教育方法が、あまりに絶対視されている。
 だから、子ども個人と家庭の要因ばかり探す。本人や家庭の要因は、誰だってあるに決まっている。だからそれで済まされてしまう。

 不登校に対しては、学校への就学義務など頭から追い払って、「この子の心身の健康のために何が必要か」ということを白紙から考え、実行できるようにすべきだ。家庭でもいい、新しい教育機関ができてもいい、憲法がすべての保護者に対して教育の義務を定めたのだから、どうのような事情があろうとその子に合った教育が沸き起こるように、法令や組織を整えなければいけないのだ。

 それは、憲法の要請なのだから、法令がとか予算がとか人員がとか、そんなことはすべて越えられるはずなのである。

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不登校は教育難民

 不登校は、教育難民だと前回に書いた。

 特定の学校に合わないことは誰にでも起こる。それは、会社や役所でも、どうしても合わなくて辞める人がいるのと同じである。もし辞職という手段が残されていなかったら、深刻な心身の病気や、自殺が頻発する。
 学校は、たくさんの人たちの集まりであり、いろんな人間が居ていろんな人間関係が生まれているところである。非常に追い詰められてしまうケースがあると想定しなければいけない。

 学校がそういう事態を想定していないのである。
 教育委員会もそういう事態を想定していないのである。
 文科省もそういう事態を想定していないのである。
 どこも、「当面はやむを得ないでしょう」と言うことしかできない。

 なぜかというと、「学校教育法」という法律が、就学義務だけ定めて罰金まで用意しているのに、もし子どもが学校に合わない場合の救済策にまったく触れていないからである。
 学校も、教育委員会も、文科省も、法律に忠実でなければいけない公務員達の集まりである。
 学校だけで教育を担うのは無理という状況があっても、
「学校だけが教育である」
「学校には行かなければいけない」
「勝手に教育機関を作ってはいけない」
と法律を繰り返すしかないのである。

 それでも現実に、学校に来ない子どもたちがいる。そこで、そのうちに学校が改善されて、どの子も学校を嫌がらなくなる、という希望が広まっている。どこかでうまくいった例が、たちまち日本中に広がるように思い込む。
 これは幻想である。

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学校に合わない子が多数存在する

 不登校問題は、「現在の学校に合わない子が多数存在する」と客観的に受け止めるべきだと思う。

 不登校のお子さんを持つ保護者の相談を受けることが多かったが、現実は「頑張って学校に行きましょう」などという生やさしいレベルではないのだ。頑張って解決するようなことなら、とっくに解決しているはずで、それではどうにもならないから不登校になるのである。

 不登校の子のほとんどは、強いストレスにさらされている。身体症状が出ているケースも多い。学校で強いストレスを受け、恐怖に怯えている子ども達がいる、という現実がなかなか認識されないのである。

 子どもの症状が認識されると、こんどは本人の心理的問題や精神疾患とのみ捉えられてしまう。
 これは、ちょうど、しきたりの多い家に嫁いだお嫁さんが限界に達して実家に逃げ込んだとき、「本人の性格の問題、心理的な弱さ」と説明されるのと同じだと思う。
 そうではなく、独自性のあるお嫁さんと、独自性のある家の間で、両者の関係が行き詰まったということである。
 不登校も、両者の関係の行き詰まりと捉えるべきあり、誰のせいであると悪者探しに向かうべきではない。

 いかなる教育機関も、自分がすべての子どもに対してよい教育機関であると主張するのは、傲慢だと思う。また、特定の教育機関に合わないからといって、その子の道を閉ざしてはいけない。

 どんな人も自分に合った教育を求めてよい、既存の学校に合わなければ学校を自由に作って良い、そういう道をつくらずに、すべての人に教育義務を課すのは無理ではないか。
 じっさいにこの「自分に合った教育を受ける権利」と「学校を作る自由」は、国際人権条約で保障されているのである。国内法を、これに沿って整備しなければいけない。

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