カテゴリー「学力テスト」の10件の記事

全員参加復活は無意味 文科省学力調査

 文部科学省が、全国学力テストを数年に一度、全員参加方式にすることを検討しているという。
 朝日新聞
 産経新聞

 また、亡霊の復活だ。
 なんのメリットがあるのか理解に苦しむ。

・ 全国学力テストには現在も任意参加することができる。自校または各自治体の全国での位置づけや、経年変化を知りたいなら、任意参加すればそれでよいことである。

 これだけで、全員参加を復活させない理由は十分ではないか。現実に7割程度の学校が学力調査に参加しているのである。参加しないところは、それなりの理由があるのだから、それを尊重すればよろしい。

 文科省学力調査を全員参加とすべきでない他の理由もあげよう。

・ 学力レベルとその要因分析をするためなら、抽出調査で十分である。

・ 各県には、独自の学力調査がある。このほうが具体的で、どうしたらいいかがわかりやすい。これは秋に行われ、やったことの結果を授業に反映できる。文科省調査は4月である。

・ 文科省学力調査の内容は、「結果がこうだからこう対応する」という対応を検討するのには向かない。A問題はあまりに基本的であり、B問題はあまりに教材と離れている。文科省調査は、「自分の位置を知り、切磋琢磨」には、向いていないのである。マクロな分析はできだろうが、それは抽出調査で十分である。

・ 過度の競争をあおる。素人の首長が点数にとびついて干渉するためである。教育のうち、数値化が可能なのは、ほんの部分にすぎない。しかし、素人は数字に飛びつく。 

・ 教育の価値観を一元化させることになり、危険である

 教育は文化現象である。
 どうやったら美味しい料理を作れるかとか、どうやったら全員参加の劇を上演できるかとか、そういう次元の話なのである。
 それは、学問であり、芸術であり、技術であり、生き方なのである。
 官が基準を決めて全員に達成度を競わせるなど、まったく向いていない領域である。

 「切磋琢磨で全員向上」、これが亡霊である。発展途上国日本の教育に取り付いた亡霊である。
 競争で全員向上などするものか。競争は、一部の上澄みを得るのに向いているのであり、全体としてはストレスと落伍者だらけにしてしまうのである。
 「切磋琢磨で全員向上」に走る人たちは、ほんとうの指導力を持っていない。競わせて結果を出させようとするなど、卑しく、安っぽい。

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学力テストと家庭学習

 よく疑問に思うことがある。

 学力テストの結果が出ると、家庭学習との関係が言われる。
 どうして、すぐ家庭学習と結びつけるのだろうか。
 あれは、「会社の業績が伸びないのは、社員が仕事を家でやってこないからだ」と言っているのと同じではないか。

 テストの結果と家庭学習との相関ははっきり数字に現れるだろう。
 でもそれは、「学校で学べなかった子どもは、家での学習意欲をなくす」ということではないのか。

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点数化がなぜ起こる

教育の成果は、点数ではない。
教育の成果は、生徒の人格がどのように変化したかであり、それは誰にでもわかるものである。より考え深くなったとか、人を信用するようになったとかならなかったとか、その生徒に直接に接する者には、明らかにわかるものである。

しかし、そのような成果は、顧みられない。
教育の成果は点数化された学力がもっとも大きな意味を持つ。

それには、そうなるだけの現実がある。その生徒を知らない人に、「情実は入れていません」というデータを渡すことが、学校と教師にとっての至上命令なのだ。

・ 内申と入学試験  進学に必要な学力は、数値化して渡さなければならない

・ 学力テスト      数値化して、生徒同士、学校同士を比較する

・ 指導要録の記載、 通知表の記載

その情報は客観的でなければならない。その情報に教師の主観が入ってはいけない。その情報に身内びいきが入ってはいけない。

しかし、教育は人格同士の関係であり、教師の個人的な判断や評価しかできなくて当たり前なのである。
教師が高度な専門職であるならば、教師の「所見」がもっとも価値あるものと見なされるであろう。
それは、医師の「所見」が、検査データよりはるかに重要であることと同じである。

ようするに、教育が、官庁と上級学校に牛耳られてしまっていて、教師よりデータのほうが信用されるのである。

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効果があるのか検証改善委員会

 全国学力テスト実施に伴い、全国に検証改善委員会ができた。その内容を見ると、効果がありそうなものが少ない。なぜ効果がないかの分析をここに供したい。
 ちなみに私は学力派ではなく、「教育というものは教師と生徒の関係の中から生まれてくるものだ。教育の官僚統制を廃し、学校分権と、生徒の『教育への権利』の確立が必要」という立場である。

 例として福島県の検証改善委員会が出した学力向上策を見てみよう。決して福島県を批判したいのではなく、他県にも共通したものの典型例として取り上げたい。

 福島県の例は、要するに、何が問題なのかどうしたらいいのかを他人に丸投げしたまま、現実の学校運営の外側で官製イベントの打ち上げ花火をやっているだけなのである。見栄えはするが、おそらく結果らしい結果を出すことは難しいだろう。余分な仕事を増やすから疲れる人はたくさん出る。一時の学力向上ブームと予算付けがなくなれば、たちまち消えていくと思われる。

[学校改善支援促進事業] 福島県検証改善委員会
・調査結果の詳細な分析
 ── 検証改善委員会自身では分析をやらず、分析は業者と現場に丸投げしている。検証改善委員会こそが結果を分析し、あるいは各学校がデータを分析する指針を出せるようでないと、お祭り騒ぎと掛け声だけに終わるだろう。
 千葉県が、苅谷剛彦を委員長とする県外専門家委員会を設置して分析を依頼したが、これはそれなりに意味のある結果を出していた。

・福島県学力実態調査による実態分析
 ── 本気で、学校要因や、教師要因、社会経済要因を分析する気はあるのか。結論が子どもへの「学びのすすめ」や「家庭学習のすすめ」なら、責任を子どもに転嫁してしまっている。

・優れた実践から学ぶ
 ── 優れた実践の報告や、本の出版はたくさん行われている。屋上屋を重ねる。うまくいっていないところの原因と、支援策を出さないと意味がない。

・「活用力向上」のための指導資料の作成
 ── B問題対策であろうが、PISA型問題に対して、本当に実効ある指導資料ができるのか。気休めではないか。

・「提案授業、授業研究会」 Web配信 DVD収録配布 「授業改善サポートブック」作成
 ── 授業研究、研修はすでにたくさん行われている。従来の研究会ではなぜいけないかの分析がない。新しく授業研究会をやるだけの新機軸もない。そんな研究会をやらなければならないなら、十年研修はなんのためにあるのか、指導主事はなんのためにいるのか。

・県版「学びのすすめ」を児童生徒全員に配布
・保護者に学力向上の取り組みを伝えるリーフレットを配布
 ── パンフレット配布は金と手間がかかるが、効果はほとんどない。

・授業検討改善会(校長、教師)、PTA学習会、授業フォーラムの開催(保護者、地域住民の参加)
 ── 人を納得させる分析結果や、具体的な改善策をもたないまま開かれるイベントである。よく言われていることが言われて、それで終わるであろう。この手のイベントは、動員しないと参加者を確保できないことになりがちであり、また予算がつかなくなればそれで終わる。

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全国学力テストの目的がはっきりしていない

 昨年から、全国学力テストが行われている。調査のためだか、学力の向上のためだか、はっきりしないテストである。とくに、学力向上のためには、あまり役立たないだろうと見ている。

 私は、次のような考え方は、現実を見ていない人たちの空想だと思っている。
 「自分の位置を知ることによって、励みになって、全体の水準が上がる」
 ようするに、競争させれば水準が上がると考えているのである。ほんとですか? 上澄みの部分だけみていて、全体を見ていないんじゃないですか?

 テストの結果が励みになっているのは、上位層だ。しかしこの層は、べつに新たな動機付けをしなくてもよい層なのである。しかし、本当に学力が必要な層は、「お前はできない」ということを確認すれば、「そうか、ダメなんだ」と、かえってやる気を失うものである。教え方をどうすればいいか、教材をどうすればいいか、それを見つけないと意味がない。
 これは、定期テストでも、国が行う全国学力テストでも同じである。

 学力テストは、何が要因であるか、どう対応したらよいのかを見つけるのでなければ、意味がない。ただ競争をあおっても、うまくいかない。それは、国もわかっていて、結果の公表は避けているし、ちゃんとした分析をしようと頑張っている。

 でも、全国学力テストが始まった理由は中山文科大臣の「競争意識の涵養、全国学力テストの実施」方針だった。これは、基本的に競争主義である。日本の教育政策の多くは、教育に素人の代議士たちが方針を押しつけ、文科省が仕方なくきれいな理屈をつけて実施する。

 そのため、今回の学力テストは、要因分析の調査のためなのか、学力向上のためなのか、わけのわからないものになっている。とくに、学力テストと同時に行われる質問アンケートの、できが悪い。最初から、生徒の学習態度にばかり絞り込んでいて、学校への質問は浅くて的外れなものが多い。ようするに「もっと頑張らせよう」が見え見えなのだ。全然知性的でも科学的でもない。これだと、いちばん肝心な、教育施策との関係や、学校運営、学級運営との関連があまり浮かび上がらない。

 けっきょく、「算数が好きな子は算数ができる」とか、「生活習慣ができている子は、学力もある」とか、全国テストなどしなくてもわかっていることばかりが浮かび上がる。

 私も実際に学力テストを解いてみた。出題範囲が広くて、点数が悪かったとしても、これに直接対応するのは困難であろうと思った。とくに、Bの問題(活用力)は、PISA型学力を想定したもので、対応が難しい。

 学力向上のためにやるのだった、この全国学力テストは向いていない。その学年でやったことを、秋か冬頃に調査し、すぐに対応策を採るのでないといけない。実は、これは各地方ごとに、かなり行われているから、全国テストをするのは屋上屋を重ねているのである。

 それと私は、とにかく学力主義が嫌いである。教育をしらない官僚や政治家が教育に口出しすると、どうしても客観的な成果を求めたがり、数値化された結果ばかり求める。それで教育がおかしくなっていく。
 教育とは、子どもに頑張らせることではなく、子どもを幸せにすることだ。違うのか? 

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○○高校何名入学

 全国学力テストが導入されて、学校間にランクが発生し、競争をあおる問題が出ている。

 しかし、学力テストがなければ学校のランク付けがないのか。

 ある。
 歴然とある。昔からある。
 中学だったら「○○高校何名入学」。高校だったら「××大学何名入学」。
 これを、おおくの人が、学校のランク付けの目安にしている。高校だったら、入学のための偏差値でも示される。

 大学入学者の出身高校については、週刊誌などでも発表される。しかし、どこの中学からどこの高校に何名入ったかについては、一般に公表されてはいないだろう。
 それでも、どの高校に何名入ったかの校内資料は中学に存在するし、生徒と保護者には伝えられているのが普通だろう。たいていの人が知っている。たいていの人が頭の片隅に置いている。
 これは、中学同士を比べるときのよい指標になるから、一般に流布する。数値化できるような指標は他になかなかないのである。

 「○○高校に何名入った」が、中学校の学校ランキングであり、これを教育のやり方にかなりの影響を与えている。学校ランキングはすでにできているのだ。
 このランキングで、学校の評価がだいたい決まるから、学校にとっては重大な問題になってくるのである。

 しかし、進学者による学校ランキングが現実の中教審で論議されることもない。教育委員会で論議されることもない。

 最大の問題は、この評価ランキングが、上位者の成績で学校評価をしているということである。どれだけ落ちこぼれを少なくしたかたとか、全体の底上げをしたとか、学校内によい雰囲気を作ったとか、そういうことがみんなふっとんでしまうのである。
 得点分布や平均点を見る、全国学力テストのほうがましだとも言えるが、学力テストには学力テストの問題がある。

 教育において、数値化できるものなど、氷山のほんの一角に過ぎないのだが、それが一人歩きしてしまう。
 入試制度を根本的に疑う必要があると思う。

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たくさん入れるほど残らない現象

 マンツーマンか、ごく少人数を相手に教えることの多い方だと経験があると思うが、教えるペースを上げて「一部でも記憶に残ってくれればいい」とたくさん注入すると、生徒には何も残らなくなるという現象がある。

 われわれが、NHK教育チャンネルで誰か専門家が何か難しい話をしているのを聞くと、言葉が右の耳から左の耳に通り抜けて、片言隻語も記憶に残らないのと同じ現象である。わかる部分がないはずはないのだが、それすら残らないものである。

 「さっぱりわかない」ことがある程度以上多くなると、自分の中に整理していく枠組みが作れなくなるし、内面での聞く姿勢も維持しきれないからだと思う。

 教えたことに沿ったテストをして、点数が半分に届かないようだと、本人にとっては注入量が多すぎて何も残らない現象が起こっている可能性が強い。

 テストの点が40点にもならないということは、薬にたとえれば「ただちに服用を中止し、他の薬剤に切り替えること」と受け取るべきなのある。それを、「本人の努力が足りないためだ」と結論すると、結果はますます破壊的になる。

 公立学校で、検定教科書を使い集団授業をやる方式のなかでは、それではうまくいっていないことがわかっても他の教授法に切り替えることなどできない。それは事実である。本人に頑張ってもらうしかないことも、悲しいかな、事実である。だからと言って、本人の努力が足りないせいにするのは責任転嫁である。

 日本にいると「だからどうしろというのだ」になりやすいが、フィンランドの教育とか、イエナ・プラン教育やモンテッソーリ教育のやり方とかを見ると、解決方法はあるのだということをつくづくと思う。

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明晰さを育てること

 子どもを明晰に育てること。
 それは恐怖と不安に訴えることなしに子どもを育てるということである。

 恐怖に訴えて教えれば、子どもは、自分の感覚から切り離されてしまう。その場しのぎの答えを持つようになる。
 恐怖によって教え込まれたことは、理屈抜きの固定観念になってしまう。

 教師たちが、まずい結果を出すわけにいかないこと。それが、子どもたちに対する恐怖支配を生み出す。
 学力とか。
 入学式や卒業式の規律とか。
 進学先とか。

 教師が先に、結果がでないときのことを怖がり、それを生徒に転嫁してしまうのである。
 しかし、恐怖のあるところに明晰さは育たない。

 もちろんこれは、学校だけのことではない。家庭も、子どもの恐怖や不安に訴えやすい。しかし、学校のほうが、まだ、意識的な行動が取りやすいところのはずだ。

 学校内の、生徒の発言権を強めるべきである。正式な発言権を与えるべきである。大人たちには結果しか見えない。教室の中のことを知っているのは、生徒だけだ。

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イギリスの学力テストによる点数主義

 インデペンデント紙(英国 10月12日)によると、ここ40年間でもっとも綿密なイギリスの小学生の研究が報告され、「子ども時代の喪失」を描き出している。

 「今日の子どもたちは、あまりに早く成長するように強いられている」

 「子どもたちは、政策に基づいて学校が出す要求と、より広い社会からの商業ベースの要求によって、過度な圧力にさらされている」

 「学校では、テストの圧力が強く、カリキュラムは狭く"三つのR"に硬直している。11歳の全国テストに教育が妥協している」

 イギリスはサッチャー政権以降、教育の停滞をなんとかするために、学校に対してナショナルカリキュラムを設定し、さらに数値目標を達成させる方向を取った。その結果は、あまりうまくいっていないと見てよい。

 日本は、進学競争から教育の点数主義化が起こったが、イギリスのように全国学力テストと政府政策によっても教育の点数主義化は起こる。

 イギリス教育のすべてを否定する必要はないが、全国学力テストを軸にして学校に目標を達成させようとすることと、官製の教育水準局を作るのは、日本に持ち込まないほうがいい。結局子どもたちにしわ寄せがいくだろう。
 日本の学校は、イギリスより独立性が低いから、なだれを打って全国の学校が学力テスト対策に特化しかねない。

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誰だって競争させられたくない

 すべての都道府県が、今春の全国学力テストの結果を、市町村や学校単位では公表しない方針だという。格差拡大や競争激化を懸念してのことであろう。それでよいと思う。

 競争は、結果しか見ない浅薄な知性を育てる。
 学校同士の競争に巻き込まれないようにしようとするのは、主に教育委員会や、学校関係者であろう。彼らは、競争の弊害を知っている。

 先生たちも、校長たちも、競争させられるのはいやだ。
 だから、生徒のことも考えましょう。同じ人間ではないか。生徒が競争させられていることの弊害に、もっと注意深くなるべきではないか。
 相対評価や順位付けを、教育から追放すべきだ。
 それで教育ができなくなるなら、よほど教育者の質が悪いのだ。

 誰だって、競争させられるのはいやだ。先生が競争させられるのがいやなら、生徒だっていやだ。

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