カテゴリー「地教行法」の7件の記事

ソ連を怖がったため、ソ連と同じになってしまった体制(1)

 拙著「変えよう!日本の学校システム」(2006)を書いたとき、内容をコンパクトにするために結局使わなかった原稿がたくさんあります。読み直したらけっこうおもしろいので、多少手を入れてブログに出します。

 「ソ連」が崩壊してもう20年になります。若い人たちは、「ソ連」のことをあまり知らないかもしれません。でも、日本の教育システムが作られるにあたって、ソ連とアメリカの冷戦体制に日本が巻き込まれていたことを抜きにしては、説明がつかないのです。

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 日本の教育システムを見ていると、「ソ連社会とよく似ている」と思う。どこが似ているかというと、

 官僚運営で杓子定規である。

 いつもうまく行っていることになっている。

 本音と建て前が大きく分離している。

 いつまでたっても同じことを繰り返す。

 サービスが悪い。

と、日本の教育システムは、社会主義国並みなのである。

 どちらも、官僚組織による上意下達体制なのである。方針とノルマを中央が決定して、下部に降ろす体制である。こういう体制は、「決まりだから」と「長いものに巻かれろ」が蔓延し、現場の実状から発想しなくなる。たいていのことは「すべてうまくいってる」ことにしてしまう。

 ソ連経済と日本の教育にもう一つよく似ていることがある。

「問題の早期発見ができず、問題が噴出したときは、大問題になっている」
ことである。不登校しかり、いじめ問題しかり。

 現場の自主性がないのだから、当然である。これは、上意下達体制の宿命である。人々の自主性ばかりは、どんな強力な体制でも、というより強力な体制ほど、どうしようもないものだ。

 ソ連だって、経済の行き詰まりがはっきりしてから、働くモラルを上げるキャンペーンをやった。まるでだめ。個人の意欲を刺激しようと報奨金を出したり、罰則を作ったりした。まるでだめ。自主運営の企業を作ったりした。まるでだめ。
 日本の教育が同じところにいると思う。

 文科省や教育委員会は、教育指針、運営方法を変えて解決できると信じているようだ。ソ連が計画経済を変えないで、経済活性化をやろうとあがいていたのと同じである。

 私は、決して、営利企業に参入させて競争させればいい、と考えているわけではない。また、性急な上からの改革は危ないと思っている。教育には教育の論理があり、経済と同一視してはいけないと思っている。

 しかし、根本的な病弊は教育を官僚ピラミッドで運営していることにあることは、強調しすぎることはないと思う。

 その仕組みを作ったのが、「地方教育行政の組織および運営に関する法律」(1956)という法律である。
 この法律には、自治という考え方がまったくない。そんな法律を作ったのは、当時の自民党、文部省が、学校に社会主義者が入り込むことを怖れて、学校自治を許そうとしなかったためだ。誰も表だっては言わないけれど、当時の人は、右の人も左の人も、このことはよくわかっていた。

 学校の本質は、国家統制でもなく、市場原理でもなく、自治にある。明日の社会を担う人たちを育てたいと思ったら、学校が自治的に運営されて、参加と責任の雛形にならなければならない。

 世界を、特に先進民主主義国とされる国々を見てご覧なさい。教育がこんなに統制されている国なんかありませんから。

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『地教行法』が日本教育の病巣

 『地方教育行政の組織及び運営に関する法律』(通称: 地教行法)という長い名前の法律がある。この法律がいけない。私は、悪者探しとバッシングは大嫌いなのであるが、『地教行法』に関してだけは、愚法、悪法、痴呆ギョーホーと罵倒してやまないであろう。ちゃんとした説明ならいくらでもつける用意がある。

 この法律によって日本教育が慢性病を抱え込んだ。この法律によって、日本教育は、なにかまずいことがあったときに、それを自律的に見つけて自律的に解決する道を失ってしまったのである。昭和31(1956)年の法律である。教育基本法などより、地教行法のほうがはるかに意味が大きい。

 いまも、教育問題があるとバッシングがはやり、いかに当事者の自主解決能力をつけさせるか、という発想に行かないのである。「~が悪い」、「もっと監視しろ」という声ばかり大きくなる。『地教行法』は、教員と保護者という当事者を教育運営から閉め出した法律である。そして、現場にいない文部省(当時)に、院政体制を可能にした。

 この悪影響は、じわじわと及んだ。症状は特定のものではないところが『地教行法』の恐ろしいところである。『地教行法』のために、いろんな症状が出たときに、上は文科大臣から下はヒラの教員にいたるまで、「このままではいけない」と思いつつ、「でも、私にはどうしようもない」となってしまうのである。

 拙著「変えよう!日本の学校システム」第2部から引用する。

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 戦後の教育改革は、理念を大幅に変えた。理念は変わったが、中央政府が主導して教育を提供するという構造に変化はなかった。教育では参政権にあたるものが作られなかった。作られかけたが、すぐに消えた。

 『地教行法』から半世紀が経った今、教育関係者は「保護者や住民が無関心だ、無責任だ」と嘆いている。それは、保護者や住民のせいではない。『地教行法』が意見反映や参加の道を閉ざしたから、当然の帰結がやってきたのである。
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骨抜きにした教育委員会を立たせる?!

 日本の教育の責任者が、文科省なのか、教育委員会なのか、自治体なのがわからなくて、無責任体制になっている。そのこと、マスコミなどで少しは言われるようになってきた。まだまだ、繰り返し言おうと思っている。

 焦点は教育委員会だ。

 最大の問題は、文科省は長い間教育委員会を骨抜きにしてきたまま、今度は「地方の自立」を言い出したことだ。骨を抜いたまま、「自分で立ちなさい」と言っている。だから、なかなかうまくいかない。

 教育委員会は、そもそもは、文部省を骨抜きにして教育を地方分権にするための行政機関であった。
 ところが、文部省は陰に陽に失地回復をはかり、昭和20~30年代にかけて、逆に教育委員会を文部省の支所みたいにしてしまった。昭和31年の「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が、その法的な完成。この法律は、なんと、教育における保護者・住民の参政権を根こそぎにしてしまったのだから、すごい。

 そういう経過であれば、教育が中央集権的になって画一的とか、お役所的とかいう欠点を背負い込むのも、当然の成り行き。

 その批判が90年代から噴出した。ところが結局、文科省は、権限の構造を変えない範囲でやれることだけやった。だから、寺脇改革がカッコいい理念を掲げても、改正教育基本法が御立派なことを言っても、指導要領が「ゆとり」を掲げても、教育委員会と学校の事大主義は変わりはしない。
 けっきょく、なにをやってもはかばかしくなくて、最近は従来型への回帰が眼につくが、これも数年で行き詰まるだろう。おちこぼれ、不登校、いじめというような従来型の問題がまたぞろ噴出してくるだろう。教員の不登校という新たな問題も抱えこむだろう。

 教育問題は、実際に教育にあたっている人たちが、自分たちの問題として参加してくるシステムをいかに作るかにかかっている。教育委員会を復活させたいなら、教育委員の公選制、あるいは教育長の公選制をやり、現在の学校教育法施行規則で担っている文科省権限のほとんどを地方に移譲するくらいのことをしないといけないと思う。

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モンスターペアレント問題は教育行政の不備

 モンスターペアレントという言葉が盛んに言われる。学校が、あまりに常識をはずれた親のクレームに困っていると。
 極端なクレーマーがいることは事実だ。そのため先生たちが時間もエネルギーも奪われているのも事実だ。しかし、モンスター呼ばわりしているエネルギーがあったら、こういうことは学校も応対しかねる、ということを保護者たちといっしょになって確立し、その周知を図ったほうがよいだろう。

 学校関係者たちに、”モンスターペアレント”という言葉が広がったのは、自治体や教育委員会まで含めて、教育での意見や不満を吸い上げるシステムが不備なためだと思うし、やはり学校の狭い価値観からしか見ていないと思う。

 1クラスを40人とすれば、保護者は80人いる。その中には、いろいろな人がいるのは当然である。大部分は、穏健な人たちだ。むしろ、遠慮しすぎの人たちが多数派だろうと思う。親がみんなモンスターのようなイメージを作ってはいけない。

 私は、私塾をしていたが、保護者のみなさんは常識的だし、問題点を指摘するときはものすごく気を遣ってくれていた。それが、普通の親像だと思う。

 極端なクレーマーはたしかにいる。しかし、市役所に、”モンスター住民”という言葉があるだろうか。私塾が、蔭口でさえ、モンスターペアレントという言葉を使うだろうか。
 とにかく、双方の言い分をきちんときく第三者機関を作ってないし、代議制度に相当するものがないことが問題だ。親は学校に対して「ここで相手にわからせるしか手段がない」から攻撃的になるのである。
 教育委員会があると思われるだろうが、教育委員会は、学校を管理する上司であって、第三者機関ではないのである。

 『地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地教行法 1956)』が根本原因だと思う。『地教行法』を抜本的に改めて、保護者の正式な運営参加を作っていかないと、学校はいつまでも「言い過ぎる親」と「言わなすぎる親」に悩まされるだろう。

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攻撃を育てるのでなく

 昨日のNHK総合「ためしてガッテン」で、ケンカをエスカレートさせない方法を紹介していた。それは、「お前ときたら~だ」と相手を攻撃するのではなく、「私は~で困っている」と自分を主張することである。

 「攻撃でなく主張を」は、カウンセリングなど心理学の世界では、基本常識になっていることである。実際に大きな効果がある。
 また、人間関係の中で有能に生きている人たちの多くは、相手を攻撃せずに自分を主張するのがうまい。

 実際には、家庭でも社会でも、自己主張ができなくて他者への攻撃を繰り返し、自らも他人も傷つけていく人たちが多い。

 自己主張できない態度は、家庭でも学校でも育っていく。けっして学校だけの責任ではない。しかし、学校はより意識的に、立場表明の仕方や、意見のたたかわせ方を身につけさせることができるところである。

 生徒を一方的に管理し、「~すべし」で学校を運営していると、問題があるときに、生徒は蔭口を言うようになる。問題が重大で表にまで出たときは、管理者への激しい攻撃が渦巻く。それを避けようと、管理者はますます生徒の発言権を封じようとする。これは悪循環になる。
 保護者に関しても、現在の教育運営システムには選挙で選ばれる役職が存在していないし、保護者の正式な運営参加もない。このことが、保護者の学校に対する陰口と攻撃の温床になっている。

 生徒の学習権、保護者の教育権をきちんと認めることである。教育を受ける側に不満があったときの解決方法を制度化していない『学校教育法』と『地教行法』の作るシステムを、見直すべきである。

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学校と親のトラブル

 健康面でちょっと問題があって、お休みしてました。

 最近、親と教師のトラブルが多くて、追い詰められる教師がたくさん出ている。これに対して最近の親が悪くなったように言われることが多いが、これは、表面的な見方だと思う。学校を巡るトラブルはさまざまで、親の側にも、教師の側にも、ひどい例はたくさんある。教師だから正しい、親だから正しいということはない。どちらが悪いという問題ではなくて、トラブルの解決機能が貧弱なのである。

 昔は、保護者側が一方的に我慢し、泣き寝入りしていたのだ。それが、親の方も黙っていなくなった。それだけのことだ。
 ところが、親が学校運営に関与するための制度も整備されていなし、運営文化も成熟していないから、トラブル続発になってしまうのである。
 けっきょく、我慢している主体が、生徒・保護者から、教師に移っただけのことであって、問題の解決になっていない。

 あまりに大きな原因が見過ごされたいる。学校運営への、保護者・住民の意見反映の正式ルートがないのだ。学校システムは、明治政府や社会主義国と同じ構造になっていて、当局が「私たちが、みなさんの意見をちゃんと聞きますから大丈夫です」と言っている。これでは、けっきょく官の独善運営になってしまう、というのが歴史の知恵ではないか。

 正式ルートがないと、問題があったときになかなか表面化せず、不信や怨恨となって蓄積されている。そこに、「みなさんの意見も聞きます」と言うから、不信と恨みをぶつけられるのである。
 解決は、保護者・住民に運営参加の道を開くことである。そうすると、発言が責任を負ったものになってくる。現在のコミュニティ・スクールは、中途半端なものではあるが、その一歩ではあるだろう。

 保護者・住民の意見反映の道を閉ざしたのは、『地方教育行政の組織および運営に関する法律』(1956)である。この法律のもたらしているものを、検討すべきである。

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無意味な仕事を増やすだけ

 地教行法の改正案、27条は、問題が多い。やめたほうがいい。

 内容は:
 教育委員会は、毎年、その権限に属する事務の管理及び執行の状況について点検及び評価を行い、その結果に関する報告書を作成し、議会に提出するとともに、公表しなければならないこととすること。
 点検及び評価を行うに当たつては、教育に関し学識経験を有する者の知見の活用を図ることとすること。

 コメント
1 教育委員会の機能不全は、教育委員会に対する文科省と首長の影響力が強すぎることによる。そこにさらに、議会に対する実質責任を負わせると、教育委員会は、もっと自主性と判断力を失う。

2 教育委員会の業務は膨大であり、ほとんどはルーティンワークである。けっきょく、ルーティンワークがちゃんと行われたと報告するだけの、無意味な点検・評価が行われるだけであろう。また報告書作成は、膨大な事務量である。

3 本当に点検・評価が必要なのは、教職員人事が適正であったか、学校教育が生徒・保護者にとって満足できるものであったか、などの政策的なものである。これを事務的に評価することはほとんど不可能である。
 「学識経験を有する者の知見の活用を図る」とつけてはあるが、それより、学校から教育委員会を評価する機能を作ったほうがよいであろう。

 しかし、教育が無責任に行われていることは確かである。教育委員を公選制に戻し、その教育委員が教育長を任命する形にするのが、もっとも手っ取り早い解決法であろう。
もっと根本的な解決法としては、学校運営評議会のようなものを作り、そこに校長任免権を渡して、保護者と生徒に対して責任を取るようにさせることであろう。

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