カテゴリー「競争原理と教育」の21件の記事

ある高校受験

 高校受験の、おもしろい経験談がありました。

 阿部俊郎という人のブログ「いまここ」

  母のこと http://abetoshiro.ti-da.net/e3254559.html

 彼は、中学2年生のときに、母親の日記を読んでしまった。母親は結婚して満州に渡ったのだが、終戦時に夫に先立たれ、3歳と生まれたばかりの子どもを抱えたまま避難民になった。子どもたちは衰弱して死に、葬ることすらできなかった。その後再婚して彼が生まれた。彼は、知らない兄姉がいたことを知り、自分は母親を幸せにするために生まれてきたのだと直感した。

 あるとき、その母が、遊んでばかりいる彼を見かねて、涙ながらに訴えた。「お願いだから勉強してほしい。」

 母のためならばと、彼は猛勉強をし、最難関校に合格した。

 いい話だと思います。
 人間、若いうちのどこかできっちりした勉強をするのは大事なことだと思います。

 ところが、こういう話を読むと、「そうか、誰だってその気になって勉強すれば、できるようになるんだ」とか、「うちの子に、この阿部さんの話を聞かせてみよう」というふうに受け取られることも多いだろうと思います。
 それはよくない。くれぐれも、真似をなさって我が子と阿部俊郎さんを比較なさらぬように、とついつい思うんです。

 中学の後半くらいから、急に勉強をして成績が急上昇する子は、たしかにいます。男の子に多いです。

 ところが、それには条件があります。
 その条件というのは、心から信頼できる人が誰でもいいからいることと、それまでよく遊び込んでいることなのです。信頼があると、知識や技能を受け止める中心があります。よく遊び込んでいるといろんな感覚も、自発性も十分に育っています。そこまで基盤ができた上に、最後に言葉や数式が上載せされれば、あっという間に成績が伸びるのです。

 でも、小学校の高学年くらいからムチが入ってしまっている子では、これが効きません。それどころか、中学の後半になると、頑張っても頑張っても、ずるずると成績が落ちていくことが多いのです。

 がむしゃらに勉強すると、一時的には成績が伸びます。でも、こういうがむしゃら勉強は、長くやると、人間としての狭さが出てきます。生きること全体と切り離されてしまうからでしょうね。

 阿部少年は、高校に入ってから勉強に興味が持てず、学校もつまらなくなりました。それで、自分から作曲の道に入ります。

 この人は、ほんとにマトモだったと思います。がむしゃら勉強の限界に、自然に気付いています。

 数学ができることも、難しい本が読めることも、それ自体は良いことだと思いますが、それ自体が良いことならその良さ自体を伝えていくのが、教育というものです。
 賞罰や競争で動機づけることは、人間を動物に貶めています。

 ちなみにこの阿部俊郎という人、悟りを開いています。ホンモノです。
 

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お前の兄貴はできたのに

 私の妹が中学生のときでした。担任が数学の先生でした。私もその先生に教わったことがありました。

 あるとき、その先生が妹に言ったんです。

「お前の兄貴はできたのになあ。お前も頑張れよ」

 それで妹が頑張ったかって? とんでもない。
 すっかり落ち込んで、数学嫌いになってしまいました。妹は理数系の頭脳じゃないけれど、そう頭が悪いわけでもなくて、声のかけ方、手ほどきの仕方しだいで、やる気はどうにでもなるようなタイプです。

 当たり前でしょ。「私は兄とは違います」、「どうせ、私はダメです」となるほうが普通です。

 その普通の感覚を持っていない先生が、昔も今もけっこういるんです。けっこうどころか、どうもたくさんいるんじゃないか。
 

 他人との比較で言われると、人格を否定された感じがするんですよ。これ、誰でも当たり前です。自分は自分で生きているんだから。

 人間同士の比較って、それ自体が暴力です。

 そういうと、「なんだ、極端なことを言うな」と思われるかもしれないけれど、会社で「○○くんはちゃんとできるのに、きみはねえ...」と言われて、「どうせ私は○○くんとは違います」と心の中で反発したり、「嫌みな言い方する奴だねえ」と反感を持つほうが普通だと思います。

 小学生以下くらいの子どもに、「誰々ちゃんをみてごらんなさい、ちゃんとやってるでしょ」と言えば、たいてい子どもがふくれっ面をします。

 どうしてそうなるかって、説明しますとね、感じ方も能力も全然違う他人を持ってきて、「あんなふうになれ」なんて言われても、やり方も感覚もまったくわからない。どうしようもないんです。実行しようのない結論を押しつけられているだけです。絶望的な気がします。
 「お前はだめだ」と言われた感じしかしないんです。

 数学をやらせたいなら、数学を親切に教えればいいんです。数学で褒めればいいんです。それを「お前の兄貴は...」なんて持ち出すから、落ち込ませちゃう。

 人間同士の比較って、それ自体が暴力です。

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よい競争と悪い競争

 競争的な教育が、浅薄な人間を大量に作り出しています。競争的な教育をやめるべきです。

 そういうと、「競争によって人間が磨かれる」という声が出てきます。
 もちろん、もちろん、そういう面はあります。競争のすべてが悪いわけではありません。

 よい競争は、相撲をとったり、鬼ごっこをしたりするようなことです。よい競争は、

 
   任意参加です。

   ゲームのルールが決まっていて、時と場所を限定して競争します。

   敗者を追い詰めません。

 でも、たとえば、学校で成績の順位を付けるのは

   任意参加ではありません。

   学校生活、家庭生活のすべてを巻き込みます。

   人格全体の優劣とみなされます。

 成績の順位付けは、ムチとニンジンで走らせる手段として使われています。

 「成績が悪ければ発憤するからいいのだ」
 ほんと? そういう人が何%いますか? それに、誰かが発憤したら、ほかの誰かがずり落ちるのではありませんか。
 勝者もいつずり落ちるかわかならい。そこで、みんなが走り続ける。

 みんなを走り続けさせるのが目的で、競争させているのですから。

 学ぶ動機付けとして、競争をさせる人はずるいです。自分は高見に立って、「みんな頑張れ! 負けるんじゃないぞ」と言っていればいいのですから。

 任意参加ならいいです。プロ野球球団ならいいです。レギュラー選手になれるのはほんの一握り。それを承知した上の入団した人たちであり、だめだったらほかの生きる道を探せる。そういう競争ならかまいません。大いにやればいいです。

 でも、普通教育に持ち込むべきではないと思います。とくに、いまの高校入試は、実質的に全員参加の成績輪切りをやっています。立場の弱い者まで、みんな巻き込んでいます。
 高校入試は、つまらない授業を維持するための支配手段になっています。「どんなにつまらなくても、ここで頑張らないと将来がたいへんなんだよ。」

 こいうことをやっておいて、「学ぶ意欲がない」、「自発性がない」。
 それは、あたりまえじゃないですか。

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「やる競争」と「やらされる競争」

 教育で、競争は子どもをよく動機づけるのか、それとも子どもの動機を破壊しているのか。

 私は、学びに競争を持ち込むな、という論である。なぜなら競争で、すべての者を伸ばすことはできない。かならず負け組を生み出してしまうからだ。
 たしかに競争で伸びる者もいるが、競争で伸びるような者は、他の手段でも動機づけできるからだ。

 中学生たちに私塾で教えたが、唖然とするほど、「デキない」生徒たちがいる。ゲームを攻略したり、イタズラをする知能を持っているのに、なぜ? と思うのだが、勉強となると青菜に塩をかけたみたいになる。
 中学の成績付けが、基本的には順位づけ、つまり相対評価になっているせいだと思う。有形のものもあるし、生徒たちの間に生じる暗黙の順位づけもある。いちど落ちると、なかなかはい上がれないのである。

 高校受験のように、全員参加で競争をやらせるのは、愚かなことをしていると思う。学びのエネルギーを、点数獲得競争にしてしまう。

 しかしである、私は教育における競争をすべて否定しているわけではない。子どもたちが駆けっこをして、悪いことなどなにもない。クイズで競争を楽しむことはけっこうなことだ。そのような競争が悪いはずがない。

 では、良い競争と悪い競争があるのか

 重大な違いがあるのである。
 それは、「やる競争」なのか、「やらされる競争」なのかである。

 子どもが楽しみにし、いい刺激になっているのは「やる競争」である。やる競争はかならず任意参加である。負けるに決まっている者は、参入しないですむ。負けたら歯をくいしばるような者だけが参入してくる。

 「やる競争」は、かならず、ルールと場を取り決めて、その中だけの競争にしている。それは人間の本能のようなものだ。勝とうが、負けようが、そのルールでの勝ち負けにすぎないし、その場だけですむことなのだ。

 「やらされる競争」は、人間性と将来の生活すべてに関わってしまい、全盛活を賭けてやらなければならないものが多い。入試などがそうである。
 ストレスを感じながらやる者が多いし、第三者からみていてもかわいそうだ。5,4,3,2,1の相対評価もそうだった。「みんな頑張りましょう」と言っておいて、だれかが上がれば誰かが落ちる仕組みを作っているのである。よくあま、あんな教育学上意味のないことががまかり通っていたものだ、と思う。

 「○○ちゃんに負けないように頑張りましょう」と親に言われて、気分のよい子がいったいいるのかと思う。

 「やらされる競争」は、本人の意思にかかわりなく、全員が投げ込まれしまうのである。ストレスが大きい。トップ層以外は、誰もが「これでいい」ということがなくなる。トップ層だって、いつずり落ちるかわからない状態に置かれるのである。
 競争をやらせているほうは、自分は腕組みをして、みんながあがいているのを見下ろし、「負けないように頑張れ」と言っていればいいのである。なんたる不道徳と思う。

 学びというのは、本来は、なにかがわかるとか出来るようになることであって、それがこなせたか、身についたかの絶対評価しかあり得ないはずである。学びが相対評価になるなど、どうかしている。

 競争を肯定するときは、たいてい「やる競争」を持ち出して、それがいかに刺激的で能力を伸ばすかを言う。そして、「やらされる競争」まで、肯定してしまうのである。
 「やる競争」と「やらされる競争」を混同してはいけない。

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もしも教員のランク付けをしたら

なんだか、小話ふうのストーリーがたくさん思い浮かぶようになりまして...

 政府が、学校に競争原理を持ち込むため、教員をA,B、Cの三つのランクに分けた。

 そうしたら、B、Cランクの先生の保護者たちは、「なんで、うちはAランクの先生じゃないんですか」と学校に文句を言った。Cランクの先生のクラスには、生徒が誰も来なくなってしまった。

 政府はやむを得ず、先生全員をAランクにした。

小話というより、シミュレーションということになるのでしょうかねえ。

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比較のもたらすもの

 以下は、J. クリシュナムルティの『子どもたちとの対話』からの引用です。
 J. クリシュナムルティは、人間が深く真実と愛に根ざすことが可能であると訴え、自ら世界各地に学校を作った思想家です。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
 安全であるという感覚を妨げるものの一つは、比較です。

 あなたが勉強やゲーム、または外見で、他の誰かと比較されるとき、あなたは不安感を、恐怖感、不確実感を覚えます。だから私たちが昨日のことを先生の誰かと議論しているとき、私たちの学校ではこの比較する感じを、成績を与えたり点数をつけたりすることをすっかりなくしてしまうのが、そして最後には試験への恐れをなくしてしまうことがとても大切なのです。

 自由があるとき、幸福があるとき、関心があるとき、あなたはよりよく勉強します。あなた方は皆、ゲームをしているとき、ドラマティックなことをしているとき、散歩に出かけるとき、川を見ているとき、幸福感と健康があるとき、自分がずっと容易に学べることを知っています。しかし比較の恐怖、成績の、試験の恐怖があるとき、あなたはあまりうまく勉強したり学んだりできません。

 先生はあなたが試験にパスして次の学年に進めるかどうかにしか関心がありません。そしてあなたの両親はあなたに進級してもらいたいと思っています。どちらもあなたが恐怖をもたない知恵のある人間として学校を出ることには関心がないのです。
*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 私自身、自分が高校生までのときは、競争的な学びが行われているとは感じませんでした。学校は、友達と戯れていられれば、それなりにやっていけるところなのです。
 しかし、私塾をしていて、さまざまな子どもたちに接するうちに、子どもたちがいかに不安や恐怖におびやかされているかを知るようになりました。
 その不安は、わかりやすい身体症状で表れるときもありますし、強い自我意識になっている場合もあります。しかし、不安と恐怖であることに変わりはないのです。

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切磋琢磨?

 教育関係者でよく言われる言葉に、「生徒同士の切磋琢磨」がある。
 でも、ほんとうに美しいことが起こっているのかなあ。

 先生が、競争ドーピングに手を出して生徒を追い立てるときの口実じゃないの。
 生徒に対して的確な援助ができないときの逃げ言葉じゃないの。

 似た例が最近のオランダにあったと聞いた。
 オランダの教育方法は、生徒の自主学習を尊重する。ところが、「自主性を尊重している」を口実にして、生徒をほったらかしているだけの教師がたくさんいるじゃないか、という声が中等学校の生徒たちから上がって、全国規模の抗議行動になっているという。

 怠慢な教師たちがいることは、いずこでも同じだなあ、と思う。

 しかし、教師に問題があると生徒たちからちゃんと声を上がるようなら、かならず問題は修正されてくる。
 教師たちの自己欺瞞を見抜けるのは、実際に接している生徒たちでないと無理じゃないか。

 オランダでは、学校運営評議会に生徒代表を加えることが、法的に決まっている。

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比較されるのはいやだ

 子どもは、「~ちゃんは...なのに、おまえは...」と言われるのをものすごく嫌がる。親がそれを言ったら、たいていは「ぼく、~ちゃんじゃないもの」と親子喧嘩になるものだ。
 それぞれの人間の、感情、感覚、動機はまったく違っている。自分がいるところからしか行動することはできない。それをいきなり、他人の姿を見せられて「ああなれ」と言われると、自分が根こそぎになってしまう。

 もし子どもが大人に負けて「~ちゃんみたいになろう」としたら、数ヶ月後にはその子は、自発性を失い、自信をなくし、認められたがり、嫉妬深い子になっているだろう。真似することで得たものもあるだろうが、形を真似ただけの浅いものだろう。
 子どもはそういう危険を生得的に知っているから、比較されるのを嫌がる。

 もちろん、比較で人のいいものを吸収することはある。人の姿を見て自分の姿を知ることはある。そのような良い比較があるのは当たり前のこととしてである。それらは、自発的なものである。
 しかし、大人が「あの子みたいになれ」と言うときは、たいてい、他の子をみていいと思い、羨望に突き動かされたり不安に駆られたりしているだけのはずだ。

 人との比較は、それ自体が人格に対する暴力だ。人がどのように生き、どのように変容していくかの実際にまったく無知なまま、結果だけ要求するのである。
 教育には暴力がたくさん入り込むものだ。物理的な暴力は、外面しか従わせることができないが、心理的な暴力なら内面まで動かせる。
 比較することは、子どもの羨望や野心を刺激しながら、それに「向上心」という名称をつけるという巧妙な暴力だ。「あなたのためを思って」が必ずつけられる。

 教育で、そのような羨望や野心が制度にまでされている。
 なんらかの順位付けや相対評価。進学競争。
 教員たちを出世で動機づけて管理する。

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百マス計算の長所と短所

 百マス計算が広がっていった時期があった。かなりの学校や学級が試したと思う。私も私塾で試した。
 やってみた結果は、使いようの方法だな、長所も短所も大きいと思った。最大の長所は、一桁どうしの四則演算に絞りこんだことである。達成感を得やすいし、実効も大きい。

 百マス計算は、一見競争に見えるが、うまくいったところは競争として使っていたのではないと思う。

 百マス計算は、一定量の計算を終わらせるタイムを競うものである。全員参加で一律の競争をやると、熱中してどんどん伸びる子と、「どう頑張っても、あの子たちには追いつけない」と投げ出す子の両極が生まれるものである。落ちこぼれを出してはいけない義務教育で、これはまずい。

 それでも百マス計算で落ちこぼれを出さずにやらせることができたところは、各個人として能力が伸びていくことのほうに焦点を合わせることができたのだと思う。
 たしかに、シューティング・ゲームで腕前を上げるような感覚に持っていくこともできる。回を重ねるうちに、自分の計算が速くなるのが実感できる。シューティング・ゲームよりはつまらないが、算数という実戦で役に立つのがおもしろい。

 あるいは、「同じことを、みんなが達成できたのです」という連帯感のほうにうまく誘導できたのだろう。

 しかし、一定の分量を終わらせることの早さを競うと、早く終わってしまった子が待っていなければならない空白の時間を作る。また、だれが早いか遅いか見えやすいから、負け組を作り出しやすい。それと、年齢によるが、100マスでは多すぎて息切れする子が出る。
 かなり条件が整っていないと、マイナス面が出てくるだろうと思った。

 こういうことをやるなら、一定の時間でどれだけの量ができるか、というタイプにしたほうがいいと思う。

 それと、百マス計算は反復練習型の中ではかなり特殊なものであり、これがうまくいったからと言って、反復練習型すべてを肯定することにはならないと思う。

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義務教育での相対評価は絶対悪

 スポーツやコンクールで参加者が競い合うのはよい。しかし、参加する気のない者まで強制参加させられて、ひどい点数をつけられ、将来の人生にマイナスを被るようにして、いったい誰にどんな得があるのか。

 ホラー小説めいた例え話を一つ。
 社会教育の受講を義務づける法律ができたとする。ある地域の住民すべてをお役所が強制的に集めて、コンピュータの扱い方とか家計の維持のしかたなんかを教える。授業に出ないと、年金受給資格を失うことにする。

 もうわかっててつまらながっている人に「あなたは優秀です」と言って5をつける。どうしてもわからない人や、そんなことを嫌がってやろうとしない人に1をつける。5と1の人数は7%と決まっている。

 できない人たちは、困り切り、ただ時間が経つのだけを願って教室に座っている。すると講師が「もっと頑張らないといけません。自分の将来を真剣に考えましょう」と言う。
 「わからなかったら、家で勉強しなさい」とも言う。
 「これは、あなたのためを思って言っているのです。年金をもらえなくなったらたいへんでしょう」とも。

 しかし受講者がみんなで頑張ったとしても、講師は、1や2の人をなくすことができない。7%の人に1をつけ、24%の人に2を付けなければいけないことは、法令で決まっているので、誰も変えようがないのである。

 たくさんの人が嫌がり、成績が低迷する。その人たちには、授業などまったく入らない。でも年金をもらえなくなるのは困る。そこで塾ができてくる。たくさんの人が授業中は居眠りし、塾に行って勉強する。試験の前になると、自分だけは年金をもらえるようにと、家で頑張って勉強する。
 しかし、やはり7%の人が1で、24%の人が2である。
 頑張れた人たちは、自分が落ちこぼれにならなかったことでほっとし、頑張れなかった人たちをバカにする。

 われわれがやってきたのは、こんなことではなかったのか。

 相対評価はなくなった。しかし、入試がそのままであるから、教育風土はあまり改善されていない。とくに高校入試が、深刻な利害を伴う全員参加の相対評価みたいなものである。それと、親にも教師にも、子ども同士を比較して発憤させようとする文化風土がある。

 教育とは援助である。
 義務教育ならば、すべての人が、自分に受け入れることのできる援助をしてもらえるということではないのか。

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