カテゴリー「学校教育法改正案」の5件の記事

学校評価が官製になりそう

 国会に上程されている学校教育法改正案の本文を読んでいて、びっくりした。学校評価のところ(42条)に、「文部科学大臣の定めるところにより」と入っている。

 うわお。
 学校評価が官製のものになってしまう。

 いま、すでに公立小中学校の99.7%が学校の自己評価をやっていて、これから評価のやり方が、自律的に発展していくところ。

 発表されている改正案の「概要」は、「学校は、学校評価を行い、その結果に基づき、学校運営の改善を図ることにより、教育水準の向上に努めることとする」
となっているから、問題ないと思っていた。でも、念のために法律本文を読んだら、「文部科学大臣の定めるところにより」という16文字がひょっこり入っていた。

 「学校教育法」は公立私立を区別していないから、私立学校まで適用される。

 学校評価は、これからの教育水準維持の中心になってくると思うが、この使い方しだいで、特効薬にも凶器にもなる。

 自然にまかせていれば、学校と学校に関係した人たちの間で評価のやり方が成熟してくると思う。
 健全な学校評価があれば、日本の学校が”官製学校”であることを抜け出していくのだが。

【資料】
 学校教育法改正案 第42条 小学校は、文部科学大臣の定めるところにより当該小学校の教育活動その他の学校運営の状況について評価を行い、その結果に基づき学校運営の改善を図るため必要な措置を講ずることにより、その教育水準の向上に努めなければならない。
 (49条に中学校、62条に高等学校への準用が書いてある)

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制度に行き詰まりがあるとき

 堺屋太一がこんなことを書いていたのを読んだことがある。

 制度に行き詰まりがあると、官僚機構はまず、運営でなんとかならないか、と工夫してみる。
 それでだめだと、人を入れ替えてみる。

  それでもだめだと、やっと制度改革に手をつける。

 近年の教育改革が、ちょうどこの例にあてはまると思う。

 運営でなんとかならないか、と工夫していたのが寺脇改革。これは理想を鼓舞したが、権限委譲はやらなかった。 それと、学校と地域の融合。それ自体はよいことだが、学校に手をつけずになんとかしようという試みの一つ。

 人を入れ替えてなんとかならないかとやっているのが、民間人校長。
 民間人が学校体質に新しいものを吹き込もうとしたら、よほどの個人的力量が必要になる。
成功例も出てくるだろうが、自殺者も出た。

 そろそろ、本格的な制度改革が必要になっている。

 教育を受ける側の権利に基づいて、教育が柔軟に起こってくる制度が必要である。

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学校教育法は「きれい事支配」の原因

 学校教育法の改正案に教育目標変更がある。これまで、小学校と中学校の教育目的が別々に書かれていたのが、「義務教育として行われる普通教育」の目標として一本化された。

 たいして意味のない改正だと思う。理念を掲げてその実行を迫る教育法制は、学校や教育委員会の「きれい事支配」を強めるだけではないか。
 目的・目標は教育哲学にまかせて、教育法制は、問題があったときの対応方法の体系を作ったほうがよい。問題を見つけた人がどう訴えればいいのか、どこが責任を負って対処するのか、泣き寝入りする子どもが出なくてすむようにするにはどうしたらよいか、そういうことをきちんと整備すれば、学校に自律的回復力が働く。
 官僚機構が理念法で指揮するから、学校はいつまでたっても、きれい事を復唱する体質から抜けられないのである。

 教育目標をあれこれ法定しても、そうたいして意味を持たないと思う。旧教育基本法にけっこうなことがたくさん書いてあったが、それが実現しなかったのと同じである。それより、

・ 学校に対する上級官庁(文科省、自治体)の指揮権がどうなるのか、

・ 学校評価を自己評価でやるのか外部監査をやるのか

・ 外部監査をやるとして、誰がやるのか

・ 評価、監査の着目点がどのようなものになるか

のほうが決定的である。これによって目的・目標の使われ方が決まる。評価や監査に対して、学校の自主性が十分でないと、学校は窒息するであろう。

 
 学校教育法での教育目標をすこし詳しく見ると、注目点は、教育基本法第五条に拠り所を求めたことである。

 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。(第21条)

 教育基本法第五条(義務教育)第二項というのは、

 2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。

 教育基本法で教育の目的・目標は、第一条(教育の目的)、第二条(教育の目標)、第五条(義務教育)、第六条(学校教育)に書いてある。うんざりするほど書いてある。それだけある中で、学校教育法の小中学校の目標は「第五条の目的を実現するため」として、義務教育の目標の中に移行させてきた。これは、第五条の目的が、もっとも包括的で無難なものであるためだと思われる。

 いっぽう、教育基本法にはこういう条文もある。教育基本法第六条(学校教育)第二項は、
2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。

 今回の学校教育法改正案がこの第六条を直接取り込まなかったのは、現実的には見識だと思う。
 学校の規律の問題も意欲の問題も、現実問題として先生たちはいつも悩まされているのだから、法律で言わなくても学校はなんらかの対応をするに決まっているのである。対応できないとしたら、特殊事情を抱えていたり、人材やノウハウやコミュニケーションが不足しているためなのだから、その手当を考えたほうがよい。

 しかし、法制上は教育基本法第六条が「学校教育」についての条文なのだから、第六条を優先させる必要があるであろう。またもっと教育基本法一条の目的、二条の目標に沿わなくてもいいのか、という問題もある。教育目的の法定自体を疑ったほうがよいと思う。

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学校教育法改正案にバグ

 学校教育法の法案がすこぶるわかりにくい。どの条文をどうするのかが見えない。法律案にバグがあるとしか思えない。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houan/an/166.htm

 たとえば提出法律案には「学校教育法の一部を次のように改正する」とあって、

 第二十七条第一項ただし書を削り、同条第二項中「ほか」の下に
「、副園長、主幹教諭、指導教諭」を加え、同条第四項中......

 とあるが、現行の第二十七条は

 第二十七条 学齢に達しない子女は、これを小学校に入学させることができない。

 というものであって、ただし書きなどない。第二項もない。
 これは、今回学校教育法の章立てを変え、条文ナンバーの全面変更をまずやっているためである。そのあとさらに変更を加えるので、新しいナンバーの条文を現行法とするミスをやっている。
 整理途中の草稿がそのまま出てきたような印象である。国会が実質審議に入れないのは、そのせいかもしれない。

 こんなミスをやる原因を推測してみる。3つほど思い浮かぶ。

1 事務の能力限界
 今回の学校教育法の改正は、文科省に過労死が出てもおかしくないほどの超ハードスケジュールである。文科省の事務方がついに限界に達した。

2 いじり過ぎ
 今回の学校教育法改正は、マイナーチェンジなのであるが、政府は教育基本法改正の後を受けているので、大きく変えたように見せたい。そこで、章立てを変えたり、不要条文を整理したりと、変更箇所をむやみに大きくしたのではないか。急ぐ状況だというのに、欲張りすぎた。

3 意識的サボタージュ
 文科省は、ほんとうはこんな改正をやりたくない。そこで、せかされるままに、問題だらけなのを承知で法案を出してきた。流してしまえ、というのが本音。

 以上、推測に過ぎないが、とにかくこの法案はあわてすぎている。

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副校長、主幹教諭、指導教諭

 学校教育法が改正案され、副校長、主幹教諭、指導教諭という役職が新たに作られた。これは、管理ラインの強化によって、統合力を欠いた学校を活性化しようとするものである。しかし、これは企業でも団体一般でも、組織が不活性化したときに、真っ先に試みられる対症療法である。不活性化した組織を、命令系統を強めて活性化しようとする改革は、かえって「言われる通りにすればいいでしょ」層を増やして、失敗することが多いものだ。

 副校長は、結局のところ教頭の名称を呼び変えたにすぎない。大規模校では、マネージメント機能を充実させる必要がある学校もあるだろうが、それは複数教頭制で処理できるはずだ。

 主幹教諭は、学校管理の雑務担当と一般教員のとりまとめ役で、はっきり言って汚れ役である。主幹教諭をおいたためにうまく行く場合もあるだろうが、ラインを長くしてしまって意思疎通がかえって悪くなることのほうが多いのではないか。

 指導教諭は、役職として固定しないほうがいいのではないか。役職で固定しても、一人の教師がすべての教科、すべての生徒対応で指導的な役割を果たすことは不可能だ。学校内で先輩教師が後輩の面倒を見ることや、教科で指導的な役割を果たす教員が現れることは、いつも自然発生する。指導教諭という役職を作るより、学校内でプロジェクトチームが柔軟にできる仕組みをとったほうがいい。

 学校を大きな官庁組織の一つとして運用することは、日本ではあたり前になっているが、世界的には必ずしもそうではない。イギリス、フランス、フィンランドなど、教師が採用されるのも辞職するのも学校ごとである国も多い。日本の学校に現在必要なのは、学校の機動性と判断力である。これは、学校の自治と裁量権の問題であり、職階制を整備して官庁モデルに近づけることとは次元が違う。

 教員の最大の仕事は授業をすることであり、これは基本的にはそれぞれの教員が単独で技量を発揮する仕事である。それぞれのクラスや教科を年単位で担当する教員の仕事は、それぞれの農地を年単位で耕作する自営農民とかなり共通するところがある。 
 自営農民たちに役職階層を持ち込んでもしょうがないのと似ている。職階制を強化して学校が活性化するのか、効果は疑問である。

 学校の本体は、教師と生徒の人間関係そのものである。頭を目標と目的でいっぱいにして公務員的に頑張っても、「人間味がない」と生徒たちにそっぽを向かれる世界である。

 職階制整備より、近年の学校運営で注目すべきことに、教師の同僚性(collegiality)がある。特に、教育学者の佐藤学が提唱する「学びの共同体」作りとともに、”教師の同僚性”が広がりつつある。教師の同僚性は、よい学校作りに欠かせない。

 教師は、人間を相手の仕事で、ストレスを生じやすい。問題を分かち合える仲間がいないとつらいものである。また、こまかな観察力や複雑な技術を必要とする仕事であり、教師同士の学び合いが欠かせない。同僚性があるところでは、教師同士が、協力し、学び合う助けになる。

 授業をよりよいものにしたり、生徒との関係をよくするための知恵や技術は、役職の高いものが言うから正しいというものではない。誰が言ったことであろうが、現実に照らして正しいことは正しいし、間違っているものは間違っている。教師の基本倫理は服従・忠誠ではなく、専門家として誠実であることである。リーダーシップを取る教員は、自然発生するものである。

 現在の学校が行政機関のように杓子定規に運営されている。そこで、教師が教室に閉じこもる。その弊害をなくそうと、職階制の上下関係で、教師をこじ開けようとする。また、給与のランク付けで、動機づけようとする。教師がいっそう閉じこもる。その悪循環を、日本の学校はえんえんとやってきた。今回の改正もその一つであろう。

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