カテゴリー「教育哲学」の2件の記事

生きるアート

 秋の日差しが窓に差し込んでいます。カーペットに光の模様ができています。

 ヒヨドリがピーピー鳴いています。壁に掛けた時計が、かちかちいっています。

 疲れを貯めていたので昨日たっぷり休養し、整体にもいきました。きょうは身体が穏やかです。

 それから、「やらねばならないあれやこれや」を想い出しました。それで頭をいっぱいにしてそこから一日の行動を組み立てそうになります。
 でも...。ああ、ここに住みたいのではないのだよ。
 考えがいつも中心にあって、すべてを説明し、方式をいつも蓄積し、命令を出している状態。
 そこが、不幸の元なんだよ。

 考えは、生きることにとって大事なパーツの一つです。
 でも、パーツの一つにすぎないものにしがみつくから、人間が考えの奴隷になります。さまざまな教条主義が発生します。

 人間がそうだから、人間関係のすみずみで、たくさんの無理解と強引さが発生する。それが社会構造になっていく。社会問題が限りなく発生する。

 そうではなく、「生きるアート」とでもいうようなものがあります。あたりの事物の刻一刻の移り変わり、身体の声、さまざまに移り変わる感情、事実を的確に映す思考、他人の言うことの傾聴......、それらすべてが大事なものです。生きることは、そういうものがパーツとなって、一つのメロディーになり、祝祭になっていくものです。

 考えで自分や他人を支配することを訓練している教育は、人間と社会を不幸にしています。

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”教育”と呼ばれるこの野蛮な風習

 ブログの更新の間をずいぶんとあけてしまいました。いつも読んでくださる方々、すみません。健康は大丈夫か、とご心配いただきました。大丈夫です。

 多忙でした。
多忙でしたが、でも、ブログをまったく書けないはずなどありません。
なにか新しいものが感じ取れるけれど、表現の道が見つからないんです。

 言葉が及ばないところに入っていく道を見つけた。十代のうちは住んでいることのできた王国に、少しは戻ることができるようになった。

 そうしたら、すべての結論は浅薄だと感じられてしまう。

 人間の中に、クリエイティブそのもの、感受性そのものみたいな世界があって、言葉はその影みたいなものです。
 もちろん、言葉には言葉の役割があります。言葉は役に立つものです。欲をかかずに、有用性に徹して、言葉を使うべきです。

 たとえば、ふっと言葉が浮かびます。
「”教育”と呼ばれるこの野蛮な風習」
 お、いい言葉だ。あるイメージを強烈に喚起するでありましょう。
 いわゆる教育って、ほんとに野蛮だな。
 子どものときも思った。大人になっても思った。今も思う。
 で、「”教育”と呼ばれるこの野蛮な風習」みたいな言葉をたくさん思いついて、それを言うとそれなりに喝采してくれる人たちがいて....、みたいなことをしてきたのですが....。
 それは、それでいいのですが....。
 それだけじゃなくて、責任を持って日本教育の分析をして、処方箋も書いて来たのですが....。

 タゴールの詩を想い出します。
「私が歌いにきた歌は、まだ歌われていない」
(「ギタンジャリ」 第13歌)

 6年前に体調を崩して仕事を絞っていたのですが、今年の春から、また新しく子どもたちと関わっています。自主保育的な幼児教育と、中学生相手の寺子屋。

 子どもを相手にしていると、少しは、自分の歌を歌った気がします。

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