カテゴリー「官僚制と教育」の3件の記事

ほんとうは強制力で成り立っている学校

 公立小中学校は、法律のバックアップで、強制的に生徒を集め、生徒が聞いていようがいまいが、授業を遂行するところです。生徒が学ばないと、生徒個人個人の無能力や家庭の努力不足のせいにされます。
 それだけだと言っては申し訳ない、楽しい授業がないこともありません。一部、いい先生もいるし、いい学校もあります。でも、やはり、それはほんの一部。
 学校は基本的に強制力で成り立っています。
 「学校に来ないとたいへんなことになるぞ」という暗い脅しが底流に流れていて、その頭上に、「明るい、生き生き、自主的」というような垂れ幕や銘板が飾られています。

 学校が強制力をなくしたら崩壊することを、やっている人たちは予感しています。だから、「強制しないと勉強しない」、「勉強はさておき、社会性が必要」、とさまざまな理屈をつけます。それによって、強制力でも振るわないと存続できない教育が、存続します。

 そういう強制力で成り立っているところで、「ゆとり教育」をやろうとしても、「ゆるみ教育」になります。

 それではまずいと強制力を強めると、また「思考力不足」、「学力格差」の問題が浮上するでしょう。落ちこぼれが増える問題が再びクローズアップされるでしょう。新学習指導要領が実施された今年度から、不登校はまた増加に向かうと予想しています。

 現体制を温存したまま、「ゆとりだ」、「学力だ」と、上から指揮していても、どうしようもないのではないでしょうか。教育というのは、泥臭いものでして、官僚組織に指揮できるようなシロモノではないです。
 ゆとりを実現するには、それなりの学校運営体制と教師力が必要です。学力を追求するのでもそうです。もっともっと現場感覚と自由が必要なのです。

 大事なのは、学びです。子どもの学びを知っている人たちが、教育を作っていけるようにしないといけない。子どもに接していない官僚組織が、教育内容にまで口出ししていばいけないです。
 なによりも、志を持った人たちのために学校を作る自由が必要です。

 教育は、職務の遂行から生まれるのではありません。
 子どもの学びに対する理解、子どもと教師の共感から、常に新しく生まれるものです。、

 「子どもと保護者のための最善を為してください。細かいことは言いません」
 そう言って、資金と施設の手配をし、関係者をコーディネートすることが、教育行政の仕事だと思います。

 幼児を見ていると、自発的によく学ぶものです。教えなくても、さまざまなスキルを身につけ、知識を増やしています。あんな力を持った子どもたちが、学校に行くようになると、どうしてあんなにダルになるのでしょうか。どうして落ちこぼれがでるのでしょうか。
 学校に出席しているけれど、学ぶ権利(教育を受ける権利)を損なわれている子どもたちがたくさんいます。


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ニセの適応、ニセの自主性、ニセの学力

 小学生のとき、恥ずかしかったのが、先生の前だと「良い子」になる子たちでした。見ているだけで、私のほうが恥ずかしくなって、ジタバタしたくなるような気分になるのです。
 先生も親も、それが見抜けないのです。
 今となれば、そういう子にこそ愛情が必要だと知っています。でも、子どものときは、そこまでわからない。

 「良い子」だけではありません。学校は、作り物がまかり通るところでした。

  ニセの適応。 クラスの中にいても、問題さえ起こさなければ、適応できていることになります。後年、集団生活に疲れやすく息切れします。 

  ニセの自主性。 課題を与えられて、それをやったら自主的ということになります。後年、自分が何をしたいのかわからなくなります。

  ニセの学力。 丸覚えでも、あてづっぽうでも、点数を取らなければならないのです。後年、物事への洞察力が不足します。

 ホンモノの部分ももちろん形成されています。しかし、ニセモノが学校のフィルターにはひっかからないで素通りするのです。それどころか、むしろ、子どもが表面だけツジツマを合わせてニセモノになることが、称揚されています。

 どうしてそういうことになるのかなあ、と大人になってから改めて考えました。先生個々人や、個々の学校のせいではなさそうです。

 やはり学校が、「お役目」を遂行するだけの官僚組織であることに行き着くと思います。官僚制組織の中では、結果は、客観的なものでなければならないのですから。ニセでもいい、指標をクリヤーさせるところなのです。

 ニセモノが横行することを、学校のせいだけにしては申し訳ないと思います。でも、学校は「なにがほんとうのことか」を伝えるのに、いちばん希望を持てるところのはずです。利害や、力関係で動機づけることなら、家庭でも地域でもできることです。
 

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官僚制に冒された教育

 この3日ほど、食品中の放射性物質を測定するのに熱中していました。専用の器械は200万円くらいからです。それを約50万円の投資でなんとかしようと、工夫し、数式と格闘し、どうやら使い物になる方式を作りました。4月からの国の基準である100ベクレル/kgでも確実に検出できます。楽しかった。

 学びって、これなんだよな、と思いました。熱中する、工夫する、調べまくる。それは楽しいのです。今回、たまたまうまく結果が出ました。でも、失敗したかもしれない。それでも、自分が学べるものはたくさんあります。長らく文系の仕事をしていたので、標準偏差と誤差の問題など、大学時代にサボッたのを改めて学習できました。

 教育って、学びって、なに? ほんとうに何かを学べたときって、どういうときでしたか?
 先生がいる場合もある、いない場合もある。でも、とにかく自分が関心を持っていないことには学びはない。

 それを考えると、学校でやっていることって、無駄なこと、非効率なことがすごく多いと思います。

 なぜ?
 現状の学校は、官僚制に取り込まれた教育です。たいへん形式的になっている。

 教育を受けることが、学校に出席することに置き換えられている。
 先生が授業をすれば、教育が為されたことにされる。
 教室の椅子に座っていれば、教育されたことになる。
 習得したかどうかが、点数を取れるかどうかになっている。理解なしの丸暗記でも小手先のテクニックでもかまわない。

 現在の学校は、巨大な官僚機構の末端に位置しています。官僚制は、文書化と客観性を求めます。したがって、教育は、文書化できる客観的な結果を出すことを目的とするようになります。
 

 でもね、そうじゃなくてね、教育ってもっと柔軟だし、自由なものじゃないでしょうか。
 教育はすごく個人個人の内面に根ざしたものなんです。結果を文書や数値にできるものなんて、ほんの一部。そのほんの一部が自己目的になっているから、出席と点数が一人歩きします。



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