カテゴリー「自由と創造性」の6件の記事

未来の教育

私が思い描く未来の教育の姿です。近未来の、実現可能な範囲で考えています。

〇 コンピュータですむことは、コンピュータソフトでの習得が主流になる。計算練習、パターン認識、シミュレーションなどの学習ソフトが発達する。一流ソフトハウスが教育に参入し、ゲームとサシで勝負できるほど熱中できる学習ソフトを提供する。学習ソフトは、主に家庭やクラブ活動で行う。

〇 学校は、人と人が触れ合わないと伝えられないことに特化していく。共同作業、対話、討論が多い。黒板とチョークの集団授業は、最小限になる。大人と子ども、子ども同士の相互理解を育てることが、学校の重要な役割になる。

〇 学校は週4日、午前中だけ。ムチとニンジンの原理で子どもを動かさない。賞罰に頼らずに学びに導く研究が十分になされている。小中学校は試験をしない。宿題に依存する学校は無能な学校と見なされる。

〇 午後の時間は、地域有志やNPOなどが、さまざまなスポーツクラブ、趣味のクラブ、工作・工芸、実験・研究などの活動を用意する。この活動は、学校横断的で、異年齢構成。優秀なリーダーが、有給で配置されている。学校がこの活動に参入してもよい。

〇 教員は、研究、研修、準備のための十分な時間がある。教員同士の研究会が、たくさん組織される。
 優秀な幼児教育、初等教育の先生は、社会の宝として大学教授と同等以上の待遇を受ける。子どもと接することと、後進を育てることに専念できるようにする。

〇 教員養成は、実技中心で行われる。現実の子どもを理解することと、どのように援助するかを学ぶすることが中心になる。

〇 学校は、基本的に設置自由である。さまざまな教育方針の学校があって、保護者と子どもが選択できる。人気校はウェイティングリスト方式を採り、学力試験は行わない。

〇 ホームエデュケーションが発達し、学校や地域活動と連携しながら、カスタマイズされた教育を手配することができる。ホームエデュケーション家庭の相互援助組織が発達する。

〇 障害を持つ場合、割り増しの教育費が支給され、その子にあった教育を手配できる。どのような教育を受ける場合でも、その教育費が本人について回る。

〇 語学、数学、理科実験など、各種の技能認定制度が発達し、誰でも年齢、学校在籍に関係なく、社会的な証明を得ることができる。

〇 いちど取得すれば生涯有効な大学入学資格をもうける。この資格があれば、原則として大学には願書を出すだけで入れる。医学部など、定員オーバーが予想されるところは、適性検査とくじ引きで調整する。

〇 大学はきちんと試験をする。落第は多くなるが、願書を出すだけで他に移れるので、学生も学校も落第の負担が少ない。自分の適性を見つけるまでには試行錯誤が必要であることを、学校も学生も理解している。

〇 教育費はすべて無償とする。入学資格制度なので、大学にいつでも入学することができる。ほんとうに学び必要を感じたときに学ぶことができる。生涯教育システムが発達する。

〇 このようなシステムを実現した場合、教育での必要人員は増え、雇用は大幅に増える。教育費は現在の5割増し程度かかる。消費税アップでまかなう。どのような経済活動も教育システムのおかげで成り立つのだから、教育費は財物やサービスの原価の一部と考える。

(付記 税は再分配であって、増税しても経済は縮小しない。むしろ、積極的に教育での雇用を増やすべきである。消費税ならば、輸入品にも同等に課税される。日本で売られる輸入品には、消費税で日本社会のシステム維持費を負担してもらう。)
 

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読書感想文の宿題をやめましょう

 夏休みの読書感想文の宿題をやめましょう。
 強制されても苦痛なだけです。得るところがありません。感想文は書きたい人だけ書けばよい。

 「感想を書きなさい」と言われても、「おもしろかった」と書けば、それ以上書くことなどないのです。誰でもそうだったはずです。
 強いておもしろさを書こうとすれば、「主人公がこうしてこうなった」というような場面やあらすじを書くことになります。そうするとそれは「感想ではない」と先生に言われますので、書けない。
 「おもしろかった」と1行書いたあとは、どうしようもなくて、苦しむのであります。

 優秀作に選ばれた感想文を読んでごらんなさい。感想文を書くというのは、本を読むのとはまったく違う技術なのです。ぐっと自分に引き寄せてしまって、自分の想い、考えを書くのです。

 よい感想文を書けるようにするなら、子どもが生活の中でほんとうに感じたことを言葉にする機会をたくさん作る、その子が発することによく耳を傾ける、きらりとしたことを言ったら反応してあげる、そのような地道なことをし続けることです。作文の指導が上手な先生は、それをやっているはずです。親たちでも、上手な人たちがいます。
 話し上手、書き上手は、心から聞いてくれる人がいるときに育つのです。

 ぽーんと宿題だと強制されたら、いやになるだけです。

 読書をさせてなにか能力を伸ばさせようというなら、あらすじを書くことのほうが大事です。物事を要約することは大事な能力で、日常生活でも、国語の勉強でも、役に立ちます。

 読書感想文の全国コンクールが、毎年開かれています。
 あれに出させようと、全国津々浦々の小中学校が、読書感想文の宿題を出すわけでしょう。

 りっぱなご褒美を数少なく出して、みんなに競わせる。
 上澄みに素晴らしいものが現れればそれでよい。強制してでもみんなにやらせて、裾野を広げる。陰で苦しむ人間、やる気をなくす人間が出ることは、まったく視野に入っていない。

 いまの教育の縮図じゃないですか。

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雑念と恐怖

 私は小心者で、ちょっとのことですぐに怯え、虚勢を張ったり、しどろもどろしたりする。他人の怯えや虚勢はよく見えるが、自分のものはなかなか見えない。

 もう60歳だ。時が経てば自然に成熟する、などということはなかった。相変わらずだ。このまま死ぬのも、しゃくだ。なんとかならないかと、他人が言うことを聞き、万巻の書を読んだが、みんな役に立たない。そんなことをしていてもしょうがない。自分の中で実際に起こっていることだ、自分で実物を見るしかない。

 内面に関しては、言葉にせずに観察すること。
 言葉に置き換えるときに、ほんとうに起こっていることを見失う。感覚、感情のほとんどは言語化不可能だ。言葉にするとき、浅薄になる。
 しかしそれは簡単ではない。私はすぐに、覚え込んだ言葉に置き換えてしまい、注釈をつけ、結論としてため込む。でも、何年もやっていれば、自分の言葉の檻の中に陽が差し込むこともある。

 それは、子ども時代の、感受性だけで生きていたときの再現でもある。

 そうすると、たくさんの条件反射があることが見つかる。恐怖があるときに、私は条件反射的に言葉を紡ぎ出している。「きのうのあの映画はおもしろかった」、「政府の対応はなってない」、その他ありとあらゆる、希望や正義や気晴らし。

 それらは、恐怖を感じないですませるための言葉なのだ。けっこうな言葉が反射的に出てきて、恐怖を感じることを防いでいるのである。だから、私はその言葉がわいてくる理由を認識できない。そのときは、よいことを思いついたとしか思っていない。

 それが、いわゆる雑念の正体である。
 恐怖だけではない、悲しみも、空虚感も、身体の不調も、雑念を引き起こす。ようするに、あってはならない感覚・感情が雑念を引き起こすのである。雑念というのは、それを引き起こした原因を感じないための条件反射である。だからなかなかその原因がわからない。

 雑念でいっぱいで、集中力がないし、コミュニケーションがうまくとれない子どもたちを見てご覧なさい。たくさんの感覚や感情がケアされないままになっている。
 ところがその様子を見ると、学校も親も、条件反射的にもっと恐怖に訴えて訓練するのである。目先の結果だけは出る。それで、訓練が万能の処方箋だと思い込んでしまうのである。

 愛があるときだけ、われわれは真実に直面できる。
 愛とは、どんな正当化も非難もないことである。

 いわゆる雑念でなく、信条、ドグマに頼るようになると、弊害はもっと大きい。~主義や、国家に安心を求める人たちは戦争を引き起こす。

 結果を出すことにとらわれた躾けと教育は破壊的だと思う。それは、子供たちを虚栄や攻撃性や逃避に追いやる。それが、個人レベルではさまざまな不安と恐怖を生み出すし、集団レベルでは戦争を生み出す。

 しかし、世を憂いる警世の言葉などにたいした意味はない。
 私の雑念が、ほんとうは恐怖や悲しみの条件反射で引き起こされていることを見る、そのとき真実探求の第一歩があり、いつのまにやら安心と幸福感がやってくる。
 そのとき、私は、生徒や家族に、すこしはまともなことができていいる。不思議なのだ。ふっとタイミングよくジョークがでたり、うまい説明を思いついたりする。
 社会に関しては、結論から始めるのは暴力の一種だ。自分の感受性と自分の周りの人たちからはじめたときにだけ、何事かをなしえる。

 子供たちが、どうやって虚栄や逃避を身につけていくか。どうやって、暴力的になっていくか。それが社会に何をもたらしているか。
 そのことが見えたら、私たちのしつけと教育に、根本的な変容がはじまると思う。自分の足下から始めると思う。私たちは、子供の感受性を大事にし、優劣意識を煽ったり、競争させたりはしなくなると思う。

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生きる力を得る二つの道

 生きる力を得るやり方に、大きく言って二つある。

 一つは、何か特定のイメージを持ち、それを実現しようとすることである。努力と獲得と言ってもいい。実現したときの興奮は大きい。その興奮を味わおうと、繰り返しチャレンジが行われる。
 多くの学校の教育者が、これだけが生きる力を得る道だと信じ、このタイプの生き方を生徒に身につけさせようとする。

 もう一つの生きる力を得る道は、特定の目的に絞り込まず、感受性を開け放って流れに身をまかせていくことである。あらかじめイメージがあるのではなく、まず事物や人との関係があって、その中できらめくものに招かれている。
 子どもが何かをおもしろがって夢中になっているのは、これである。突然絵を描き出したり、虫や草と飽きもせず戯れているのがこれである。

 子どもが疲れると、親の膝の中に入り込んで眠るのもこれである。ほんとうに流れに身を任せている。だからエネルギーがわくのである。

 いわゆる「クリエイティブ」な生き方は、後者である。その中に、常に新しいものがわき出してくるからである。
 明晰さも、後者に属する。物事が、あるがままに見えるからである。

 学校教育では、目標と努力だけが生きるエネルギーをもたらすと信じられている。しかし、ちょっと冷静にみれば、それは、欲望をかきたてて生きる道ではないか。
 「目的に向かってひたむきになる」ことは「欲望に目がくらんで他のことが目に入らない」ことでもある。

 ”教育者”不在のためだと思う。教師たちは、特定の目標を達成するために雇われ、給料を払われているのである。
 クリエイティブな道をとったら、期日までに指導要領を達成させられるかどうかわかりはしないし、テストのことなどそっちのけでクラス中で家作りを始めるかもしれないのである。

 しかし、既存の道に反発しただけで、クリエイティブになれるかというと、そんなものでもない。「自由」とか「生きる」とかのイメージに目がくらみ、言葉に酔ってしまえば、それは欲望の道である。美しい結論が先行して、それによってしかモノが見られないなら、ただの愚鈍である。

 だが、クリエイティブであることは、別に難しいことではない。子どもを見ればそれがわかる。自分のイメージと思考に酔ってしまわず、事物と交感できれば、たちまちクリエイティブになれるのである。
 こどもはまだ、肉体感覚と感情をそのままに生きている。言葉が介入して、いつも他人と比較したり、特定のこと以外に目を向けないようにはされていないのである。

 もちろん、大人でないと使いこなせない知識も技術もある。それを子どもに伝えることも大事なことである。それがないと子どもは、この世界とうまく噛み合えない。
 具体的なところでは、目標と努力はもちろんある。もっとおいしいカレーを作ろうとして工夫するのは、当然のことである。

 だが、教育の根本を「目標を立て、それに向かって邁進すること」に置くべきではないと思う。それは、一面で有能さを育てはする。しかし、その同じカードの裏には「欲に駆られた愚鈍な人間を育てる」と書いてあるのである。そして、挫折して無気力になったたくさんの若者を生み出すのである。

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葛藤なしで生まれるエネルギー

 人がエネルギーを得るやり方に、大きく言って2種類ある。

 ひとつは、あるがままをよく認識しているために葛藤がなく、エネルギーに満ちていることである。子どもが、無限とも思えるようなエネルギーを持っていて飛び跳ねているのは、こちらである。瞬間瞬間の気付きが、出来事をよく捉えている。
 この中に、学びがある。、
 学ぶことができるのは、先入観がないときである。

 ふたつめは、なにかの目標を思い描いたり、あるいはなにかの恐怖から逃げるために出てくるエネルギーである。

 この後者のタイプのエネルギーは、人間の生き方、そして社会のあり方に大きな問題を持ち込む。「~でなければならない」が非常に大きくて、他のことに気づいていない。それで、大きな葛藤を自分にも他人にも生じさせるのである。

 教育と呼ばれる現象は、本来は学びがあるだけなのである。花の美しさ、水の流れの面白さ、身体を動かすことの面白さ、そのようなものを探ることである。
 学びがあるときには、共感がある。学びは、教師にとっても子どもと共感しつつの発見なのである。そして、学びにとって、教師はべつだん不可欠の存在ではない。

 学校と呼ばれる機関は、近代社会がもたらした、はなはだ未発達な教育機関なのだと思う。ある目標を達成させるためには、平気で、野心を刺激し、競争に訴え、辱め、懲罰を加えてしまうのである。
 そこでは、葛藤のなさから生まれるエネルギーのことは、理解されていない。
 そこでは、目標と恐怖を植え付けることで、エネルギーを引き出そうとする。

 違う。それは個人にも社会にも不幸をもたらす。人のなかに葛藤が生まれるのは、理解なき結論を取り入れるためである。
 教育は、もっと自然発生的なものだ。もっと、家庭に近い形のほうがよい。四角い教室に生徒が机を並べ、教師がレクチャーするタイプの教育をあたり前と思ってはいけない。

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クリエイティブであること

 グレン・グールドというピアニストがいる。どうしてこういうピアニストが育ったのか、クリエイティブであるとはどういうことであるかと、いろいろ考えることがある。

 むかしグレン・グールドを聞いたときにはさっぱりわからなかった。どうしてこのピアニストがそんなに高く評価されるのか、理解できなかった。

 先日、グレン・グールドの弾くバッハのゴールドベルク変奏曲を聞いた。ただ耳にすうっと入ってきた。ああ、そういうことだったのか、そういうことだったのか。ただただ、納得できた。

 すばらしい、とか、すごい、とかという形容詞がちょっと違う感じがする。そうではない。めちゃくちゃに指は動く、テクニックはすごい。しかし、誇示している感じがない。謙虚だ。グレン・グールドの基本は静寂であり、静寂の中に音を響かせる。

 親しみにくい音楽ではない。情感に溢れている。しかし、感情に訴えて感動させようという音楽ではない。集団的熱狂とほど遠い情感である。たぶん、人類はこれから、このような情感を発達させていくのだろう。

 そこにはただただ感受性があり、一音一音を確かめながら、つねに創造の泉から音楽を湧き出させているのである。
 だから、グレン・グールドの演奏は、そのたびごとに違う。時期の違うレコーディングで、まったく違った演奏になっている。彼は、特定の型を修得してそれを実行しているのではない。

 グレン・グールドは教え込まれたパターンを磨き上げているのではなく、いつも音楽そのものの源泉と接触している。自分で音の必然性を見つけ、その必然性を追い続けるのである。拍手喝采されたら、そんなことはどうでもよい、バッハが何を言いたいのかあなたに伝わったかどうかだけが大事なのだ、と彼は言うに違いない。彼の音楽家生活の後半、演奏会を行わず、録音のみで活動したということも理解できる。

 宇宙探査機ボイジャーが太陽系を超え、宇宙生命に出会ったときのために人類の最高の文化を積み込んだ。そのなかに、グレン・グールドのバッハのCDがあったという。なるほど、それは納得できる。当然だと思う。

 グレン・グールドの伝記は読んでいないし、生涯についてあまり知らない。
 だが、この人を育て上げた教師がいないとことは、音楽を聞いていて歴然とわかる。権威主義の痕跡がみじんもないからである。もちろん、ピアノと音楽を教えた人たちはいるだろう。しかし、いわゆる、師事らしい師事というものはないであろう。そうでないと、この自由度の高さは説明がつかない。
 グレン・グールドは忽然と現れた。流派とか影響とかのもとに生まれてきてはいない。こういうピアニストを育てようと意図した人間はいなかったであろう。

 しかし、グレン・グールドをはぐくんだ人はいるであろう。おそらく、母親が優しい人だったのだろうと思う。一音一音の中に全世界を感じ取れるだけの感受性は、それを理解し護る人間がいないと、容易に世の波風にさらされて萎れるからである。規則や賞罰とはまったく違う秩序を維持してくれる人がいないと、自分の感覚を生き抜くことは難しい。

 クリエイティブなものを護り育てる秩序は、暴力的なものと無縁である。クリエイティブなものを護り育てる力は、愛とか優しさとかいう言葉で表される。その秩序の中で、すべての感覚と知性が動き始める。

 世の中は、あれやこれやを教え込みたい人たちで溢れている。教育はそれによって動かされている。しかし、それは暴力なのだ。結果を押しつけるものはみんな暴力だ。私にはそう感じられる。

 なにかが生まれる泉がある。子どものときは、誰でも知っていたはずだ。その泉の水を飲むと、物とでも人とでも、それ自体の美や性質に魅せられ、それと戯れることができる。この泉は、恐怖がないときに現れる。その泉と接触し続けること。そうすると、世界は達成や評価ではなく、美と驚異になる。その泉から飲むことを助けるのが、教育の為し得る最善だ。
 音楽家グレン・グールドは個人としての才能がなければ現れない。しかし、あのように、自分の感受性すべてで物事を捉え、一瞬一瞬の中から世界を生まれさせることは、誰でも、日常生活の中で可能である。

 大事な大事な子ども時代を、子ども時代として護ること。子どもを賞罰と達成競争の中に投げ入れないこと。

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