カテゴリー「無農薬教育」の5件の記事

口に押し込むこと

 保母をしている人と話をしていた。

 上司にあたる人が、昼食時に、叱りつけてでも口に押し込んででも子どもに全部食べさせるという方針の人で、その人の指示に従わなければならないことで、苦しんでいた。

 別な保母さん。
 子どもに無理にでも食べさせなければならないことは、見るのさえつらかった。食べたくなければ無理させない方針の園に就職できて、ほっとしている。

 食事もそうだし、勉強もそうだが、何を注入すべきか決めて、子どもが嫌がっても押し込むのがよいと信じている人たちがいる。

 私は、それを見ているだけで辛くなる人間の一人である。

 嫌がっているのを押し込むべきではない。それは間違っている。 

 こどもの感覚が破壊されてしまうのだ。
 自分の感覚を信じることができない人間にしてしまうのだ。

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教師農民論

 ここのところ、無農薬教育の話しをしてきたが、そもそも教師という職業は農民に近いと思う。
 拙著「変えよう!日本の学校システム」に書いたことから引用する。
 私自身は私塾だったが、やはり、子どもを相手にすることは農業に似ているなあ、とよく思った。

======== 引用 =========

 教師は固定した相手に継続して長い期間関わる。このような専門職は珍しい。医師や弁護士なら相手が問題を抱えているときだけ関わる。音楽家や俳優なら、上演ごとに聴衆が入れ替わる。

 そこで、学校の教師たちの仕事は、それぞれの農地を持っている農民の仕事に似てくる。教師には自分の受け持ちの生徒がいて、その教師が手塩にかけて育てている。作物を種蒔きから収穫まで年単位で世話する農民と、生徒の成長に年単位で付き合う教師は、立場が似ている。

 教師も農民も生命を相手にするのが仕事で、なかなか思い通りにはならず、いつも知恵が必要だというのも似ている。

 学校の正体は、自営農民の集まりに近いのである。大学が、教授たちの共同組合的になっていくのも、学校の本来の性質からくるものである。学校は農民団体に近いという性質を無視して集団化すると、社会主義国における集団農場のようなものができてしまう。「言われた通りやればいいんでしょ」という、やる気のなさと無責任の巣窟になってしまうのである。
(p147)

======== 引用終 =========

 いまの学校システムは、この教師という専門職の性質を間違えていると思うのである。子どものことを知らない人たちの指揮権が大きすぎると思う。

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教育での農薬と化学肥料

 戦後日本で行われた農薬と化学肥料を多用する農業と、戦後日本の教育がよく似ていると思う。基本的な考え方が共通している。

 病虫害を防ぐために農薬を撒くのと、授業を乱す者を出さないために規律と訓練を徹底させるのがよく似ている。

 化学肥料を使って作物を成育させることと、進学競争を使って勉強させることがよく似ている。たしかに、どちらも目先はよく伸びる。

 ついでに言えば、作物の泥を落としワックスをかけて出荷するのと、生徒に挨拶を叩き込み服装を正させるのが、よく似ている。市場での見栄えが最優先である。

 さらに似ているのが、農薬や化学肥料を使わずに農業をやるのも、叱責と競争なしに教育をやるのも簡単なことではなく、たいへんな観察眼と技術を必要とすることである。

 しかし農業と教育でたいへん違うことがある。
 農業ではすでに農薬と化学肥料の弊害は認識されている。残留基準も存在し、やむを得ず使っているのだというコンセンサスがある。
 それに対し教育では、規律と訓練、受験勉強で動機付けることが、当たり前だと思われている。”無農薬農業”、”有機農業”に相当する言葉すら、教育ではまだ存在していないのである。

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農薬漬け教育

 生徒への脅しや辱めに依存している教育を”農薬漬け教育”と呼びたい。

 ある人の体験談から引用する。
 中学生のとき学級委員をしていた。ある日、担任に学級を仕切るよう命じられたために、全校の評議委員会に遅れてしまった。すると、評議委員会の担当教師が

 全校の学級委員の前で大剣幕で、
「テメエ何遅れてんだ! お前が自分勝手に遅れて来たせいで、みんなにどれだけ迷惑がかかったと思ってんだ! 
謝れ! このヤロー! 迷惑かけたみんなの前で土下座して謝れ!」
「遅れて申し訳ありませんでした」
先生はすかさず学級委員たちに向かって
「皆さん、どうですか? こんなんで許してもらえますかね? ほら、許して下さるってヨ。
さっさと席に着け、オラ!」
http://ameblo.jp/feijoahills/entry-10473418680.html#cbox

 その担当教師に対してすかさず、「事情を聞いてください」と言えばよかったろうって?
 その人は言えなかった。言えるものじゃないです。
 言える文化を、学校は作ってきてない。

 この人には、後遺症が残ったそうだ。農薬中毒に似ている。

 話しは私自身のことになるのだが、私が後悔や心配でいっぱいになっているとき、身体がすくんでぎごちないような感じがある。それは、自分が怯えている状態なのだとやっと最近わかった。今の私は、それなりの社会的スキルはもっているし、どんな状況でもやっていくことはできる。でも、根っこに怯えがある。その怯えは、どうも幼児体験より、小学校体験なのだと思う。それが農薬漬け教育の後遺症である。
 身体がすくんで、動きがぎごちないような感じは、小学校の低学年のときに生じたものであることをよく覚えている。

 そのときは、これが恐怖だとはわからなかった。身体的な、言うに言われぬつらさがあるだけである。ただその中にどっぷりと漬かっていただけだから、比較の対象もないし、言葉にもならない。親にそれをわかってほしかったが、親は学校の味方をして、我慢させようとした。親を信頼しなくなった。

 私の場合、特定の先生によってダメージを受けたのではない。小学校の強制的、訓練的な雰囲気全体が身体に合わなかった。私は農薬には過敏だった。学校では、もっともいうことを聞かない子どもたちに合わせてしょっちゅう農薬散布が行われるのである。やさしく教え諭せばそれでわかる子たちは、フラフラになり、怯えているのである。

 自分個人の要因も、家庭要因もあり、すべてを学校のせいにしては申し訳ないと思う。しかし、もっとましな学校があり得ると思う。

 もし私が全権を握った校長だったら、自分の学校で絶対に農薬を使わせない。そのことに心から賛同してくれる教師たちだけを採用する。また、教師の採用にあたっては、候補者を子どもと遊ばせたり授業をさせたりして、子どもと親しめる人か、子どもへの感受性を持っている人かどうかを実際に見る。ペーパーテストの点など、どうでもよい。
 とにかく、学校をもっと家庭的にする。校舎を住居に近づけて、子どものくつろぎ場所や隠れ場所ができるようにする。休み時間を多くする。子どもというのは、敏感なんだ、脅したら条件反射を作ってしまう、それは知性の破壊なのだと、教師たちにいつも頼んで歩く。
 子どもがまずいことをしたなら、まずいと言えばいい、しかし罰を与えてはいけない、それを教師たちに徹底させる。
 子ども同士を比較するような言葉を言わないでくれ、それは暴力なのだということも、繰り返しワークショップを開き、教師たちに体得してもらう。
 テストをするときは、教師の教え方を評価しているのであって、子どもを評価しているのではないことを徹底させる。
 子どもに対して「頑張れ」と言ったら、それは教師の教育技術の未熟を生徒のせいにしているのであり、教師の恥なのだという共通理解を作り出す。

 生徒を侮辱する教師は、クビである。サービス業で、お客さまを侮辱する社員がクビになるのと同じである。

 とにかく、子どもたちが安心できる場を作るために手段を尽くす。
 学力というのは、子どもたちが安心できたときの、最後のおまけのようなものである。

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無農薬教育とは

 無農薬教育。
 いま、私が作った言葉である。殺虫剤や化学肥料を使わない農業には、”無農薬農業”という言葉が用意されていてる。賞罰や競争を使わない教育にも、一言でそれとわかるような言葉があっていい。

 とりあえず無農薬教育と呼ぼう。他にどんな名前でもいい、強制力や賞罰を使わず、生徒の感受性と理解力を信頼する教育のことである。

 農業では、殺虫剤と化学肥料を大量に使う農法が広まっている。このやり方をすれば、誰でも無難にかなりの収量をあげることができる。しかし、農薬それ自体は人体に有害であるし、環境を汚染し、生態系を破壊する。

 教育でも、勉学を強制し家庭での時間まで投入させ、ご褒美で釣り罰で脅す教育が主流である。このやり方をすれば、どんな生徒を相手にしても、そこそこの学力をつけさせることができるものだ。しかし、このタイプの教育は、人間を浅薄にする。

 教室内の農薬散布がある。
 先生がつまらない授業をしている。生徒たちが集中しない。すると先生が、集中しない生徒の誰かをターゲットにして、「お前、そんな態度で大人になったらどうするのだ。将来はフリーターだ、ニートだ...」と、吊しあげる。一人を相手にしているようであるが、実は教室全員を罰している。殺虫剤をまいているようなものだ。
 朝礼で校長がつまらない話しをえんえんとやり、それでも生徒が我慢して立っているように訓練する。私語を交わしたり列を乱した生徒は厳しく叱責する。これも農薬散布の一種だ。

 誰か一人をめちゃくちゃ誉めあげて、「みんなも○○さんに負けないように頑張りましょう」と言う。こういうふうに競争心や嫉妬で動機付けをするのが化学肥料である。「きみの人生がかかっている」と入試に向けて頑張らせる。それも化学肥料である。点数はそこそこ取るが、自分が何をしたいかがさっぱりわからない人たちの大群を作る。

 賞罰と競争で駆り立てる教育から脱却したい。多くの人がそう願っていると思う。
 私自身が農薬型の学校で育てられた。今になってわかる。大事なところにたくさんの恐怖と条件反射を植え付けられてしまっている。別な教育があり得たはずだと。

 子どもをムチとニンジンで走らせる競走馬扱いしたくない。子どもの自発性と理解力を大事にしたい。親たちにも、教師たちにも、それを願う人は多いと思う。

 ところが、ところが、問題はここからなのだ。願ってできるくらいなら、とっくに実現している。
 新しい教育をあえて無農薬農業になぞらえたのには理由がある。農薬を使うのは使うだけの事情がある。それを知らずに、ただ農薬をやめればいいくらいに思っていたら、とんでもない目にあうのである。

 無農薬農業は簡単ではないのである。
 意欲的な農家が、農薬を使わずに農業をやりたくて実行する。そうすると、たちまち作物に病気が出る、害虫の食い荒らし放題になる。収量の半減くらいならいいほうで、畑が全滅することもザラである。やっとできた作物も、見てくれが悪くてたいした値段がつかない。
 無農薬教育も簡単ではないのである。子どもが自分で学ぶ力を大事にしたいから、と授業に強制力を使うのをやめると、とたんに子どもはおしゃべりのし放題、互いに悪ふざけをする、まじめな子が授業を聞こうとするのが妨害される。授業内容はさっぱり身についていない。

 新任の先生で、希望に燃えて、強制力を使わずに授業をすることを目指す人たちもけっこういるだろうと思う。
 おそらく半年後には、学級崩壊させているだろう。

 すると経験豊かな先輩が優しく諭すであろう。「きみの理想はよくわかるよ。でもね、もっと現実を知るべきだ。ほっておけば、子どもは安易なことしかしないのだよ。いつもこなすべき課題を与え、信賞必罰を心がけなければいけない。達成する喜びを感じさせろ。小さな悪さは、日頃、芽のうちにしっかりと摘め」
 先輩のいう通りにすれば、経験不足の先生でもなんとかやっていけるようになるだろう。
 そこで、「子どもは本来怠惰であり、強制力なしに教育は成り立たない」と信じる教師が、また一人誕生する。

 無農薬農業を成功させた人たちは、かならず悪戦苦闘している時期がある。農薬は使うだけの理由があるのである。使わなければ、たちまち病虫害にやられる。それでも無農薬農業を成功させるには、植物を知り、土壌を知り、生態系を知り、たいへんな観察と知恵を働かせなければならないのである。

 私も、教育での無農薬を目指した一人である。
 専門学校で非常勤講師をしていた。そこで「試験の点数は保障するから、のびのびとやれ」という授業をやってみた。ほんとうの学びを引き出したというにはほど遠いものだった。学級崩壊同然も経験した。授業というのは、プロフェッショナルな知識と経験が必要なのだと思い知った。

 補習塾を開き、「誰に言われなくても子どもがやりたがることに教育上の最も重要なものがある」という教育哲学を掲げて、自由時間だらけにしていた。授業もやっていたが、いっさいの強制、辱め、競争、賞罰を使わないことにした。うまくいったり、いかなかったりだった。無農薬がどれほどたいへんなことなのかは、したたかに経験した。
 自由の匂いをかがせるくらいのことはできたと思うが、週に1回、2時間程度では、匂いをかがせることしかできなかった。

 教壇にも立ち、塾もやってみて、逆に、先生たちが農薬を使う必然性がよく理解できた。自分の小中高校の先生たちがなんであんなふうだったのかも、その立場になってみて、よくわかった。今になって思う。あの人たちも、けっこう良識ある普通の大人だったのだ。

 不登校の人たちのためのフリースクールもやった。学校を嫌がった甥をうちに居させ、ホームスクールもやった。失敗ともいえないし、「こうすればできる」と示すほど成功したわけでもない。
 健全な学びが発展するためには、どれほどいろんな条件があることか。アンチ学校だけで、別な教育を作り上げられるものではない。

 そんな次第で、無農薬教育というのは簡単なものではないということだけは、身に沁みさせられた。

 無農薬農業をやるには、生態系がカギである。土の中のバクテリア、ミミズ、いろんな雑草、さまざまな虫、その虫を食べるクモや鳥。それらのバランスを見つけ、うまく調節することができたから、無農薬でも作物を作れたのである。

 無農薬教育も同様である。賞罰や競争を使わないなら、人間がどのように学んでいるかを徹底的に知り、何かがまずいとき、どうしたら自然な回復力が働くようになるかを見出さないといけない。

 文科省主導で「ゆとり教育」が言われた。しかし、無農薬農業が研究熱心な篤農家でないとできないように、ゆとり系の教育は、現場の研究熱心な教育家たちが自発的に取り組まないとできない。上からの号令でいっせいにやれるような性質のものではない。
 そもそも、入試制度をそのままにして、たいして「ゆとり」が生まれるはずがない。

 賞罰系の教育なら文科省や自治体の主導でもできる。官僚世界の運営原理を手直しするだけのことだからである。マニュアルを作り、学力試験を課し、目標を掲げていればできる。しかし、ゆとりや個性尊重系の教育は官僚主導ではできない。
 案の定、「学力」の大合唱が起こって、教育の潮流は昔の訓練主義へと回帰していった。

 志ある人たちが自由に教育を作れるようにしないといけない。学校があんまりひどかったら、自分たちの教育を作れるようにしないといけない。それは市場原理でもわがままでもなく、基本的な人権問題である。
 教育では一斉改革をやってはいけない。教育をよくする特効薬があるかのごとく思うのが、幻想なのだ。

 自然の生態系を回復させるように、教育を学問や技術や文化の領域として、内容や方法は自律にまかせることだ。それは学びの生態系を回復させるためにどうしても必要だ。

 カギは学校自治と、教育を作る自由にある。
 制度整備をしただけで無農薬教育を作れるということではないが、制度的に自由度を大きくしないと、人々の創意と工夫がただ砂の中に吸い込まれていく。

 それを言いたくて4年前に本を出した。 「変えよう!日本の学校システム」 (平凡社)である。
 ぜひ、この本を読んでいただければと思っている。
 

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