カテゴリー「教育者倫理」の2件の記事

がんばること

しばらく更新しませんでした。
多忙でした、すみません。

いまの公立学校だと、保護者と教師にその気がなくても、結局は試験の点数のための勉強になってしまいます。昔とは少し違ってきたけど、基本は頑張らせる教育でしょう。特に中学は変わっていないです。
子どもに「がんばれ、がんばれ」って言っている教育って、何かおかしいと思うのです。
もっと、いろんな教育があって、いいんじゃないでしょうか。

小話1
 生徒 「先生、あんまり頑張れ、頑張れって言わないで、ゆとりを持ってください」
 先生 「わかった、先生もゆとりを持つように頑張るよ」

小話2
 文科省  「ゆとりのある教育をしたい」
 生徒   「入試がなくなるんですか」
 文科省  「入試は大事だ」
 親     「学力はどうなるのですか」
 文科省  「学力も大事だ」
 生徒・親 「じゃ、どうなるんですか」
 文科省  「現場の先生に頑張ってもらう」

けっきょく、「ゆとり教育」というのは、現場の先生たちにしわ寄せをしただけのように思うんです。入試をそのままにして、「ゆとり」を言うのは無理ですよ。

競争入試なしでやれてる国はたくさんあるのだから、もっと根本的なことを考えていいと思います。

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教師と一般公務員の違い

 教師はどういう職業なのかについて、あっそういうことか、と思うようなことに出会った。話は、クラシックの音楽鑑賞から始まる。だんだん本題に行き着くから、しばらくのご辛抱を。

 フリードリッヒ・グルダというクラシックのピアニストがいる。この人のベートーベンの演奏が好きである。この人の「熱情ソナタ」は、抑制が効いた表現の中に、押さえきれないものがほとばしっているのがたまらない。ぐっとくる。
 先日ふと、グルダのピアノを聞きたいな、と思った。ところが、レコードは整理してしまったし、CDもない。YouTube にあるかな、と思って探した。そうしたら、グルダのいろんな演奏の動画がある。録音でしか知らない人だったので、へえ、と思いながら見ていた。

 レコードで聞いているのと、映像で見るので、この人の印象がぜんぜん違う。ようするに、グルダという人は孤高の人かと思っていたら、そうではなかった。いい感じの人なつっこいおじさんなのだ。

 グルダがモーツァルトのピアノ協奏曲を、自分でオーケストラを指揮しながら演奏している動画があった。その指揮法は、手の動きがてんで素人っぽい。私でもできそうだ。ところが、この人の顔と全身の表情が実に豊かだ。

 べつに指揮方法のプロにならなくたって、人間同士なんだから、伝える方法はいくらでもあるじゃない、っていう感じで、オーケストラの団員たちにほほえみかけ、うなずき、笑いかけたり、おっという顔をしたり、そうだそうだ、と目でうなずいたりして指揮している。

 協奏曲なのだから、独奏者のパートが始まれば指揮をやめて自分でピアノを演奏する。それがまるで、オーケストラに向かって「オレとしては、こういうセンで行きたいのだが、さ、どうだい、きみたちとしてはどう思う?」と語りかけているみたいだ。目線は、ずっとオーケストラに向いているのである。グルダは、自分の中に入り込んでいない。

 うっ、とびっくりした。この人は、自分の演奏をしたくて演奏しているのではない。人に歌わせたいのだ。
 ほんとかい、と思いながら、他の動画を見たら、ますますそれが確かなのだ。

 グルダは、ジャズをやっていたことでも知られている。
 YouTube にチック・コリアとグルダでジャズの即興演奏をしている動画がある。ところが、グルダという大家に遠慮して、チック・コリアが合わせよう合わせようとしている。そうしたら、グルダが観客に向かって何かしゃべり、観客を笑わせている。グルダは立ち上がって、チック・コリアに向かって、「さあ、やりなよ」という仕草をして、ピアノから離れてしまう。チック・コリアがそこから、自分の世界に入り込んで、独特のチック・コリア節に没入していく。

 グルダとハービィ・ハンコックが即興演奏をしているのもある。
 これは、ハービィ・ハンコックがまず弾いているところにグルダがからんでいって、すぐに二人は意気投合、「どうだい、これは」、「いけますよ。もうちょっとクダけませんか」、「ちょっとじゃ、つまらないよ。思いっきり行こう」みたいな対話が成り立っている。

 たいていの音楽家たちは、自分の世界を構築し、そこに浸り込んでいる。没頭して、周りは見えてない。
 音楽に限らず近代芸術は、その人個人の世界を提示できないといけない。他人の物まねをしたら、一発でバカにされる。個性と独創性にあふれた、芸術家自身の世界を示せないといけない。

 グルダは、もともとは近代芸術の人である。若いときから完成度の高いピアニストで、孤高の世界を持っている。普通なら一生をかけて個性と独創性を発展させていき、自分の世界を磨きあげる。ところが、グルダは、それを投げ捨てたくなったのだと思う。「個性や独創性とかいうけれど、そんなの、独りよがりでやることじゃないですよ」というようなものが彼を動かしている感じがする。

 そういう資質の人なのだと思う。この「私は一人であることの自由な源泉から汲むことはできる。しかし、私は人と応え合う世界に住みたい」というような資質が、教師の資質なのだと思う。グルダには、それがある。

 グルダが協奏曲を指揮したり、ジャズピアニストと協演しているのを見ると、表情がじつにいい。相手を安心させつつ、おしつけがましくなく、「きみはどう思う?」と問いかけてくる。この人が先生だったら、生徒は間違ったらどうしようと心配せずに、「僕はこう思います」と言える感じなのだ。

 私がいろんな先生たちに出会って、「この人はいい先生だな。この人だったら、ほんとうに生徒たちが信頼する」という人に何人か出会ったが、このグルダのような物腰、表情が共通している感じだった。
 相手に対するレスポンスがいいのである。自然に相手が、いっしょに踊り出すのである。

 英語に responsibility という言葉がある。「責任」を意味する言葉である。この語源は、応答することができる、という意味である。
 教師に責任を求めるなら、つまり responsibility を求めるなら、それは生徒に対していい反応をできる、ということなのだと思う。生徒の時々刻々の生きた内面に対して、responsible であることのできる教師が、やはりほんとうの意味での教師としての重責を担っているのだと思う。このレスポンスは、それ自体は軽やかなものであるが、相手の人格発達に深く関わることができる。

 他人の人格の発達に関わろうと思ったら、瞬間瞬間に生まれてくるものに、レスポンスしないといけない。瞬間瞬間が心の真実なのだ。何が起こるかわからない即興演奏の世界なのだ。
 学校は、標語を掲げて実行させるとか、教科書に書いてあることを覚えさせるとかに充ち満ちている。でもそれは、お役所のすることだ。そんなことは一般公務員でもできる。わざわざ教師にやらせることではない。

 もし、グルダやチック・コリアやハービィ・ハンコックにたいして、市役所の文化課の人が「もっと計画だった、目的のはっきりした、市民精神を高揚させるような演奏をしなければいけない」と言ったら、いったいどうなるだろうか。芸術家が、一般公務員とおなじになってしまう。(法や行政の領域では、決まったことをきちんとやることが立派なのだが)

 ソ連はそれをやった。だから国が潰れてしまった。
 ソ連を笑ってはいけない。われわれの芸術分野では、さすがにソ連のようなことはしないが、教育分野ではソ連と似たようなことをしていることに、気が付いていない。

 教師は、一般公務員とも違うし、エンジニアとも違う。教育者としての資質や倫理に従ってもらわなければいけないのだ。それは、芸術家の資質とかなり共通したものだ。芸術家の持つ自由+相手への responsibility が教師倫理であると言ってもいいだろう。

 教師を採用する試験に、筆記試験の点数を重視しているなんてどうかしていると思う。そんな能力は、大学を卒業して教員免許を取得できるくらいあれば、それで十分である。

 グルダは、ジャズピアニストとしては、さほど高く評価されていない。それはそうだと思う。ジャズピアニストだって、高く評価されるのは孤高の世界から発信してくる人たちだ。グルダは、”孤高の世界”から抜け出し、即興の世界に入るためにジャズをやっている。
 しかし、私はこのグルダという人を、「教育芸術」をやっている人として、高く評価している。


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