カテゴリー「クリシュナムルティ教育」の4件の記事

集中力ではなく

 J.クリシュナムルティという哲学者がいます。この人の教育思想に基づいたクリシュナムルティ・スクールが、インド、アメリカ、イギリスに6校あります。

 クリシュナムルティ教育が、他の教育と異なる大きな特徴があります。
 それは、「集中力」(concentration)ではなくて、「気がついていること」(awareness)、をもっとも重要なものとしていることです。
 「気がついていること」が発揮されている場合、焦点となるものが特になく、外界内界をとわず、起こっていることすべてに気がついています。このとき、「英知」が働き出します。「英知」は、生きることの全体性から生まれるもので、特定のパターンに従うことではありません。

 通常、教育あるいは学びと呼ばれているものは、なにかに集中し、それに習熟することをいいます。このとき、意識が絞り込まれ、気がつかないことがたくさんできてしまう。そのため、個人は大きな不幸を背負い込むし、社会には葛藤が絶えなくなります。
 例を挙げれば、集中力で勉強して有名大学に入ったが、自分が競争意識に支配された俗物であることに気づかない、そんなようなことです。
 われわれの存在全体の一部に過ぎないものがわれわれを支配すると、われわれは愚かになる。単に数多くの課目を頭に詰め込むような教育をしてはいけない。それがクリシュナムルティの主張です。

 日本は、老荘思想の影響や、仏教の「空」や「悟り」についての理解がある程度はありますので、「アウェアネスが大事なのだ」というクリシュナムルティの主張は、比較的理解しやすいだろうと思います。

 しかし、クリシュナムルティ・スクールが「悟り」を目指す学校かというとそうではなく、学問を教えることが中心になっています。この現実の中で幸福に賢く生きることが大事であり、そのために、感受性と、客観的な観察と思考を育てようとしています。

 クリシュナムルティ教育は、特定のカリキュラムや教育方法を持ちません。しかし教師に対して、十分な自己知を持っていることが要求されます。自分の文化的制約、先入観などについて気付いていること、授業中に何が起こっているのか、生徒はどのような状態なのか、あるがままに知ることが大事なのです。そのような教師とともにあることで、生徒が触発されていきます。

 クリシュナムルティ自身の著作から引用します。

 わたしたちの大半は、集中するとはいかなることなのかを学びます。つまり、子どもの頃から何かに集中することを強いられているのですが、一般的に、わたしたちはそうすることが好きだとは思っていません。そのため、嫌いなことを無理強いさせられることに対してある種の反発を覚えるようになります。

 あなたは何のために教育を受けるのでしょう? あなたは一人の人間として、どんな存在になろうとしているのでしょうか? 今日においては、もっとも高度な政治組織から洗練を極めた宗教制度に至るまで、いずれも凡庸さに支配されています。あなたが教育を受けるのは、こうしたパターンに適合するためでしょうか? 情熱をまったくもたない、自分自身や周囲の世界との葛藤を抱えるような凡庸な人間になろうとしているのでしょうか。

(「アートとしての教育」 41注意深さ より)

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役割に限定された思考

 次の文は、クリシュナムルティの著作からの引用です。(「未来の生」 春秋社  p186)

「いかに多くの大人たちが、役人のように官僚的に考えるかに気づいたことはないだろうか?
 もし彼らが教師なら、彼らの考えはその役割に限定される。
 彼らは、生と共に脈動している人間存在ではない。文法の規則や数学、あるいは歴史を少しばかり知っているが、しかし彼らの思考はその記憶、その知識によって限定されるので、彼らの知識は彼らを殺していくのだ。」

 これは、鋭い批判に見えます。
 しかし、批判ではないのです。これは「あるがままを見ませんか」と言っているだけであり、だからどうしろとかこうしろとかはまったくありません。
 この文章は、ここで話題が転換し、だからどうしろ、という話が発展するわけではありません。

 それがクリシュナムルティを理解するカギなのです。また、実際に人間に変容が起こるカギなのです。
 深く、あるがままを感じ取ったときにだけ、ほんとうに変わるのです。
 ああしなければならない、こうならなければならないとかいうのは、いわゆる「頭ではわかってるんだけど」になり、葛藤を引き起こしているだけです。

 「あなたはこうなのだ。だから、こうしなければならない」
 それが官僚的思考なのです。

 クリシュナムルティは難解だと言われています。それは、クリシュナムルティが、何か固定した論点から演繹したり、それを主張しているのではないためです。

 クリシュナムルティは、「こうなっているんじゃないですか、ご自分で見ていただけませんか」と言っているだけです。クリシュナムルティの著作は、自己観察の手引きとして使ったときにだけ、意味が見えてきます。

 もしわれわれが教師でないならば、教師たちが官僚的であることがよく見えます。
 教師らしく振る舞おうとか、あれをわからせようこれを理解させようとか、生徒の授業態度の善し悪しとか、任務としての思考なのです。

 では、自分について、そのような官僚的思考、つまり「あなたの現状はかくかくであり、目標であるしかじか目指して努力しなければならない」が、自分や他人に対する権力行使であることを、それが生じた瞬間に見ることができますか。

 大人はそれを見ることが難しくなっています。でも、子どものうちに適切に教育すれば、野心や教条を持たない人間に育てることができる。
 というのが、クリシュナムルティ教育の精髄なのです。

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学校の恐怖

 「恐怖はそれがいかなるかたちのものであっても、精神を活動不能にし、感受性を破壊し、感覚を縮めてしまう」(「学校への手紙」 クリシュナムルティ)

 私が小学校1年生のときに味わった恐怖をどう表現したらいいのだろうか。

 教室は、まったくわけのわからない世界だった。そこが、どういう理由で動いているのか理解できない。きつい子が多くて、すぐに責め立ててくる。教師が、みせしめの罰を加えて、教室の秩序を維持する。それは、たくさんのモンスターが徘徊し、襲いかかってくる世界だった。教師が何か言っている。字面はわかるが、結局のところ、何をどうしろと言っているのかわからない。

 親に言おうとしても、通じるような言葉はみつからない。
 大人たちは、「頑張らなくてはいけない」で凝り固まっている。
 親不信になった。親に苦しみを訴えなくなった。

 よく行き続けたものだ。
 先生は絶対だった。それだけだった。

 あの、恐怖の世界をどう表現したらいいのだろうか。
 あの恐怖の中で、学びなどあるはずがない。多少、計算はできるようになったし、字も読めるようになった。しかし、それは学びではない。

 やがて私は適応できた。その適応は、悲しみと投げやりでできていた。諦めていたから、ヤケに明るく生きられた。でも空虚な明るさだったから、二十歳前には崩れた。

 大人になって、教師たちが普通の人間であることを知った。学校にいるうちは、教師たちが人間だとは知らなかった。これは、皮肉ではない。教師たちはなにかしら”官僚性の化身”のようなものだった。子どもにはそう感じられるのである。教師たちは、ステレオタイプなお説教をし、わざとらしい授業をし、「キミの将来は」で脅していた。

 大人になって冷静に分析すれば、学校というところは官僚組織が教師たちを雇い、人事権と賞罰原理で操っているところである。教師たちは、立派な人間のふりをすることで金をもらっている。彼らは子どもに対して責任を負っていなくて、自分を雇用する者たちに責任を負っている。
 ところがその官僚組織は、だれか特定の悪人がいるわけでもなく、平凡な人間たちが、けっこうな標語を掲げて「事なかれ」を祈るところである。
 なんだ、そういうことか。

 教師たちもまた恐怖にとらわれている。でも、教師たちは自分の恐怖を表現できない。自分の恐怖を意識できないから「邪悪なものが存在する」と言う。だから、邪悪な日教組が存在し、邪悪なモンスター親が存在し、邪悪な文科省が存在し、邪悪な生徒たちが存在する。

 学校が根本的なところで、恐怖でできている。
 
 もちろん、この恐怖はいかにも恐怖らしい恐怖として現れてはいない。この恐怖は、教師のステレオタイプさや、生徒の無神経さとなって現れているのである。学校を覆うあの浅薄さが、恐怖の現れなのである。
 もしその恐怖を表現できたら、読む者の心魂を震え上がらせることができると思う。思うのだが、私の文体では届かない。理屈を使いこなす文体で恐怖そのものを表現することなど、できるはずがないのである。

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クリシュナムルティの教育論 学校と家庭

 学校が、「訓練し、能力を伸ばす場」である限り、子どもをほんとうに保護している者がいなくなってしまう。子どもたちは、心理的安全を得るために、白日夢、自己顕示などさまざまなやみくもな行動に走る。子どもたちは恐怖感から逃れるために、さまざまな浅薄な思考や行動を身につけてしまう。
 それが、私が現代の学校制度に見ている最大の問題点である。

 教育に関して、もっとも深いインスピレーションを与えてくれる思想家に、R・シュタイナーとJ・クリシュナムルティがいる。どちらも、近代文明全体に対して深い発言をし、危機を克服する道を示している思想家である。

 シュタイナーは自身が超能力者であったため、独特の人間発達理論に基づいているのに対し、クリシュナムルティの説くところは平明である。クリシュナムルティの思想の中核は「人間のあるがままを知れ」にある。たとえば、子どもたちが恐怖によっていかに鈍感になっていくかに気づくことを教師たちに求めている。

 家庭と学校と子どもの関係についてクリシュナムルティが述べている一節を引用する。

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 両親は一般に、子どもが赤ん坊のときを除けば、子どもたちに割く時間がほとんどありません。両親は子どもたちを、地元の学校や寄宿学校に入れるか、他の人に世話をさせます。両親には時間がないか、あるいは子どもを家で教育するだけの根気がないのかもしれません。彼らは、自分自身の問題で心がいっぱいなのです。

 ですから私たちの学校が、子どもたちの家になるように、教育者があらゆる責任をもって両親になるようにします。家というのは、ある自由があり、安全であるという感覚、扶養され保護されている感覚がある場です。

 私たちの学校で子どもたちは、そのように感じているでしょうか?
 「注意深く見守られ、たくさんの思慮と愛情が与えられ、自分の行動や食べ物や衣類やマナーに対して関心が向けられている」と子どもたちは感じているでしょうか? 
 もし感じているのでしたら、学校は、生徒がそのあらゆる意味において「本当に家にいる」と感じる場所、「自分の好みや話し方に気を配る人が、回りにいる」と感じる場所、「心理的にも身体的にも世話をされている、怪我をしたり怖れたりしないように助けてくれている」と感じる場所になっています。
(「学校への手紙」 J・クリシュナムルティ 古庄高訳)

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