カテゴリー「教育心理」の27件の記事

「自信がない」こと

 20歳くらいのときだった。
 理系の大学生だったが、自分のしたいことがわからなかった。そのうち、自分がほんとうに情熱を燃やせるのは、人間と社会がいったいどうなっているかなのだと思った。
 語られる言葉がすべて、ほんとうのことを映しだしていないと感じられた。言葉にすることで抜け落ちていくものがたくさんあった。その抜け落ちるものの中に、自分の生があった。でも、それを表現することも、伝えることもできなかった。
 無駄だと知りつつ、たくさんの書物を読んだ。

 実際に生きてみるしかないと思った。
 いちおう社会人になった。「ああはなりたくない」というものをたくさん見た。権力欲、追従、猜疑心、ゴシップ、.....。そして、自分がまたそれになってしまうのだった。それに反抗しても、また別の独善性に落ち込むのだった。
 自由に生きたかった。人間の根本にかかわらないとだめだ。自分に抜け落ちたものは、自分の受けた教育にも大きな問題があると思った。いつのまにか、教育関係に手を出していた。

 現実の中で転げ回っていると、なんとかはなるものだ。
 とくに、子どもと戯れること。子どもの感覚がわかってくると、人間の本質的な部分が感じ取れてくる。人間を実際に動かしているさまざまな力、それと言語の関係。それが見えるには、まだ言語の中に入り込んでいない子どもたちと関係を持っていることが重要なのだ。子どもたちがいなかったら、われわれの社会は、とてつもなく偽善的で独善的なものになってしまうと思う。

 けさ、目を覚まして静けさの中で物音や感情に注意を澄ませていたら、自分に自信のない感じそのものが、意識に上がっていた。主に、背中から肩・首を中心とした緊張と、呼吸の浅さ。それに伴うあるいたたまれなさ。そのとき、条件反射的に湧き起こるけっこうな言葉の数々。

 それが「自信のなさ」そのものなのだ。
 私が言葉ばかり紡ぎ出すことそのものが、自信のなさなのだ。その自信のなさが、立派な言葉を集め、その言葉が自分だと思い込む。それがいわゆる「自我」である。その自我が、マッチ売りの少女みたいに、ささやかな暖を取っている。でも、このやり方では、いずれ凍死するのである。

 現代の教育問題の最大のものは、この「自信のなさ」だと思う。原因は、教育と躾が、子どもの感覚と感情を忘れて、目に見える達成を求めるためである。

 自信というのは、自分の感覚に根ざせるかどうかなのだ。総合的なものだ。自信がないと、子どもたちは、同調過多になるか、独善的になる。自分を慰撫するために知性を使うようになり、物事が見えなくなる。
 でも、現代の教育は、これを知識や技術の伝達で解決しようとする。解決するはずがない。もっと、感覚と感情を大事にしないと、人間が断片化してしまう。
 人間として生きている身体感覚と感情から、子どもたちを切り離してしまうこと。それはとてつもない過ちだと思う。

 受験勉強的な机と書物での学習は、20歳を過ぎてからやることだと思う。学位論文を書くとか、弁護士になりたい人が法律の勉強をするとか。そういうタイプの勉強は20歳を過ぎてからがやりどころだと思う。それまでに、もっともっと大事なことがある。子供時代でないとできないこと。全身全霊をあげて、遊びとも学びともつかないことをすること。
 その話し自体は、けっこう通じると思う。ところが、「でも現実は」、誰も学校を変えようがないしくみになっている。それは、官僚機構が、学校の上に乗って指揮しているからだ。学校を教師と親と子どもたちの手に取り戻すことだ。
 子どもと接していない人たちに、教育の舵取りをさせてはいけない。どうしても抽象的になって子どもを見逃す。

 教育は、生きる営みそのものであり、文化現象そのものなのだ。学術や芸術に認められている自由を、教育にも与えよ。

 と、これが「変えよう!日本の学校システム」という本を書き、このブログを始めた理由だ、というところにたどり着くのである。

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智恵の源

 人間の中に、自分の安全を図るために、手段の限りを尽くしている中枢があります。
 目立とうとしたり、隠れようとしたり、自分を良くみせたり、他人を責め立てたり・・・・、とこの中枢は動物的な狡猾さを持っています。

 ほんとうは、この中枢が、生きる力と智恵のエンジン部分を担っているのです。

 でも、同調の強制や、能力競争の中で、この中枢は表に出ることができなくて、すっかり動物的次元に退化しています。それで、われわれはお互いに、ごまかしや、逃避や、権力欲や、攻撃性に悩まされるのであります。

 この中枢がちゃんと育てば、いつも全状況を判断して、愛と智恵をわき出させてくれるようになります。

 それには、脅しや、賞罰や、競争に訴える教育をしないこと。
 大事な、大事なエネルギーが、自己保存の動物的狡猾さに退化してしまうからです。

 もし、自分の中の怯えているものが、いかに動物的狡猾さを発揮しているか、非難も理論付けもなく認知できたら、慈愛の想いが自然に湧いてきます。その慈愛が、自分にも他人にも、広々とした空間を作っていくのです。
 そのとき、動物的な狡猾さだった中枢は、恐怖への反射的行動に限定されなくなり、考えと気持ちと行動を調和させる大広間のようなものになっています。

 子どもを理解しましょう。
 自分を理解することから子どもの理解に向かうこともできますし、子どもを理解することから、自分を理解することもできます。

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善が人間の中に根付くこと

 教育を、子どもの肉体と精神の発達の観点から捉えること。
 何をできるようにさせるかの教育ではなく。

 シュタイナーの教育論を読み直しています。「現代の教育はどうあるべきか」(人智学出版社)から、一部を要約します。第2章から。

 これをすべき、あれはすべきではない等々を絶えず教条的に聞かされてきた人は、善に対して無味乾燥な感覚しか持てない。

 7歳~14歳のときに、敬愛する教師が、自然な感情から示してくれる真であるもの、美しいもの、正しいものに共感することが、真、善、美への衝動を形作る。
 善を形成するのは知性ではない。

 9、10歳のときに、大きな変化がある。子どもは外界とうまくやっていけなくなり、おずおずして落ち着かなくなる。子どもは、この問題を概念化することも、言葉で表現することもできない。あるのは感情ばかりである。
 この時期、子どもは、教師が敬愛に値する存在であることを何らかの形で示して欲しいと感じている。子どもが教師から愛されており、要求に対応してもらっている、と気付くことが重要。

 人間は、14、5歳になって初めて、教師が判断力によって影響を及ぼすことにできる地点に到達する。それ以前に理詰めで教育されると、子どもの全人的発達が阻害される。

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個性を失うということ

 不登校の子どもに、「どうして学校にいかなくなったの」と尋ねても、答えなど返ってきません。

 お勉強がまったくわからなくなった子どもに、「どこがわからないの」と尋ねても、答えなど返ってきません。

 心がかじかんでしまうと、なんの言葉も浮かばなくなる、なにが自分の気持ちかもわからなくなる。

 個性を失うということは、単に行動や思考を他者に合わせていることではありません。他者の言葉に出会うと、それが自分の内面で圧倒的な力を持ってしまうことなのです。

 個性を失うということは、目上の者や権威者の言葉がみんな正しいと感じられてしまうことです。
 どこかで、強者に圧倒されてしまったのです。

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情熱と理解が湧き出る泉

 われわれは、わけのわからないものに取り囲まれて生きるようになっています。

 テレビの原理をどれだけの人が知っているでしょうか。自動車は? 冷房は? コンピュータは?
 根本的な仕組みがわからないものの中で暮らすと、われわれは、なにか落ち着きの悪さを感じ、表面的な行動だけ合わせて生きるようになります。

 社会の仕組みについても、われわれはわけのわからないものにこづき回されて生きています。とにかく、試験があるのだ、落ちこぼれてはいけないのだ....。

 学校は、1時間ごとに、数学、国語、理科、と目まぐるしく科目を変えます。生徒は、授業が始まるたびに、自分の関心を捨てて教師の差し出すものに合わせることを要求されます。ある科目に関心を持ったとしても、50分後にはそれを捨てることを要求されます。家庭生活にまで、宿題や塾が入り込みます。
 このような教育を行っていると、どうしても生徒の自発性が低下します。そこで学校は、強制、賞罰、競争を使って生徒を動機づけます。ますます、生徒の自発性が低下します。

 このような教育は、浅薄ではないでしょうか。結論に固執する人間や、政治煽動やゴシップに弱い人間を、大量生産しているのではないでしょうか。

 そうではなく、人間の深いところに、情熱と理解が湧き出る泉があります。それは、騒がしさや強制の中にはありません。静けさと感受性によって、その泉から水を汲むことができます。教育は、その泉との交流を助けることができるでしょうか。
 

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学びの最初で最後の一歩

 子育てと教育に関心を持つお母さんたちと勉強会を開くようになり、小さい子どもたちと触れ合うことが多くなりました。

 0歳児に近づいて、心の中で「ああ、お目にかかれて嬉しいです」と言いながら目を見つめることをよくやります。言葉で考えているのではなくて、気持ちそのものを向けているだけです。小さい子だと、大人相手のときみたいに礼儀に気をつかわなくていいから楽です。

 そうすると、その子とよく見つめ合うことになります。見つめ合っているうちに、子どもが微笑むことが多いです。嬉しいですねえ。
 それから手に触れてみる。手の大きさが違っていて、とてものことに握り合えないから、指で子どもの手に触れると、むこうで握ってくれる。

 じっと見つめ合って、手を握り合っている。頭の中は、からっぽです。
 まるで、恋人同士みたいですね。あるいは、再会した旧友みたい。

 普通の社会生活では、こんな深い次元で関係を持つには、いろんな警戒心や先入観をかき分けてかき分けて、やっとのことでたどりつきますが、0歳児だとかんたんにできます。

 そのとき0歳児が向けてくる注意力が美しいんです。
 母親は、いつもこれを向けてもらっているのだから、生きる力が自然に湧いてくると思います。

 言葉を獲得する以前の子どもは、物事を捉える先入観がまったくありません。そこには、純粋な注意力というようなものがあります。

 この純粋な注意力が、学びの最初の一歩であり、最後の一歩なのです。外界と内界の区別もない。それは、新たなものとの出会いそのものです。
 生きることは、常に新しいものと出会う喜びそのものです。

 最初の一歩であるというは、生まれてこの世界と出会うときに起こることだからです。それが最後の一歩でもあるというのは、人間がいっさいのとらわれを離れて究極の自由を得るのは、この注意力を通してだからです。
 ゼロ歳児は、この純粋な注意力を持っています。この注意力を損なうことなく、感覚、知識、技能を身につけること。すると、生きることの深いエネルギーと美しさの中で、すべてを捉えていくことができます。

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社会問題の根幹と思えること

 これは社会問題の根幹に関わるんだ、と思える教育問題について。

 ストレスの大きい生き方をする人たちに、大きく言うと2種類あります。

 一つは、他人と摩擦を起こさないことを最優先させて生きる人たちです。他人と対立しそうになると、すぐに自分の考えを枉げます。世の中の多数派や、目上の者の言うことは全部正しく感じられる。内面の考えは、どこかで聞いた意見のパッチワークになっています。
 こういう生き方をしていると、物事そのものがどうなっているかの判断が育ちません。判断が悪くて、いろんな失敗やストレスを生じる。それでますます自分で考えなくなります。
 人間ジャングルの中で適応するためにはいいのですが、そのためだけに他の能力を捨ててしまったようなものです。

 もう一つは、自分の考えと自分の方式をかっちり築き上げて、他人が入り込むのを許さない人たちです。表面的な儀礼は守りますが、自分が正しくて他はみんな間違っていると思っています。孤立しやすく、世を恨みやすいです。きらっとしたものはあるけれど、多くのことで独善的になります。いったん指導的な立場につくと、他人に言うことをきかせようと、権威的、権力的になりやすい。そうなると本人もストレスを感じますが、それ以上に周囲の人のストレスが大きいです。

 社会問題はいろいろあるのですが、追従癖を身につけることと唯我独尊癖を身につけること、この二つは社会問題の根幹に関わる問題だと思うんです。人間たちが明晰さを失ってしまい、すべてのことに判断が悪くなるのです。

 私自身、この二つのどちらもやらかしましたねえ。どちらも、怖いからやらかすことなのだ、ということを身をもって学びました。正反対のことに見えて、実は同根なのです。

 十代のうちくらいは、どちらのタイプも、「愚かだなあ。自分があんなになるなんてあり得ない」くらいにしか思っていなかったんですけどね。
 会社勤めをして、年功序列、先輩後輩社会など気にせず生きてやろうとしました。そうしたら反発を買って、こんどは恐怖の塊になって何も主張できなくなってしまいました。

 子どもたちに勉強を教える立場になって子どもたちがつまづくのを観察すると、たいへん粗略な分けかたではありますが、この2種類が大きな原因になっています。
 間違っていると言われるのが怖くて、自分の答えを持とうとしない。
 すでに知っていることに固執して、新しい視点を獲得しようとしない。

 どちらも動物的な防衛本能から来ています。考えてそうしているのではなく、恐怖感から身につけてしまうのです。本人には見えない。他人のは見える。だから、指摘したくらいでは修正できなくて、動物的な安心感のところに働きかけなければならない。簡単ではありません。

 家庭でのしつけや社会組織の教育力まで含めて、強圧的な教育、賞罰・競争で動機づける教育が、恐怖をはぐくんでいるんです。

 目的は手段を選びます。物事がよく見える賢い人間を育てないなら、権威・権力に訴えてはいけない。賞罰・競争に訴えてはいけない。恐怖から身につけたものは、明晰さがない。
 教育は、本来は、何がどうなっているのか、よく観察し考える力をつけるためのチャンスなのです。ところが、結果を出すためによからぬ手段で動機づけるようになると、人間と社会に大きなダメージを与えます。

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子どもが無力感を持つとき

 子どもが、すさんだ感じになるのは、家庭のせいでしょうか、学校のせいでしょうか?
 それはケースバイケースで、家庭も学校もどちらも影響しているとしか言いようがないのですが、しかし、子どもの無力感に関しては、学校の責任のほうが大きいと思います。

 先生たちが専門知識に閉じこもって、知識や技能を伝授する立場になると、子どもたちは自分たちが劣った人間だと感じるようになるのです。必死に先生の意に沿おうとし、それができないとなげやりになります。

 子どもたちが必要としているのは、まず、自分が十分な配慮の元に置かれ、関心を持ってもらっているという感覚です。それなしに「できたか、できないか」を迫るような教育をしますと、かなりの割合の子どもたちが無力感を持ちます。

 無力感を持った子どもから、いろいろな困った行動が出てきます。
 多いのが、人をバカにしたり、欠点をあげつらったりする言葉が多くなることです。これは、他の子を傷つけ、その子自身を孤立させます。
 もっと直接に、いじめに走ることもあります。
 自分は劣っているからだと、劣等感の泥沼に沈む場合もあります。

 なんだか落ち着かなくなり、ワーワーキャーキャーしていることもあります。強い子だと、授業の流れを妨げて、やらされなくてもいいようにします。
 それが押さえつけられると、白日夢にふけるようになります。
 気が弱くなって、自分の判断をしなくなって、誰かに頼ってばかりいることもあります。

 そういう現象が現れると、学校関係者は、「家庭でもっとちゃんとしつけてもらわないと、私たちにはどうしようもない」と考える方向にいきがちです。
 もちろん、家庭の問題もあります。
 しかし、子どもの無力感が学校で生じている場合は、学校に第一の責任があると思います。

 法律の強制力に依拠して子どもを集め、教室内に長時間座らせ、賞罰で動機付け、集団行動を取らせ、できれは「エラい」できなければ「頑張りましょう」。

 この教育方法そのものが内蔵する欠陥があります。それは子どもが無力感にさいなまれるようになりやすい、ということです。
 比較対象がないとなかなかそれが見えにくいのですが、シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、サドベリータイプ校とかいった「人間性教育」と比較すると、何が問題点なのか、よく見えてきます。

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キョロキョロすること

 だれでも、考えごとにふけって、心ここにあらずという状態になっていることがありますね。
「あいつにあんなことを言われたけれど、その本心はこういうことだろう」、
「あしたの発表は、こう言おうか、ああ言おうか」
というようなことを考えていて、周りの物音も聞こえないし、周りの状況も最低限しか見ていない状態です。

 そういうとき、目は何を見ていますか。

 目をつぶっていますか。

 そうではないはずです。
 もし、自分が考えにふけっているとき、目が何を見ているかに注意できたら、視点がひんぱんに動いていることを発見されると思います。0.1秒くらいの単位で、ひゅっ、ひゅっと見ているものが移動しています。
 視点が固定されると、見ているものに注意が行ってしまうので、思考にふけることができないのです。だから、ひんぱんに見ているものを変えているのです。

 この自己観察は簡単ではありません。観察しようとすると、思考にふけった状態ではなくなってしまうからです。でも、思考に入り込みかけたときなどに発見できると思います。

 そうしたら、授業中にキョロキョロしている子の状態が理解できるはずです。

 あの子たちは、あなたが考え事をしている時の、あの状態にいるのです。

 考え事にふけるのはどういうときでしょうか。怖いことや心配なことがあるときですね。考えている内容は、いろいろです。過去の出来事を反芻していることもあります。おもしろかったテレビドラマのことかもしれません。とにかく、考えているときは、怖いことや心配なことを感じなくてすむのです。

 授業中にキョロキョロしている子は、だめな子、いけない子ではないのです。彼らは、恐怖、不安、から逃れようと必死になっている状態なのです。体調不良のこともあります。
 そうとわかれば、その子を責めなくなるはずです。その子の恐怖や不安を取り除くにはどうしたらよいかを、観察し、研究するようになるはずです。 

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知識・技能とその人自身

 教育の最大問題は、どんな知識・技能を持っているかではなく、知識・技能とその人自身の関係なのだと思います。

 権威・権力によって知識・技能を注入されると、権威・権力をふるうために知識・技能を使うようになります。

 賞罰で誘導されると、自分のほんとうの動機がわからなくなって、目先の利害に果てしなく巻き込まれていきます。

 競争で誘導されると、他人に優越するために知識・技能を使います。うまくいかないと、嫉妬したり、劣等感にとらわれたりします。

 私たちは、このようなことで苦しんでいるのではないでしょうか。

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