カテゴリー「人間と社会と教育」の19件の記事

旗ふるな

こんな詩に出会いました。

『旗』 作・城山三郎

 旗振るな 
 旗振らすな 
 旗伏せよ 
 旗たため 
 社旗も校旗も 
 国々の旗も 
 国策の旗も
 運動と言う名の旗も
 ひとみなひとり
 ひとりには
 一つの命

学校というのは、旗を振りたい人たちや、旗の前に直立不動したい人たちが、思い通りにしたがるところです。
学校には、素直で信じやすい若い人たちがたくさんいますから。

旗をかざす人たちの空虚さがわかりますか。旗は、体裁の良い自己崇拝なのです。
その虚しさを見抜く目を子どもたちに失わせないことができますか。

大義や権威をまぶしく感じないだけの充実した生を、子どもたちに保障できますか。

新たな旗を振ることなしに、それができますか。

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なぜ数学が必要なの?

 「なぜ数学が必要なの?」

 そう尋ねる中学生がいます。

 「それって、数学をやりたくないから言う、逃げなんだよね」
 そう言う先生たちがいます。「こいつ、うまいこと逃げようとしやがって」、そう内心思う先生もいるだろうし、はっきり口で言う先生もいるでしょう。たしかに、この問いは、目先の数学から逃げるために使えます。

 「なぜ数学が必要なの?」
 真剣にそのことを考えている中学生もいます。
 これに、先生がまともに答えようとすると、

 「将来、役に立つよ」
 「思考力を育てる」
 「現実問題なんだ。受験に必要だ」

 そこらへんが、代表的な答えでしょう。どれも、みんな正しい。

 それに対して中学生が、「先生は、数学をやるものだと決め込んでいて、きれいごとの理屈を付けているだけ。ほんとうには考えていない」と反論する。それも正しい。
 先生は、学習指導要領で数学をやることに決まっている学校に雇用されている立場です。深く追求されると、「いいから、これは現実なんだ。考えているヒマがあったら勉強しろ」と逃げる人も多い。

 学ぶということ。
 それは、まず、現実に起こっていることをあるがままに知ること。
 数学から逃げ回っている生徒たちがいること。職務に規定された先生たちが、とってつけたような理屈を言うこと。

 それが現実です。では、なぜ、生徒が逃げ回らなければならないのか。なぜ、先生がきれい事を言わなければならないのか。それを非難もせず、正当化もせず、見ること。
 そこから湧き起こる悲しみ。
 余儀ない行動をとっている人たちに対する慈しみ。生徒に対しても、先生に対しても。
 そのようなものだけが、解決への道を作ると思っています。


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「1Q84」 単純な世界観から抜け出すこと

 村上春樹の『1Q84』が文庫本になってコンビニに置かれていました。
 そろそろ読むか。
 1冊買いました。いったん読みだすと、もう、やめられない。けっきょく、文庫本になっていない単行本2冊まで買って、第三部まで一気に読みました。これまでの村上春樹の長編の中で、いちばん良かったです。

 『1Q84』はすぐれた芸術作品だと思います。すぐれた芸術作品は、それ自体が一つの世界になっています。解説や批評の枠の中に収めきれません。ちょうど、一人の人間をほんとうに理解したときのように。
 解説も批評もする気はないのですが、『1Q84』で私が刺激されたことを少し。

 70年代の終わり頃のことでした。私は東京の喫茶店にいました。店内BGMに、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」がかかっていました。ガールフレンドが、
「この歌詞は、一度入ったら出られないホテルのことを言っているの」
と言いました。
 私はぽつりと、「一度入ったら出られないものって、たくさんあるよ」
 と言い、彼女が深くわかったような顔をしました。

 私はそのころ、なんとか自由になろうともがいていました。会社勤めが苦痛だったけれど、まだ終身雇用制が全盛の時代です。どうしようか、悶々としていました。
 その後、エイヤと会社を辞めました。自分がやってみたいことに身を任せよう。
 しかし、自由感はない。
 そうか、自分の内面の問題なのかといろいろ探求しました。生育歴からもたらされるもつれや、社会のいろいろな文化的強制力を、それなり見抜いたとは思います。入ったことすらわからないでいる扉がたくさんあります。
 しかし、自由感はない。
 自分のことにかまけてもだめだ。人のためになろう。そう思って、私塾を開き、不登校の子どもたちを援助しました。人間の奥には「叡智」としか呼びようのないものが流れていることも知りました。
 しかし、自由感はない。

 「一度入ったら出られないところがある。そこから出られるか?」
 これが、『1Q84』のメインテーマでした。それは私自身のテーマでした。私は、『1Q84』に深く入り込みました。

 『1Q84』は、連合赤軍事件とオウム真理教事件を下敷きにしています。下敷きにしていますが、過激派やカルト教団を詳しく描写するという手法は取りません。カルト教団らしきものは、外部からの調査の対象としてしか登場しません。

 『1Q84』はいわゆるカルト問題を取り上げているのですが、村上春樹はことさら洗脳の問題としては取り上げていません。そうではなくて、「別世界に入り込むとはどういうことか」という一人一人の問題にしているのです。

 そこが村上春樹のすごさだと思います。
 これを”洗脳”の問題としてとりあげたら、洗脳をする悪い人とその被害者という善悪の問題になります。しかし、村上春樹は、過激派やカルトの問題を、善悪の問題として片付けたくなかったのでしょう。誰か悪人のせいにしてすむことではない。もっと深く、一人一人の人間の心の問題ではないかと。
「別世界に入り込んでいった人たちがいた。その人たちは、どのようにその世界に入ったのか」
「なぜそこから出られなかったのか」
を入念に描こうとするのです。

 思想統制の恐ろしさをとりあげたジョージ・オーウェルの小説『1984年』には、ビッグ・ブラザーという独裁者がいます。『1Q84』にも、「リーダー」というカルト教祖がいます。ところがこの「リーダー」は、リトル・ピープルという善か悪かもわからない得体のしれない小人たちに支配されています。「リーダー」は、自身も耐えがたい苦痛を抱え、自分の死を願っています。彼は暗殺者を迎え入れ、自分を殺させます。

 ビッグ・ブラザーではなく、リトル・ピープル。

 一人の凶悪な人間が仕組んでいるのではないのです。
 このリトル・ピープルたちは、善悪不明、正体不明です。正体不明のまま、物語は終わります。おそらく人間とはまったく違う次元の生き物で、ただ彼らの世界を生きているだけらしい、ということが暗示されています。

 『1Q84』には、カルト問題とは直接に関係ないサブストーリーがたくさんあります。そして、サブストーリーは、
「はじめは荒唐無稽に見えても、だんだん現実と感じられる」
「いったん別な世界に入ると、そこを出るのは難しい」
というメロディーを、さまざまに形を変えながら奏でています。

 もし、「カルトは悪だ」という結論に導くならば、それはまた別な単純思考とバッシングに行き着いてしまいます。だから村上春樹は、直接にカルトの悪を訴えない。われわれは社会のいろいろなフィクションにこのように入り込んでしまうのだ、というプロセスを入念に示すのです。

 はじめは、つたない空想物語だった「空気さなぎ」が、ついには1Q84の世界での現実になってしまいます。
 主人公天吾の父親が、NHKの集金人になりきってしまい、死の床でまで支払いの督促をしています。
 もう一人の主人公青豆が、だんだんプロフェッショナルな殺し屋になっていきます。
 そのような登場人物達のストーリーがあります。

 そして、読者一人一人に村上春樹が提示するストーリーがあります。それは「この小説世界をあなたはだんだん現実と感じて受け入れますね。それと同じように、あなたは社会のフィクションをたくさん受け入れているのではありませんか」と言っているように思えます。

 もう一つ『1Q84』が、盛りだくさんなエンターテインメントであり、焦点を絞れるようで絞れないことにも大きな印象を受けました。たくさんの視点を重層させることによって、「世界は、単純な結論では捉えきれないのではないですか」という問いかけをしているのです。

 そして、このように結論を嫌う構造になっているにも関わらず、『1Q84』の第3部は、「脱出可能である」という1点にまとまっていきます。

「この社会のフィクションから、脱出することは可能だ」

 
 その通り、可能です。
 最近になって、自分が思考によって自分をコントロールすることそのものが牢獄なのだということを感じ取れてきて、いささかは自由の空気を吸っているところです。

 人間性全体の中での思考の役割を見抜くこと。
 教育では、それが大事なのです。そうでないと、頭でっかちや、独善を育ててしまうのです。
 自由な人間であるためには、自由であろうと思うだけではどうにもなりません。教育の手助けが必要です。人間に結論を復唱させ、条件反射を創り出そうとする教育が、人間の自由を奪うのです。そこから脱出しようとしても、こんどは別な結論にがんじがらめにされてしまうので、別な穴に落ち込んで抜け出せなくなってしまうのです。

 村上春樹自身の言葉:
「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまう と耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」
「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」

 私は、現在の教育が、人間性からあまりに離れたところに入り込んでしまったと感じています。
 索漠感や苦痛が、かえって「人間を鍛える」ものとして称揚される不思議な世界にわれわれは入り込んでいます。
 点数を稼げる人間になりなさいと、『精神的な囲い込み』がなされています。
 それは、だれか極悪人がいるためではなく、すべての人が制度の奴隷になり、それがなくなると耐えられなくなっているためです。

 しかし、
 「脱出可能である」
 と私は本気で考えています。それは手の届くところにあります。
 シュタイナー教育やモンテッソーリ教育などで代表される、試験で追い立てない教育はたくさん開発され、成果を実証されています。競争入試に依存せずに、1国の教育水準を高く保っている国もあります。

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生きるのに必要なこと

 新しい教育・子育ての文化が必要だと思います。
 昨日、小さな講演をしたときにしゃべったこと。少しプラスアルファしています。

 生きるのにほんとうに必要なことは何か。それは、われわれがほんとうに追い詰められたときに力になるのは何かを考えればいいです。

 一つ目は、心を通わせられる人。家族でも、友人でも、恋人でもいい、自分というものをわかってくれる人がいると生きられる。

 二つ目は、自然。自然は、大きな力を持っています。

 三つ目は、芸術。ほんとうに苦しいとき、われわれは、お気に入りの音楽に聞き入ります。

 四つ目として、自分の身体との調和。心が苦しいとき、手仕事や肉体作業に打ち込む人たちがいます。スポーツをする人もいます。知恵と呼ばれるものの半分は、身体に宿っています。

 教育の基盤も、これらに置くべきです。思考には思考の役割がありますが、15歳くらいまでの教育は、思考中心とすべきではありません。
 これらの基盤ができていれば、思考も生きたものになりますし、生涯にわたって学び続けることができます。

 それに比べて、思考にできることは小さいです。考えで解決することも多いのですが、ちょっと考えても解決しないことは、いくら考えても解決せず、堂々巡りします。われわれは、既に知っていることしか考えることができません。

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危機の時代だからこそ

 私は、政治にも経済にもいつも興味津々です。思うことは多いです。でも、人間が結論を覚え込んでは自分や他人を指揮しているかぎり、人間は孤独であり、傷つきやすく、戦いから抜け出せないでしょう。そういう人間たちが社会改革をしても、暴力や欺瞞にとりつかれるでしょう。
 そこをなんとかできるのは、教育だけです。教育だけが希望だと思って、政治経済にはほとんど触れずに、教育で発言しています。

 なのですが、今の世界状況は危機的だと思います。

 ギリシャの国債問題に発した欧州の経済危機は、不良債権の誘爆をつぎつぎと起こして、世界的金融恐慌にまで発展しそうです。各国政府も中央銀行も、リーマンショックのときに全力出動したので、救済する余力は大きくない。

 イスラエルとイランがいつ戦争勃発となってもおかしくありません。この戦争が起きたら、核兵器が使われそうです。おそろしいことになるかもしれません。
 世界には、他にも紛争の火種だらけです。

 2012年は、激動の年になると思います。世の中は騒がしくなるでしょう。

 そう言っているからといって、警鐘を鳴らしたいのではありません。

 「だからどうした」、を改めて言いたいのです。

 恐慌も戦争も、社会の慢性病が症状となって吹き出すだけです。その時になって「けしからん」と騒いでも手遅れです。
 恐慌? 戦争? だからどうした。
 

 それより、なにが根源的なのか、です。第一次大戦、第二次大戦であれだけ懲りたのに、人類はまだ搾取と戦争をやめない。

 教育だけが希望を持っています。
 人間自体が深く変容しないといけない。

 理解力に富み、愛に満ちた次世代を育てることです。子どもが欺瞞を見抜く目を大事にすることです。教育さえしっかりしていれば、どんな廃墟からでも立ち上がれます。30年後は、かえって明るいのです。

 子どもたちの野心をかき立て、賞罰で誘導し、競争で走らせる教育をやめましょう。教育を人材養成だと考えるのをやめましょう。教育とは、子どもたちといっしょに、世界の驚異と美に目を見張り、幸せに生きる道を発見することです。
 平和を教えても、平和は訪れない。平和に教えたときだけ、平和がやってきます。

 迂遠だって? 
 いえいえ、とんでもない。唯一の道です。

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教育の目的は学力か

 われわれがもっとも困っていること、苦しんでいること、それは多くの人が先入観の固まりで、理解力がなく、偽善的であることではないだろうか。これは、非難したいのではない。それらは、みな苦し紛れから生まれた行動であり、自分もやっていることだと理解したときにのみ、解決があるのだと思う。

 先入観、理解のなさ、偽善は、パターンを覚え込んで生きているために起こる。ほんとうに起こっていることを見ていない。
 自分の感受性で物事を見ることより、すでにできているイメージを呼び出して繰り返したほうが安心できるからだ。

 個人生活で私がもっとも苦しむことは、それは一緒に生きるしかない家族や職場の人間が、私のことを出来合いのパターンで見ていて、私がほんとうに感じていることやほんとうに考えていることを理解しないことだ。
 子どものときの孤独感を思い出す。大人は、理解しなかった。大人は結論しかもっていなかった。
 それは、多くの夫婦の孤独感でもあるだろう。

 仕事をする立場なら、私がもっとも苦しむのは、上司、同僚、部下などが、状況を見ずにパターンに従って不適切なことをし、それに対して意見することもできないことだ。

 先入観、理解力のなさ、偽善、それら解決するのが教育のはずだ。しかし、現実の教育は「〜をできるようにする」にとらわれて、考えもせずに利害や強制に訴えてしまう。そこに恐怖が生まれる。

 恐怖があるとき、パターンへの依存が生まれる。怖いから、やみくもにパターンを覚えて対応しようとするのである。学校での試験への対応ならまだよい。社会に出てから、自分にも他人にも大きな苦しみをもたらしてしまうのである。

 教育は、結果よりプロセスのほうがはるかに重要だ。教育の目的が学力とは思わない。

 親が、「なにやってんの、あんたは」と怒鳴るとき、教師が「内申に響くぞ」とチラつかせるとき、私はヤクザがドスをチラつかせているのを見るような気がするし、汚染をまき散らす工場を見るような気がする。

 教育が、露骨なあるいは微妙な形で恐怖に訴えて行われるとき、われわれは、個人と社会を壊しているのではないだろうか。

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昆虫脳と人間脳

 昆虫にも脳がある。しかし小さい。昆虫は空を飛ぶ都合があるから、身体を大きくできない。小さい脳しか持てない。そこで、効率よく機能するようにしてある。
 小さい脳に最大限の機能を持たせるため、総合的判断をしないで、特定の条件だけで反応するようにしているのである。

 ファーブルの昆虫記には昆虫のおもしろい性質がたくさんでてくる。たとえば、ある毛虫は列を作って行進するが、前の毛虫が出した糸をたどって後ろの毛虫がついていく。ファーブルがちょっといたずらをして、植木鉢の縁を毛虫が歩くようにしたら、その毛虫の列は前の糸をたどるだけなので、いつまでも植木鉢のまるい縁を回り続けた。

 「飛んで火にいる夏の虫」なんかも、特定の条件があると反応しているだけである。光るものがあったら近づく、というプログラムしか持っていない。自然界ではそれでうまくいっていたのだろうが、人間が出現して火を使うようになったら、火の中に飛び込んでしまう。

 人間だとそんなバカなことはしない。人間だと、初めてのものに出会うと「なんだろう」と言って、慎重に調べる。未知のものを未知と捉えて探究する能力、これが実は人間の最大の能力だ。条件反射的反応をしないことが、大きな脳をもっていることの特典なのである。

 ところがである、人間はせっかくいい脳を持っているのに、教育がそれに対応していない。すでにわかっていることを覚えさせるのに熱中している。
 受験勉強というのは、問題を、「If ‥‥,then ‥‥」というパーツに分解して記憶することなのだと、
 いろんなイデオロギーに固まった脳が、やはり条件反射しか使っていないのである。教育問題といえば、「日教組のせい」とか「文科省のせい」と出てくるのが条件反射脳である。
 不安と恐怖に取り付かれた人間は答えを求める。大人たちは答えでいっぱいだ。問題が起こるとたちまち、「~のせいだ」をわーっと騒ぎ立てる。それらは貯め込んだ答えを条件反射的に出しているだけだ。だから、社会問題も人生問題も、めったに解決しない。
 教育がそもそも、答えを蓄積させるようになっている。もうちょっとましな使い方をしても、せいぜいで、出された問題を解くことに特化している。

 では、なぜ、教育が答えを蓄積させることになってしまうのか。ほんとうにそれがよいと思っている人は多くないだろう。しかし、そうなるのである。どうしてか。

 一つは入試である。入試があって結果を出さなければならない以上、点数を取るために単純化された条件反射を使うことも、やむを得ないことである。

 もう一つは、学校が学習指導要領遂行機関にすぎなくなっていることである。
 「正しい教科書」があって、それを教えるのが教育であり、「かくかくの内容を修得させました」という結果を出さなければならないなら、条件反射を刷り込んで済ませることもやむを得ないことである。

 入試と官僚統制を疑うべきである。

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教育の現状を知るのにオススメのこと

教育に関心があって、教育論を持っている人に会うと、私はよくこう言います。

「日本の教育の現状を知りたいと思ったら、オススメしたいことが三つあるんです。

一つは、小学校の1年生に教えてみること。子どもを相手にするのは、理屈じゃどうしようもないということが、よおくわかります。

二つ目は、中学3年生のちょうど真ん中の成績の子、偏差値で50という子に、マンツーマンで教えてみること。じつは、まともに義務教育課程を習得できてないのだということに、愕然としますから。もちろん、点数はそこそこ取れてるんです。でも、教えてみるとわかるんです。

三つ目は、不登校の子どもに実際に接してみること。こんなに追い詰められた人を生み出していいのかと、理屈じゃなくてわかりますから。なんの立場もなくし、なんの言葉もなくて、うつむいているしかないんです。」

どれも、よほど機会に恵まれないと実行できないと思います。

でもね、でもね、やってみてはじめてわかるんです。

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「だめじゃないか、危ない、違う」ではなく

 人間が傷つくのは、いつも耳元で「だめじゃないか、危ない、違う、みっともない、ああしろ、こうしろ」という声がしているときです。

 これは、はじめは、子どもに関わっている大人たちの声です。
 そのうちに内面化されて、一人でいるときも、こういう声が頭の中で鳴り響くようになります。

 それは、恐怖を元にした条件反射の体系であり、知性としてはもっとも単純なものです。野生動物は、恐怖を元にして、型にはまった生活をしていることが知られています。「危ない、違う、みっともない」で生きることは、野生動物と同じ生活なのです。

 「だめじゃないか、ああしろ、こうしろ」の生き方を身につけさせるためなら、とくに体系的な教育は必要ありません。伝統社会のように、大人たちに交じって子どもたちを育てていけば、社会的慣習は子どもたちの中に自然に内面化されます。長いあいだ、人間はこのやり方で社会を維持してきました。

 そうではなく、探究精神を燃やし、どうなっているのかを吟味し、つねに新たな答えを見出していくのが、人間の知性というものです。そのような知性に基づいたとき、人間には焼き尽くすような幸福感があります。
 近代の教育が、いささかではあっても、この人間らしい知性を育ててきたから、われわれは、これだけの物質文明を享受することができています。

 学校教育が、あるいは学校でなくてもかまわない、子どもたちの学びのための場と機会を用意することは、「だめじゃないか、危ない、違う」から人間を解放するためにあります。命令と叱責を、理解と感受性に置き換えること、それが教育です。

 しかし、学校教育はすぐに、「~をできるようにさせた」、「ちゃんと挨拶できるようにさせた」に全力を挙げてしまいます。学校は、ある目に見える結果を出すために、すぐ子どもを脅したり、競争させたりしてしまいます。
 学校の教育方針を決定するのが、政治家や、官僚や、経営者たちになっているからではないでしょうか。口先でなんと言おうとも、彼らは子どもの発達を見ている人たちではなく、政治や経済の利害にからめとられている人たちです。政・官・実業界の人たちが主導してできた法律と教育内容に従って、校長も教師も教育を行っています。

 教育者たちと親たちが、そしてある程度の年齢になったら子どもたちもまじえて、教育を決定できるようにすることが、教育にとって根本的に大切なことだと思います。

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子どもと接する感触

電車の向かいの席に、母親と娘がいた。母親は30代、娘は幼稚園くらいに見えた。

日曜の朝で、二人ともよそ行きの服装だ。”お受験”のために、なにか習い事に行く途中のようだった。

娘が、ひざの上に紙を出して、絵を描きはじめた。なにか文字も書いていた。母親がそれを指さして、なにかしらアドバイスした。それが、とても良い感じだった。
何を言っているのか聞こえたわけではないのだが、手の動きといい、語りかけかたといい、根っから優しいのである。娘は素直に母親を信頼して、どこでもついて行っているという感じだった。

あの優しい感じが、あの年齢とよく噛み合っているのだ。私は、点数教育、競争教育に反対なのだが、それよりも子どもとの接し方そのものが大事なのだ。とくに低年齢は、何を教えるかより、どう接するかのほうがはるかに重要だ。

実際に子どもと接していない人たちは、何を教えるかばかり言う。こういう、子どもと接する感触そのものがもっとも大事だというのに、カリキュラムがどうこうとか、書類がどうこうとかで、教育を指揮してしまう。

それにしても、あのお母さん、うまかったなあ。文字で表現するのは非常にむずかしいんだけど。

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