カテゴリー「学校裁量権」の4件の記事

民主党の学校理事会案

選挙間近である。民主党のマニフェストの中に、学校理事会の案があった。

> 公立小中学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する
> 「学校理事会」が運営することにより、保護者と学校と地域の信頼関係を深める。

一番重要なところはぼやかしてある。どうってことないことを言ってるかもしれないし、大変革が起きるようなことを言っているのかもしれない、そこはわからない。

一番重要なところ、というのは、「『学校理事会』が運営する」の具体的な内容である。
もっとはっきり言えば、その学校理事会は校長の任免権を持つのか持たないのかである。

校長の任免権を持つとすれば、「学校分権をやります」という意味になる。これまで校長は教育委員会の任命だから、官僚機構に対して責任を取っていた。それが、理事会に任免権があるとなると、学校単位の責任体制の確立ということになる。
この変化は大きいですよ。

欧米の標準的なタイプの学校では、学校理事会があって、そこが大きな方針を決めて、実行してくれる校長を公募する。教育委員会から校長が天下りで任命されてくるのと、根本的に違ったものに変わる。
いままでみたいに、「学校が時間数を裁量してもいいですよ」とか「民間人校長も入れます」なんてものじゃない。根本的な責任体制が変わる。いよいよ、学校がお役所ヒエラルキーの中に組み込まれている運営にメスが入ることになる。

学校理事会が校長任免権にまったく関与できないなら、たいして意味のない学校理事会になるだろう。今のPTAの延長のようなものなり、指揮系統をかえって複雑にするだけだろう。

でも、学校理事会が「運営する」と言っているのだから、かなり強い言葉だ。いったい、どうなるのだろう。


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小話のような実話、でもブラック・ジョーク

小話シリーズです。

教員が生徒を殴り、怪我をさせた。
親は、診断書を取って、学校に文句を言った。
校長は、教員はそんなことをしていないと言っている、と言った。
親は教育委員会に行った。
教育委員会は、調べます、と言った。
とたんに、学校から教頭が手みやげを持って親の所に来て、
「教師本人の将来もあるので、なにとぞ穏便に」と言った。


小話のようですが、ほんとは、ただの実話です。
学校のあわてぶりも面白い。
でも問題は、教育委員会が住民本位ではなくて、学校と通じていることなんです。

この続きは、どうなったかというと

親は、教育委員会と学校がグルになってもみ消しを図っていると怒ったけれど、学校と教育委員会は身内同士だから、話のもっていきどころがない。

私は「彼らには、不祥事が表に出たらたいへんだって、それしかないんです。新聞社に投書なさったら、あるいはネット上で公表されたら」と勧めた。
でも、親御さんは、そうすると今度は子どもが教師に睨まれるか、「あの親の子だ」と他の子にいじめを食うのではないか、と心配して、泣き寝入りした。

実話ではあるのだけれど、やはりブラック・ジョークですね。

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上っ面の改革でいいのか

 日本の義務教育は、官製学校になんとしても子どもを来させることだった。

 教育内容と教科書は国が完全にコントロールする。
 学校運営に、親と生徒は関与させない。PTAは大政翼賛会。
 「嫌がる子どもを我慢させて授業を受けさせるのが教育だ」という教育哲学が広がっている。

 国が貧しくて、食うためには我慢するしかない時代は、親も子どもも「学校おしん」になるのを美徳と考えていた。でも、時代が変わった。

 忍耐し努力することを疑う教育哲学がじわじわと広まってくる。教育は、本来、子どもの自主性に基づくのではないかと。教育は、本来楽しいものではないかと。

 先生も、より強制的でなく、より楽しい学校生活を目指す方向に行く。だから、学校教育がよいものになったかって? とんでもない、かえって学校が崩壊してしまうのである。

 子どもの立場から見ればすぐわかる。しょせんは、徴兵令状みたいなのが来て、一カ所に集められて、教室に拘束されている立場。まわりは自分勝手なガキだらけ。先生は、わけのわからない大人の言葉ばかりしゃべっている。
 ここに「我慢しなくていいよ」、と言われたら、わーっと、自分勝手を始めるのである。そうかんたんに、”自主的な学び”なんかに行くものではない。

 だから、やはり子どもに規律を押しつけて、嫌がる子どもたちに我慢させなければならない、という方向がまた強まっているようだ。
 やってみればわかるだろうけど、これは、いままでの経験に何も学んでいない。昔を美化しているだけだ。昔ながらの、無気力、反抗、いじめ、落ちこぼれがまた増えるだろう。我慢の美徳のあるところには、必ず陰湿ないじめがはびこる。

 ほんとに教育改革をやる気なら、学校ぐるみで、なんであろうとよいと思ったことはやれ、まずいと思ったことはやめることのできるだけの自由と責任を負い、先生たちが「先生くささ」を漂わせていない学校を作らないといけない。今の制度の外側に作らないと、そういう学校はなかなかできないだろう。

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市教委と校長の権限関係

 新潟市で、13名の子どもに出席督促が出た件で、親側に話を聞いていた。

 新潟日報5月29日には市教委側のコメントとして「呼び掛けへの理解を得られずに悩んだ末の対応」と出ているが、親側は「学校の諒解が得られていたと思っていたら、いきなり出席督促が来てびっくりした」と言っている。
 どうして、そこまで食い違うのだろう。
 母親たちに経過を聞いていたら、お母さんの一人が
「そう言えば....」

 校長や担任が、「元気になったらきてくださいね」とか「できるだけ来させて下さいね」というようなことをけっこう言っていたそうである。他のお母さん方も、「そうか、そう言えば...、そんなこと言ってた」
 でも、みなさん、あれが”出席を促す呼びかけ”だったとは感じていなかった。

 そうなることは、よく理解できるのである。

 「できるだけ来させて下さい」は、不登校の子どもの親に対して、先生方がどんな場合でも言う。それは、ただの儀式みたいなものであって、ほんとうになにがなんでも連れてこいという意味ではない。
 現在の制度では、不登校に対して、学校の内でも外でもいいからその子に合った教育を発生させよ、という法令はない。だから、「学校には出席しなければいけません。この場合やむを得ないけれど、できるだけ来させてください」という形を作ることがどうしても必要である。その形の中で、事態を収めなければならない。

 「来て下さいね」が、法律の建前を取り繕うための形式的なものであることは、先生も親も承知しているのである。

 しかし、今回の出席督促は、市教委が「こいつらは怪しい」とにらんで、校長たちをリードした。出席督促を出す前に、親たちに十分に出席を促せ、という指示は市教委から校長に対して出ていたと推測できる。
 しかし、校長や担任は現場の教育者であり、現実の親たちとの関係がすでに存在している。教育者が、お役所的な命令指示を出せば、それだけで親に不信を買うものなのである。

 もし私が校長だったら、私は気が弱いたちだから、親には強いことが言えなくて、「できるだけ来させて下さいね」というようなことを表現を、ちょっと多めにするだろう。いっぽう、市教委に現状具申するほどの勇気もヒマもないから、「かくかくの出席促しを、○月○日にいたしました」という報告書を出すであろう。これなら、親につつかれても「そちら様に立場があることはよくわかります。これ以上のことは市教委とお話になったら」と言えるし、市教委につつかれても「わたしは指示に従って、最善のことをいたしました」と言えるし。
 そうすると市教委は「そうか、校長達がこれだけ出席を促しているのに子どもを出席させないとは、悪い親たちだ」と判断するであろう。

 「伝言ゲーム」という遊びがある。列を作って一人から一人へと言葉を伝えていくと、最後にはとんでもなく変形していて、みんなで大笑いできるゲームである。親→(担任)→校長→(市教委担当者)→教育長と、この程度の参加者人数であっても、けっこうゲームになっていたのではないか。

 校長たちを悪者にしてはいけないと思う。これは、権限をめぐるシステム問題である。

 私は、親の教育権と学校裁量をもっと大きくして、ある子どもにどのような教育をなすべきかは、親と先生と専門家(心理、医療、教育など)だけで決められる柔軟なシステムを作らないと、悲劇があとを絶たないと思っている。

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