カテゴリー「教育の自由」の10件の記事

自主高校があっていい

 中学生のお子さんを持つ親と話していたこと。
 子どもに詰め込み勉強をさせたくはない。しかし、現実に高校受験があるのでどうしたらいいか。私はこう言いました。

 「自主高校があっていいじゃないですか。」

 学びは、自分たちのものです。生徒と親たちで高校に相当するものを作ってしまえばいいのです。自主保育があるのと同じです。

 高校は義務教育じゃありません。「高校卒業程度認定試験」という文科省管轄の試験があって、これに合格すれば、高校卒業と同じに通用する資格が得られます。進学にも就職にも通用します。
 高卒認定試験は、難しくありません。そのための勉強に、さほど時間はいらない。あとの時間は、好きなことをするのに振り向ければいいです。勉強だろうが遊びだろうがスポーツだろうがなんでもいい、好きなことに打ち込むとき、人間はいちばん伸びます。

 自習が難しい科目は、自分たちで先生を雇えばいいではありませんか。
 どうして、教え下手な教師に甘んじなければならないのですか。学期ごとか、1年ごとくらいに生徒が信任投票をして、教わりたくない先生とは再契約しなければいいです。
 スポーツ指導者、話し合いのファシリテーター、社会活動コーディネーターのような人を雇ってもいい。
 公共施設とそのサービスは、利用できるものはなんでも利用すればいい。
 年限を3年と区切ることもない。

 やろうと思えば、たいして難しくないと思います。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  ブログランキングに参加しています

| | コメント (0) | トラックバック (0)

達成主義ではなく

 子どもが学ぶとき、あらゆる感覚を動員し、どうなっているかを自分で納得し、それを臨機応変に使いこなそうとします。これは、幼児が物事を学んでいるさまを見ると、よくわかります。

 でも、大人たちは、いつのまにか結論の塊になっています。この学びのプロセスを忘れてしまっています。
 子どもが、九九が言えたとか、難しい漢字を書けたとか、ご挨拶がちゃんとできたかとか、そんなことばかり見るようになります。

 そういう大人たちが教育をどうするかを決めると、何を達成すべきかの一覧表を作ります。

 教育は、いつのまにかその一覧表を達成することになってしまいます。
 学校は、その一覧表を教え込むために作られ、教師たちが雇われます。一覧表達成の、義務も、見栄も体面も生まれます。

 目標が先にありますので、どうしても教育は訓練的、注入的になります。
 子どもたちに、賞罰に訴えてでも、競争させてでも、結果を出させようとします。

 さらに、入試競争もあります。
 さらに、社会そのものが地位・序列と、競争でできています。子どもたちは、生き延びるための知識・技能だけをかき集めます。
 虫の動き、雨の音にも感動できていた子どもたちが、いつのまにか、点数を気にし、借り物の人生訓の丸覚えで生きるようになります。

 それで、結局、結論の塊である大人たちが育ちます。
 そして、ちょっと修正された一覧表を作ります。それもしょせんは一覧表です。

 悪循環が続きます。

 学びは、雨の音に聞き入ることの中にあります。自転車に乗れるようになる身体の動きの一つ一つの中にあります。言葉にならないたくさんの感情に、静かに浸ることにあります。
 教育は、一人一人の学びを援助し、保護することです。それは、一人一人が生きていることに対する気遣い、愛情の中から生まれてくるものです。

 集団訓練を基本とする近代義務教育と、入試による競争主義は、部族社会を乗り越え、近代産業を興すための必要悪だったと思います。その成果も大きかった。けれど、不安で攻撃的で、権威に弱い人間をたくさん生み出しました。

 そんなことをしなくても、われわれの社会は、幸福な個人と高度な科学技術を両立させられるだけの文化的成熟に達していると思うのです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  ブログランキングに参加しています

| | コメント (1) | トラックバック (0)

知識

 しばらく、教育の本題を離れていました。

 原発事故と放射線の研究にほとんどの時間を使っていた。外を歩くと、春たけなわ。

  Tulips_are_fun

 チューリップがやたらとおもしろく感じられた。
 美醜を感じ取ること、人の言うことの真偽を感じ取ること、子供時代にはそれができる。
 いつかそれが知識に置き換えられてしまう。
 「この絵は2億円するのです」と言われると、わけのわからない絵が美しく見えてしまう。

 教育にあたる人たちが、知識の悲しみを感じ取れたら、それは子供たちに伝わる。それが真実を伝えるということだと思う。

 知識には知識の役割がある。その役割を超えて、人間そのものがえらくなったように思い込めば、その人は浅薄だ。試験の点数が取れれば、子どもがえらくなったように思い込ませること。それは、その子の深いところに悲しみを背負わせる。
 子供は、独特の高い倫理をもっている。子どもは生きることがすなわち、学ぶことだ。しかし、賞罰で誘導されるうちに、その倫理が曇る。

 放射線について調べていくと、地道な研究を長年積み重ねてくれている人たちがいた。敬意を持たずにいられなかった。報われる仕事ではなかったろう。しかし、今役に立つ。学問は大事だ。

 学びについて思うことがあった。私は大学生のときに第一種放射線取扱主任者という資格を取った。その後、実務にもついていない。細かいことは全部忘れていた。
 40年もたって放射線の知識が必要なことになった

 にわか勉強だった。でも、なんとかなった。
 勉強って、これでいいのだと思った。どういうことになっているのか原理原則だけ理解していればいい。あとは、そのとき調べればいい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  ブログランキングに参加しています

| | コメント (0) | トラックバック (0)

NPO立学校

 制度のここをちょっといじるだけで、日本の教育が飛躍的によくなるのに、と思うことがある。

 それは、学校を作る自由である。
 教育に新機軸を持っている人たちや、公立学校に不満な人たちに、自分たちの学校を作る自由を認めてほしい。
 公立学校とは異質な学校を作れるようにしてほしい。

 吉田松陰の松下村塾みたいなのがあってもいいではないか。「トットちゃんの学校」みたいなのがあっていいではないか。そういうものがないと、新風が吹き込まない。

 ただし、学校設置をなんでも自由にするということではない、そうすると学力私学ばかり流行る。
 学力での競争ではなくて、まったく質の違うオルタナティブ教育系の学校ができてほしい。吉田松陰は、生徒を選んでなどいない。生徒に競争させてもいない。

 入学時に学力選抜をしない私学を作ること。それがすごく大事なのだ。日本に、その発想がないのが不思議だ。ふつうの親と子どもに選択肢を提供しないといけない。
 公立校に不満があったら、自分たちで学校を作れる。そんな当たり前のことが、どうしてできないのか。

 質の違う学校は、数パーセント程度あれば、十分に機能を果たす。それだけで、公立学校に自浄作用が働き出す。日本全体を市場原理に投げ込んではいけない。意欲的な人たちと、追い詰められた人たちに、道がつくことが大事なのだ。

 いま、せっかく「特区NPO立学校」という制度枠があるのにまったく利用されていない。理由を調べたら、次の2点が大きかった。

・ 学校の施設基準が高く、廃校を借用できないと満たせない。ほとんどの不登校フリースクールは零細で、基準を満たせない。

・ 生徒を不登校または学校不適応に限っている。オルタナティブ教育系の人たちが無認可でやっている学校はすでにあるのに、学校になれない。

 この2点を改正すれば、NPO立学校ができてくるから、昨年11月に「対象を不登校児童生徒だけにしないで広げてほしい」という特区提案をしたが、ゼロ回答が返ってきた。
 かまわない。新しいことには、いろんな心配が先立つであろう。お役所というのは、そういうところだ。
 しかし、教育の自由は民主主義のバロメーターである。学校設置の自由がなくて、教科書も検定されているなんて、先進国として常識はずれだ。日本はそんなに成熟していない国ではないはずだ。バロメーターはかならずそのうち、民主主義のほうに振れてくる。

 何年かかろうが、これから食らいついていくつもりである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  ブログランキングに参加しています

| | コメント (1) | トラックバック (2)

「ゆとり教育」はなぜ行き詰まったのか

 「ゆとり教育」が言われた時期があった。

 反動を招くだけだろうと思った。
 「ゆとり教育」はいい理念だし、失敗を願っているわけではない。しかし、入試と官僚運営に触れずに、いったいどうやって「ゆとり」を生み出すのか、私はクビを傾げてしまうのだ。

 日本の学校の病根は深い。「ゆとり」など、そんな高級なことは、生徒の動機付け、教師の能力とモラル、学校の運営方法、すべてに深いメスが入らないと実現できっこない。足許を見ずに、けっこうなことを結果だけ求めようとしているから、混乱するだけだと思っていた。

 じっさい、そうなった。
 うまくいかなくて、「学力」に復帰していった。

 強制力で成り立っているところがただ強制力を弱めれば、崩壊する。

 強制力で生徒たちを動かしていると、生徒たちの自主性が衰弱するものなのである。そこで強制を弱めたからと言って、衰弱した自主性がそう簡単に息を吹き返すものではない。
 享楽的な遊び、揚げ足取り、自己顕示、他者支配などが跳梁跋扈するのである。これらの悪徳は、他律に慣れ、自分自身の感覚に根付くことのできなかった人間たちの、やみくもな試行錯誤である。

 もう一つ、強制力を弱めるべきは中学と高校である。それなのに、中高は緩めず、小学校を緩めた。これは、逆である。

 ほんらい中学高校は、もう大人の仲間入りをする年齢であり、若き市民たちとして遇しなければならない年齢である。任せどころの年齢なのである。
 しかし、中学高校は、入試が控えているので、緩めようがないのである。
 競争入試制度を廃止せずに「ゆとり」を言っても、ゆとりが生じるはずはないではないか。

 小学生年齢は、ある程度集団の規範を大人が作り維持していたほうがよい。これは、賞罰主義や訓練主義の意味ではまったくない。子どもが、面倒なことは大人に依存できて、自分のやりたいことに熱中できるようにするためである。
 それなのに、小学校は子どもの言うなり状態をたくさん作った。これは、学校と教師によってものすごくバラツキがあるのだが、平均的には、言うなりになるほうに動いた。

 そして、「学力」の大合唱が始まった。
 「学力」はけっこうな衣をまとうが、実体は受験主義と点数主義への回帰である。前が何も見えないから、過去の成功の模倣へと逃げ込んで行ったのである。

 その回帰も、そろそろ弊害が噴出してくる頃であろう。前に進めないので後ろを向いただけのことだから、昔の弊害がまた姿を現す。

 こんどはまともな改革をやるためのポイントが三つある。

・ 競争入試の廃止。資格さえあれば願書だけで入れる方式への移行。それで運営している国はたくさんある。

・ 学校の官僚統制の廃止。官僚運営は、無謬でなくてはならず、前例と規則が大事であり、文書ばかりがたくさん作られるのである。教育のことは、専門家と現場に任せるべきである。

・ オルタナティブ教育の解禁。国家主導教育は、「社会が何を求めているか」から教育内容を決めていく。そうではなく、「子どもの発達のためには何が必要か」から発想する教育が存在し、影響を及ぼしている必要がある。 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教育は変わるだろう

 ここのところ、ニューヨークも東京も株価がいくらか戻し、金融危機は小康状態を得ている。これは各国政府が必死で企業の損失の肩代わりをして連鎖倒産を防いでいるためである。欧米の銀行の多くは政府による資本注入で生命を維持しているだけである。ほんとうに業績が立ち直ったわけではない。やがて、米国の政府財政がもたなくなってきて、それが各国に連鎖波及する。それが目に見えるようになるのは、今年の秋頃だろう。

 世界も日本も大社会変動期を迎えつつある。

 教育も変わるだろう。根本的に変わるだろう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

独善的でない学校を作る

今日、政治施策の良否は選挙によって決められます。政治家がどう思ったかでは決まりません。
今日、財やサービスの良否は、消費者が価値を決めます。生産者がどう思ったかでは決まりません。

しかし、教育には、行われた教育が価値あるものであったかどうか、教育された側が判断する、という原則がありません。
これが、教育を独善的なものにしています。

生徒と保護者の運営参加が必要です。
生徒と保護者の運営参加は、未熟な生徒や保護者によって引っかき回されるからダメだという議論は、民主主義を怖れた王侯貴族が「民衆は愚かだから参加させてはダメだ」と言っていたのと同じです。それは、生徒と保護者は良識ある者たちが多数派であるという事実を忘れています。現在、生徒や保護者に権利を保障しないまま、バラバラに言わせる自由だけ認めているから、引っかき回されてしまうのです。

運営参加だけでは足りません。学校を作る自由と、教育内容を作る自由と、学校を選ぶ自由が必要です。学校を作る自由なしに教育をよくしろというのは、企業を作る自由なしに経済を発展させろというのと同じです。公立学校を逃げ出す自由がなければ、生徒は教師の無能や横暴、生徒同士のいじめの餌食にされてしまいます。
教育の自由は民主主義のバロメーターです。

その際に営利主義がはびこる恐れは確かにあります。しかしこれに対応するのは、技術的に可能です。営利的運営の規制と財政補助によってコントロールできます。西欧諸国で実現しています。

学校設置を自由化すると学力資本主義のようなものに教育が席巻されてしまう危険も確かにあります。入試競争は長らく大問題で、日本の教育のガンです。これに対して小手先の対応では無理で、大学入試を廃止して入学資格化することが必要です。そしてオルタナティブ系の教育を認めて、価値観を多様化する必要があります。
どちらも、実現している国がいくつもありますので、夢物語ではありません。

学校は、自由な精神生活を営む教師たちの協同組織であるべきです。
そして、学校は生徒と保護者の自由な選択に任されるべきです。
現在の官庁をモデルにした官僚組織を基盤とした学校では、権威支配と慣習支配がたくさん発生してしまいます。
いっぽう、学校を営利に基づかせるならば、学校はもっと生徒を集めることと経費を削減することに気をとられ、生徒を手段とみなしやすくなります。

権力や固定観念に支配されていない教師たちのみが、自由で明晰な教育をすることができます。これは、数学ができる人間でないと数学を教えられないことと同じです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

幼稚園の集団訓練

 きょうは土曜日。うちの近所の幼稚園が園庭で運動会をやっている。
 園児たちが並んで、いっせいに同じ動きで踊っている。整列して行進する。集団行動タイプのイベントが多い。子どもたちのキャッキャッした感じがない。子どもたちの動きに表情がない。先生も親もそれに気が付かないのかなあ、と思うのだが、すでに慣例化していることだから、これで進行する。 

 幼稚園が、園児たちに集団行動の訓練をするのは、「小学校に行くようになって困らないように」だ。先生たちも親もそれを心配して、訓練するのである。実際、小学校で集団行動についていけない子は、不利益をこうむるのである。
 それで、あんなつまらない動きを子どもにさせて、「これで社会性がついた、集団で生きていける」と安心することになる。こどもたちは、従順に段取り通りのことをしている。

 子どもに社会性を身につけさせたいなら、まず、親とのしっかりした二者関係、それから仲間との遊びを通じた自主性と折り合いのつけかたを実地に経験する機会を作るべきだ。いきなり集団訓練をやって上っ面を整えるのは、試験の前の一夜漬け丸暗記と同じだ。あとにいったい何が残るのかと思う。

 小学校は、きれいな理念を言うが、一斉授業を維持し、朝礼、運動会、入学式などを遂行する枠から出られない。それは見えないカリキュラムになっていて、検討されることがない。けっきょく、学校は法令と慣習にがんじがらめだ。その小学校で生きていけるように、親も幼稚園も配慮せざるを得なくなる。

 中学は、受験もからむから、もっとがんじがらめだ。生徒の自主性がつく時期なのに、教師達が生徒の自主性と闘ってしまっている。小学校は、その中学で生きていけるようにと、配慮せざるを得なくなる。

 といったぐあいに、せっかくの子ども時代が、どんどん将来のための訓練に食われていくのである。人々が、それが素晴らしいと思ったからそうなっているのではなく、誰も変えようがないシステムができてしまっているだけではないかと思う。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (5) | トラックバック (1)

悪者がいるのではなくて

 教育が悪いのはなぜかについて、生きた化石みたいな主張がいくつかあります。現在に対してけっこう影響力を持つから困ります。

 一つは、「日教組元凶説」。
 もう、日教組はそんな力をもっていないです。

 もう一つは、「文科省元凶説」
 文科省は、そんな大きな権限を持っていないです。

 さらに、「教育委員会元凶説」
 教育委員会にできることは、すごく制約されています。

 どこかに悪者がいるんじゃなくて、今の学校システムだと、文科省からヒラの教員まで、すべての人が他から制約されていて、「いい」と思ったことをし、「まずい」と思ったことをやめることができないんです。

 悪者探しをするより、従来の法令、慣習、人事からまったく自由な独立型学校を作って、意欲的な人にやりたいようにやらせたらいいんじゃないでしょうか。ただし成功するとは限らないから、学校を作るほうも、学校を選ぶほうも、自己責任で。

 上からいくらけっこうな改革方針を出して実行させたって、自発性や創造力は出てこないです。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (2) | トラックバック (2)

学校を作る自由

 世界に、学校を作るのがたいへん自由な国々がある。デンマーク、オランダ、ニュージーランドといった国々である。学校を作る自由は、民主主義のバロメーターと言えるものである。

 ところが日本で学校を作る自由の話になると、多くの人に湧く疑問が
「でも、カルトが学校を作ったらどうするのですか」。
多くの人がそれを心配する。

 これを聞くと、私は中国で議会民主主義を危険視する考え方があるのを思い出す。

 辛亥革命のあと、北京の政府に国会ができた時期があった。この国会が、ものすごい買収と、脅迫の渦巻くところになり、大混乱をもたらした。
 そこで中国の人たちが言う。「議会制民主主義は危ないです」

 それと同じではないかと思う。

 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  応援クリックのためのバナー

| | コメント (1) | トラックバック (0)