カテゴリー「教育権」の3件の記事

憲法26条は深いのだ

 きょうは、憲法記念日です。

 教育に関して直接述べている憲法条文は、一つだけです。

第26条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。

 特に、第2項をよく読んでください。保護者が「学校に行かせる義務を負う」と書いてありますか?
 違いますよね。保護者が「普通教育を受けさせる義務を負う」と書いてあります。

 違いがないって?

 いえいえ、普通教育というのは学校とは限らないんじゃないですか。
 家庭で行う普通教育もあり得ます。
 私塾で行う普通教育もあり得ます。
 憲法は、すごく可能性を持っているんです。

 今は普通教育を行うと法律に書いてあるのは学校だけですが、ちょっと、法律に学校の他にも「~は普通教育である」と書き加えれば、それも立派な義務教育になるんです。保護者は子どもを教育する義務を負っているのであって、その教育を保護者が手配すればいいのです。


 家庭で育てる普通教育もありとしたら、学校に行くか行かないかは、親が決めればいいことです。たいていは学校に行かせるでしょうけれども、それは唯一無理矢理の道ではありません。

 そうしたら、学校は選んだものなのです。無理矢理行かされたのではないのです。親は、学校を選んだ人間として学校に要望してよいのです。

 そうしたら、親と学校は、対等の契約関係になります。学校は、就学義務の上にあぐらをかいて、何をしたって生徒と親は来続けなければいけないんだ、なんて言えなくなります。親としても、自分で選んだのだから、責任ある行動をします。

 そのとき、学校が本当によくなってくるんじゃないでしょうか。

 とにかく言いたい。
 「公立学校は就学義務の上にあぐらをかいている」

 公立学校が義務教育の独占者であるからそうなります。憲法の可能性を最大限生かしましょう。

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教育と学習

 私の私塾・フリースクールは、正式名称として古山教育研究所を名乗っている。

 昨日、ある会合があって、参加者はそれぞれの名前と所属を紙に書いて自分の前に置いていた。私も自分のものを書いた。

 休憩時間に席を立ったとき、ふと自分のところを見たら
  「古山明男 古山教研究所」
と書いてある。うっ、この人は教祖様だったのだ。自分で名乗っているところに、不気味な迫力がある。

 あわてて、「育」の一文字を付け加え、「人になんと思われたか」とどぎまぎしていた。

 考えてみたら、教育というのは、教える立場の言葉だ。一字抜ければ「日本教育新聞」は「日本教新聞」になるし、「京都教育大学」は「京都教大学」になる。
 逆に、「××教」に一字付け加えれば「××教育」になる。

 明治の初期、EDUCATIONの訳語に「教育」があてられたとき、福沢諭吉がそれは違うだろうと噛みついていた。EDUCATIONは「発育」とでも訳すべきで、「教育」としたら一方的に教え込むことを表していると。
 私も、教えと学びをいっしょにして「教育」と呼ぶのは、あんまり適切ではないと思う。国の政策は「教育政策」と呼ぶより「学習政策」と呼ぶほうが適切だと思う。現に、文科省には生涯学習局が存在するではないか。
 
 日常生活で、「”教育”という言葉を使ってはいかん」などと言うつもりはないが、法律や制度の問題としてはけっこう重大である。「~権」をつけてみると、その重大さがわかる。
 「教育権」と「学習権」。
 主体が違うのである。教える側と学ぶ側。180°違う。どちらの側を主人公にして、法律や制度を組み立てるかの問題になってくる。

 近年、「教育」が「学習」に置き換わりはじめている。生涯にわたる教育は「生涯学習」と呼ばれるのが確定している。ユネスコは「学習権宣言」を出している。憲法第26条の「教育を受ける権利」は「学習権」であるとする説が有力である。学ぶ側が主体である、という思想である。

 学習のほうが本質的だ。生まれてから死ぬまで、この世界について、自分自身について学び続ける。それが生きているということだ。
 他人から意図的に何かを教えられて学ぶことは、そのほんの一部に関係しているにすぎない。

 現在の法律と制度は、「教育」を元にしている。行政と教育者がどのような場でどのようなことをするかの定めである。学んでいる人間を守る意識が薄い。
 一歩間違えれば「××教」なのである。

 「学習」を基本にしていれば、一歩間違えたところで「××学」で済むのに。

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北欧型教育と親の教育選択権

 いま世界を見渡して、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、オランダといった北欧の国々の教育がよくできている。競争的でも、点数主義でもなく、子どもの発達を中心においている。なおかつ学力は高い。
 いじめ、不登校なども、きわめて少ない。国は豊かで、国際競争力も高い。

 この北欧型教育ができてくる基盤で重要なのが、教育を受ける側の人権意識、それと親の教育選択権である。

 人権意識というのは、人間同士でこういうことは尊重するものだという道徳意識を結晶させたものだ。教育に欠かせない。

 親側に教育選択権があるから、親のニーズに応えて、どんどんいろんな教育が沸き起こってくる。親が、子どもの教育に責任を負うし、教育に参加的、協力的である。
 教育を選ぶ権利が保障されているので、内容の悪い学校は、改善を余儀なくされる。
 学校設置の自由があるし、学校はそうとうな自由度を持っているが、東アジア諸国のような進学競争によるランク付けが起こっているわけではない。

 「学校の内容が悪かったら、自分たちの学校を作ってよい」という保障は大事なものだ。これがなければ、学校は社会主義国の国営企業と同じである。学校は、いくらきれいな理想をとなえても、実体は規則と書類と責任逃れに、がんじがらめになる。

 国際人権A規約(日本が批准している人権条約)は、保護者が国の設置する学校以外の学校を選択する権利を保障しているし、個人及び団体が教育機関を作る権利を保障している。

 これが教育の国際水準である。

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