カテゴリー「教科書検定」の3件の記事

教科書検定制度を廃止せよ

 「世界の常識、日本の非常識」の一つに教科書検定制度がある。先進国でやっているのは、日本以外はドイツとロシアくらいのものである。世界の主流は自由出版、自由採択である。

 これだけ文化水準が高い日本で、出版社が総力をあげはじめたら、たちまち、わかりやすくて使いやすい教科書が次から次へとでてくるだろう。マンガを使ってもけっこう、練習問題をどれだけ付けようが付けまいがけっこう、ページ数は薄かろうが厚かろうがまったくご自由に。おそれ多いほど立派な分厚い本でもけっこう、書き込み式でもけっこう、ドリル形式でもけっこう。とにかく、子どもと教師にとってわかりやすい、つかいやすい、興味が持てるものであればなんでもいいのだ。
 語学の教科書には、どんどんCDをつければいい。DVDでもいい。本であることにこだわる必要はない。

 教科書は、現場の先生と、著者・編集者のとのキャッチボールの中で作られるべきである。官僚などが介入してはいけない。
 問題のある教科書は、採択されなくて自然淘汰されるだけの話しである。

 教科検定制度廃止に予算はいらない。いらないどころか、現在、教科書検定制度維持のために、文科省はたいへんな人員と予算を使っている。これは、まったくの無駄遣いである。
 教科書検定は、文科省が日本教育をコントロールする権限の源泉になっている。この権限を吐き出させるべきである。

 文科省は、大綱的な、法的拘束力のない指導要領だけ作ればいいであろう。
 現在、入試問題が難しいものになるから、という理由で教科書の内容が画一化されるのだが、それでも中学入試は教科書では対応できない問題ばかりだ。高校入試競争が緩和されたわけでもない。
 教科書の内容をそろえれば入試を緩和できるとするのは、幻想である。問題が標準化し画一化するので、かえって丸暗記やクソ勉強が増えるのである。

 教材作りは、ゲームソフト作りとよく似ている。ユーザーの立場を知っている人間が作り、ユーザーに使ってもらってつぎつぎとバージョンアップしていくのである。このプロセスを丹念にやるから、いいものができるのである。
 ゲームソフトは楽しさを追求するが、教科書は理解を追求する。スキルアップを追求することは、どちらも同じである。

 あるいは、ゲームソフトを作っている会社が教科書に参入してもいい。コンピュータソフトとして作ればいいのである。ファイナル・ファンタジーを作る感覚で歴史・地理を作り、ストリート・ファイターを作る感覚で計算問題を作ればいい。ソフトメーカーはすごいものを作り出してくるだろうと思う。ちょっと上手にゲームを作れば、子どもたちはスキルアップに熱中するものである。計算練習を、ドリルや百マス計算でやっていた時代がばかばかしくなるだろうと思う。

 採択は教師単位で自由採択とすべきである。「教師が使いやすい」ことがなにより大切だからだ。今の、市教委単位の採択は、業者との癒着の温床である。なにせ、何千部何万部単位で、どかっと採択されたり不採用になったりするのである。

 イデオロギーが問題になるのは、ごく一部の教科の、そのまたごく一部である。そんなもの自然淘汰されるに決まっている。もしも、問題があるなら、保護者や校長が教師と話し合えばいいことである。

 フィンランドに行って、教科書の出来がいいのに驚いたことがある。かゆいところに手が届いている。それに、いわゆる『教科書臭さ』がまったくない。フィンランドでは90年代に教科書検定制度が廃止された。
 自由出版、自由採択というのはこういうことか、つまり教師と出版社が、ありったけの力を出すことなのだ、と感覚で理解できた。学力が伸びるのは当たり前ではないか。

 日本で、教科書を自由出版・自由採択にしたら、5年くらいでとてつもない教科書がたくさんできてくると思う。世界をリードするほどの教育文化がたちまちできてくると思う。なにせ、マンガやアニメを生み出した国である。この領域では、非常にクリエイティブである。

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文型と会話の折衷が最悪の教科書を生んだ

 90年代に高校受験生を教えていたとき、英語の基礎文型があまりにできていないのにびっくりして、1年生の教科書を入手して研究したことがある。地元中学で使っている「トータルイングリッシュ」だった。そうしたら、「なるほど、これでは生徒が混乱して当然だ」と思った。

 文科省が会話重視の方針を打ち出した平成元年の指導要領に基づいて出てきた教科書である。
 1年生の教科書は、ほとんど会話文でできていた。文型へのこだわりが小さくなり、こなれた表現がかなり入っていたし、ビギナーには少し難しい言い方がぽんぽんと出ていた。

 こういうやり方をするなら、どうしても必要なことが二つある。一つは内容がたいへんおもしろいこと。もう一つは量をたくさん示して、その中からそれぞれの語の使い方を生徒が帰納的に掴めることである。
 ところが内容は、新しい外国のお友達が学校にやってきてみんなと仲良くなる、というお説教臭い冴えのない話である。こういう話は実用的なようでいて、じつはそんな状況はめったにない。
 文型や語彙で、日本人のビギナーにはわかりにくい表現がぽろぽろと出てきて、フォローがないままである。

 do の使い方、does の使い方、be 動詞などの文型説明はちゃんとある。しかし、タイミングがあわてすぎているので、生徒の頭の中ですぐにごちゃまぜになってしまう。こんな中途半端なことをするくらいなら、文型にこだわらないで、実用性やおもしろさを中心にして、たくさんの英文に接するようにしたほうがいいと思う。

 あるいは、too の使い方で

   Koji is her student, too.
    He is very tall.
    His desk is too small.

と、意味の違う使い方が1行あけただけで出てくる。これが混乱を招くのである。
 先生がこれを説明しようとしたら、用例を示し、解説し、練習させて、それだけで20~30分使ってしまうだろう。そうもいかないから、先生は先に進まざるを得ないだろう。先に進むうちに、だんだんわかるようになっているならまだいいのだが、その後に「~すぎる」の too のフォローがないのである。
 案の定、中学3年で、 too がわかっていない子によく出くわした。

 とにかく、会話から教え始めるというのに、字を印刷してある教科書で教えているのが大問題だった。相手は、まだ英語の文字がろくに読めない人たちなのだ。
 さらに、会話を教えられても、中間テストや期末テストに点をとれるには、つづりをきちんと書けなければいけない。そこでまた落ちこぼれをたくさん作っていた。

 会話から入って教えるなら、それはそれでノウハウが必要なのである。ところが、平成元年指導要領による会話重視は、文型からはいる教科書と会話で入る教科書を折衷した。結果として、どちらの教科書としてもきわめて使いにくいものになった。
 それ以前の文法型中学教科書は、つまらなかったが、少なくとも文型をわからせるということではよくできていた。
 英語の基礎学力の低下が言われ出したのは、平成元年型教科書が普及しだしたころだと思う。

 現場の先生たちはさぞかし苦労したろう。「こんな教科書ではたくさん落ちこぼしてしまう」という声が上がって当然だったと思う。
 ところがそういう声が上がらないのである。
 教員の発言力が低すぎると思う。

 教え方に試行錯誤はつきものである。新しいことをやるなら、ユーザーの使い心地が素早く反映されるようになっていないといけない。中教審発の試行錯誤をやっていると、改訂が10年単位だし、現場技術者の声がほとんど反映されていない。

 その後の中学英語教科書は、かなり改善されてはいる。しかし、骨格は変わっていない。中教審と検定官に、生徒がどこでつまづくか理解しろと言うのは、無理な注文なのだと思う。

 私は、教科書は自由出版、自由採択にすべきだという意見である。いわゆる先進国では、自由出版、自由採択が主流であり、日本は特殊なほうに入る。

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英語教科書の問題点

 教科書検定制度でよく問題になるのは、歴史の教科書だ。しかし、私は、いちばん問題なのは英語と数学だと思っている。

 英語というのは、いろんな教え方ができるものだ。なにせ、言葉を教えているのだから、台所ででも、公園ででも、英語を教える教材にはことかかないものなのだ。

 私はいろんなやり方を試してみたが、動作と組み合わて教えるのが、楽しくできるし、落ちこぼしを作りにくい。
 つまむ、運ぶ、さわる、といったかんたんな動作を、英語の指示通りにやる。次は、他者に指示してみる。見えた動作を英語にする。そのようなことをして、実際の行動と英語を関連づけていくうちに、英語の構造を感覚に刻み込んでいくのである。
 他にやり方はいくらでもある。

 ところが、中学の英語の教科書は型にはまっている。各社、それなりに細部ではおもしろいことをしているのだが、英語の大量の落ちこぼれが発生するのは、教科書が最大の原因だと思う。高校入試にターゲットを絞らざるを得ない実情、指導要領の制約もある。
 指導要領、教科書検定、高校入試の三つが重なると、これほどまでに自由度を損ねるのである。

 問題点は次のようなものである。

 ・ 自然な音声言語が内面に成立しないままの生徒がたくさん生じる。彼らにとって、英語は単なる暗号の体系になってしまう。 

 ・ 教科書は会話と文法の折衷をしているため、両者の短所が出ている。会話の教科書としては生気のないつまらないものであり、文法の教科書としては文型が乱れすぎている。

 ・ 中学の定期テストがあるため、「だめだ」と思う子を固定させやすい。英語を遊びで使う雰囲気になりにくい。

 ・ 英語の綴りはアルファベット圏の中でも最悪。英米の子どもたちが四苦八苦しているシロモノである。日本の生徒はそれにいきなり直面させられる。たとえば go はゴウなのに、 do はドゥーであるなどである。フォニクス指導に十分な時間を割いた方がよい。ローマ字を教えるだけでは、英語を読む準備として不十分である。

 その他、言いたいことはいくらでもあるのだけれど、現在の検定制度の中で改良しようとしていたら、解決に半世紀もかかるであろう。教科書の良否は、生徒相手に使ってみた人にしかわからないものだ。
 教科書は、現場で生まれるようにしないといけない。

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