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2015年4月

不登校は制度公害(9) 『学校教育法』の時代遅れ

現在の日本のもっとも緊急な教育問題は、画一的な学校教育を強制しているために、教育を受けられない子どもが大量に生じてしまっていることである。その最大原因は、『学校教育法』の不備である。 

『学校教育法』は、国によって標準化された学校に出席することだけを教育と認め、それに出席していないと就学義務違反になる仕組みである。この仕組みのために、日本の義務教育システムは不登校問題に対応できなくなってしまった。既存の学校では無理だ、という子どもたちが現れても、いかに既存の学校に戻すかの施策しか取りようがないのである。

『学校教育法』は昭和二二年の法律であり、子どもを無理やりにでも学校に行かせるのが恩恵だという考えのもとにある。その時代の子どもが学校に行かない主な理由は、教育に対する親の無理解だったり、家が貧しいためだったり、子どもが住み込み奉公に出されているためだった。そういう時代の法律である。 

現代で学校に行かなくなる理由は、学校と子どもが合わないことである。子どもに恐怖反応がある場合が多い。しかし、教育運営では、戦後になっても民主主義原則がなかったために、実情がなかなか把握されなかった。生き地獄と言ってよいものが多発していた。

 民主主義原則がないと、言いたいことが言えなくなるのではない。権威者の言うことが鵜呑みにされるようになるのである。学校に行けない子どもたちは、学校に適応できない自分たちが悪い、と信じ込んでいた。親たちは、自分の育て方が悪かったと信じ込んでいた。不登校の問題認識はきわめて遅かったし、その深刻さが認識されなかった。
 

遠からず不登校問題は、水俣病など公害病と同列に扱われることになるだろう。不登校問題は、民主主義原則がないとどんなことが起こるかの見本として、何百年も語り継がれると思う。 

『学校教育法』は、六・三制教育のスタートが急に決まったため、原案作成から国会通過まで二ヶ月足らずで制定された。文部省原案がそのまま通ったため、戦前と同じ義務教育観が、『学校教育法』に残った。国会は、深い審議をしなかった。法案を早く通してやって、新しい教育をスタートさせてやろうという一心だった。たしかに、それまでに比べれば画期的な法律だったのである。 

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不登校は『制度公害』(8) 就学義務のない国デンマーク

就学義務のない国デンマーク


 デンマークに住んだことのある人に話を聞いた。デンマークでは、保護者、住民に「教育は自分たちのもの」という意識が定着している。不登校問題のようなものはないそうである。

デンマークの教育制度は、たいへんに柔軟で、いかようにも教育が生まれるようになっている。

親が公立学校に満足できない場合もある。そういう人たちのためには、私学がいろいろとある。自由主義系、各種宗教系、シュタィナー教育、学力系などさまざまある。親たちのさまざまな教育観に応じて、できていったのである。私学には運営費の七五%の補助金が出ている。だから、富裕な家庭でなくても、子どもを私学に通わせることができる。生徒の一二%が私学に行っている。

親が自分たちで学校を作ってしまう道もある。学校を作ること自体はまったく自由である。学校を作りたい親たちが教育省に相談すると、教育省は「こうすればいいんですよ」というマニュアルをくれて、なにかと面倒を見てくれる。学校を作ることに許可は必要ない。その上、ごく緩い基準を満たしていれば補助金をもらうこともできる。敷地や校舎はなんでもいいし、親が自分たちで先生をやってもかまわない。

気にいった学校がなければ、家庭で子どもを育てることもできる。それは法的に保護されている。

ところがおもしろいことに、デンマークでは、家庭で子どもを育てる人の数は、統計の数字にも表れないほど少ない。学校に行かない自由があるからこそ、子どもが来たくなるような学校ができていくのである。

高等教育も、大学まで無償である。

デンマークでは、一八世紀前半に、グルントヴィという"国父"とも言うべき人物が現れて、一国の文化に大きな影響を与えた。グルントヴィは、民衆教育の父とも言われ、「義務教育は怠惰と無関心を生む」「親の教育権を国家に侵されてはいけない」というような主張をした。グルントヴィの教育思想に呼応して、フリースコーレと呼ぼれる暗記や訓練によらない自由な学校を作る運動が起こり、現在にいたるまで一世紀半の歴史を持っている。このフリースコーレの運動が、公立学校にも大きな影響を与えている。

現在でも、デンマークの教育では、競争をさせず、点数評価に重きを置かない教育哲学が広まっている。=二歳までは、点数の試験を課してはいけないという法律すらある。ところが、国際的な学力調査をやると、デンマークは先進国の平均的なレベルにあるし、成人の学力となるとさらに高い。

世界中を旅し、人々と暮らしぶりを見てきた友人が言っていた。

「おそらく、デンマークは世界でも一番暮らしやすい国じゃないですか」

それは、教育のためだと思う。子どもたちを、自分自身と社会を信頼し、知恵を出し合って生きていけるように育てているのだと思う。

なお、国ではなく親に教育権があるというのは、欧米諸国では常識である。だから、公立学校の教育に問題があっても、親がなんとか別の教育を手配できるのである。

(拙著「変えよう!日本の学校システム」からの引用です)

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不登校は『制度公害』(7) 将来の心配

将来の心配

保護者の側に、子どもをなんとしても学校についていかせなければならない理由がある。日本の義務教育制度は、毎年一本の列車だけ用意して、そこに全員を乗り込ませようとしているようなものだ。「頑張りましょう。ここで勉強についてゆけないとたいへんですよ」なのである。なんとしてもこの列車に掴まっていないと、教育の機会を失ってしまう。

そのために、配慮の必要な子どもたちへの教育が、あまり発達しなくなった。普通なら「うちの子に合った教育を提供してほしい」という声が出てきて当然の人たちから、「みなと同じにしてくれ」という要求が出てくる。

学力不振、不登校、障害児などで、学校が別なクラスを用意しようとすると、親たちに不安と恐怖が走る。列車に乗れないことが確定するからである。

普通学級がよいか、別な道がよいかは難しい問題である。ケースバイケースとしか言いようがないし、教育方法にもよる。しかし、なんでも普通学級でいっしょがいいということはない。

保護者側は、うちの子に合った教育を提供してほしいと思い、またみんなと同じにしてほしいとも思う。そこで、学校がなにもしないでいると「画一的だ」という批判が起こり、なにか別の教育を作ると「差別だ」という批判が起こる。

それは、年齢ごとに一本の列車しか仕立てない、という構造を変えずに、ついてこれない場合にその列車に乗らなくていい措置だけを作るからである。「無理しなくていいよ」と、途中駅で降ろされてしまうようなものである。そのため保護者側に、「将来を閉ざされてしまう」「切り捨てられる」という恐怖が生じる。

もっと具体的に言えば、小中学校で皆と同じに勉強させてもらわないと、後で再履修できるチャンスがないのである。それは、進学の可能性を閉ざされることでもある。

欧米諸国にはたいてい、何歳になっても義務教育の内容を無料で教えてくれるシステムを作ってある。そのようなセーフティ・ネットが日本にないためである。

義務教育と脅す教育とは、まったく別のことである。
 

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