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2015年3月

不登校は『制度公害』(6)

 不登校は『制度公害』です。制度の不備が原因で、たくさんの親と子どもたちが苦しんでいます。学校復帰策だけでは解決できません。教育を多様化して、フリースクールやホームエデュケーションを合法化すべきです。
 以下は、拙著「変えよう!日本の教育システム」からの引用です。


ついてこないとたいへんだぞという脅し

 小学校と中学校は義務教育なので、不登校をすると「学校に行っていないことを責められる恐怖」がつきまとう。子どもたちが外に出なくなる大きな理由は、近所のおばさんにばったり出会って「ああら、○○ちゃん、学校はどうしたの」と言われることである。答えれば、もっと詮索されお説教される。答えなければ、「変な子、社会性のない子」と言われる。「お巡りさんに見つかったら、捕まる」とほんとうに思っている子もいる。

 さらに、不登校の子とその親が追い詰められる理由がある。義務教育にまつわるたくさんの固定観念のためである。

 義務教育を普及させる時代に、教育関係者は「学校に来ないと将来はたいへんなことになるぞ」と、脅しに訴えてでも、子どもを学校に来させた。その脅しというのは、次のような教育哲学である。こんなようなことを、先生たちが話のはしばしで言うのである。同じようなことをけっこう言う親たちもいる。

 学校に来ないことは、人間としてあるまじきことである。病気と忌引き以外には、決して許されない。学校に来ないことは、たいへんなわがままである。そんなわがままを許したらその子がまともな人間ではなくなり、将来が破滅する。学校に来ないなら、その子はまったくの無知無学のままであり、人とつき合う能力も育たず、常識も育たないであろう。社会の落伍者となるであろう。
 学校にもいささかの問題はあるかもしれないが、そのくらいは我慢する力をつけなければいけない。我慢して努力することがなによりも大切なことなのだ。そうでないと、その子は社会で生きていけなくなる。

 すべての先生が言うわけでもないし、言う先生でもこれだけいっぺんにまとめて言うわけではない。しかし、子どもの中にはこのような総計ができる。すくなくとも私は、学校でこのような教育哲学を刷り込まれた。どんなに学校がいやなときでも、恐怖におびえて学校に行った。

 この教育哲学は、学校に子どもを来させ続ける効果がある。しかし、もしも子どもが現実に学校に行けなくなった場合には、たいへんな事態を引き起こしてしまう。子どもは自分が世の中で生きていけないのだと思い、自分を責め続けて、奈落に落ちていくのである。

親もまた、この教育哲学を刷り込まれて育った。それで、自分の子どもの不登校に直面したとき、大きな恐怖と不安に襲われる。

 この教育哲学にはデータの裏づけがない。就学義務の法律がまずあって、子どもをどうしても来させるために生まれた教育哲学であろう。ようするに、子どもが休まないように大人が気軽に牽制球を投げているのである。
 この教育哲学は、生徒側にも信じ込まれた。つまらなくてつらい学校であっても、この教育哲学を信じれば、学校が意味のあるものになる。

不登校やホームスクールで育つ子どもたちが増えているので、学校に行かなくても子どもは育つということは幾多の事例が証明している。学校には多くの長所があるが、学校に行かないことは、社会的生存そのものまで危うくするものではない。脅しに訴えて吹き込んだことは、恐怖や固定観念になる。義務教育に関して、「なんとしても行かせなければ子どもが破滅する」ということが広く信じられている。

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不登校は『制度公害』(5)

 社会的問題になるほどの「不登校」が生じるのは日本だけです。 「不登校」の原因は、いじめでも学力不振でもありません。それだったら、世界中にあるのです。子どもと学校が合わないときに、日本には他の教育手段がないことが原因なのです。不登校は『制度公害』です。

学校しかない 

 ある不登校の女子中学生とその母親が、私の私塾に来ていた。その子は、どこかに居場所と仲間を探していた。

 その子は、髪を茶色に染めていたが、地味な服装をしていた。彼女は無表情だったし、ほとんど無言だった。初対面による緊張ということもあるだろう。しかし、彼女からは、人とつき合いを持っていくためのオーラのようなものが消えていた。人と人が出会うとき、お互いの見えない手のようなものが出てきて、関係を探るものだ。彼女からは、その見えない手のようなものが出てこない。

 このような不登校の子どもたちに、何人出会ったことだろう。

彼らは、生きていくためのもっとも大事なところが、かじかんでしまっていた。強い恐怖と不安にさらされ続けたに違いなかった。

 母親が、おおまかな状況を説明してくれた。その子は、中学一年の秋から学校に行けなくなったという。

 私は本人に「どうして学校に行かなくなったの?」を尋ねない。詮索する関係になりたくはない。それに、本人が行かなくなった原因を説明できるくらいなら、こんなに追い詰められはしないものだ。時がたつと、「実は学校でこういうことがあった」と、本人から話してくるものだ。

 目の前にいる女の子の事情がなんであるか私は知らない。しかし、その子は「居場所と友達がほしい」のだった。それだけ聞けば十分だった。仲間ができると、次の一歩もおのずと出てくるものだ。

 だが、現在の教育システムでは、不登校の子どもの「居場所と友達がほしい」に応えることがとても難しいのだ。

 その親子は、教育委員会が提供する「適応指導教室」にも行った。

 そうしたら、指導教室側は、彼女が髪を染めていることを問題にした。それを直せと。彼女は、教室を続けられなかった。適応指導教室は、中学校にどう適応させるかだけしか考えていなかった。

 私も、ある適応指導教室を見学させてもらったことがある。それは、ミニ中学であり、時間割と制服があり、学校の先生たちが教えていた。授業内容だけは、緩やかだった。こういうやり方がちょうど合っている子どもたちもいるだろうと思った。「自由でいいよ」と言われるより、時間や制服で形を作ってもらうほうが安定するのだ。しかし直感的に、それは少数派だろうな、と思った。その後統計資料を調べたら、適応指導教室を利用する生徒の数は、不登校のだいたい一割だった。適応指導教室にはほかのタイプもあるが、どのようなタイプであっても、それに合っているのは一部の者だけである。

 親子は、民間でなにか道はないかと探していた。

 私のフリースクールは手狭で、新規の生徒を受け入れられる状態ではなかった。心あたりのあるところが二、三あったが、どこもすでに閉鎖していた。民間のフリースクールの多くは、経済的事情の苦しいところが多い。閉じる場合に一番多い理由は、経済的な理由だ。草の根フリースクールは、場所とサポートの大人を確保する割に生徒数が少なく、場所代、光熱費、人件費を捻出するのがたいへんなのだ。

 私は、とりあえず、居場所を紹介してくれそうな団体を紹介した。そして、たくさんの人が不登校経由でちゃんと育っています、ということを言う。

「中学時代は、欲をかかず、とにかく生き延びることですよ。高校の年齢になると、ぐっと楽になって道が拓けてきますから」

 ほかを探そうにも、中学段階では教育を学校が独占して、ほかの教育が存在しない。高校年齢になると、義務教育ではないし、教育手段がけっこう複線化しているし、プレッシャーがなくなるので、生きやすくなるのである。そのうちに、本人がアルバイトを見つけたり、進学の道をつけたりしてなんとかなっていくものだ。

このような親子に、たくさん出会った。

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不登校は制度公害(4)

 大量の不登校という現象は、日本に特有のものです。決して世界的なものではありません。不登校は、制度の不備が多数の子どもを追い詰めている『制度公害』です。
 以下は、拙著「変えよう!日本の学校システム」 一 不登校は制度公害 からの引用です。

とことん追い詰められるメカニズム 

義務教育の小中学校に子どもが合わないと、その家庭はたいへんな思いをする。行けない、しかし行かせなくてはならないという、抜き差しならない状況になる。

「泣く子と地頭には勝てない」ということわざがあるが、不登校の子どもを持った親には、泣く子と地頭(就学義務)の両ほうがいる。どうにもならないのである。これは、学校の先生にしても、同じような状況である。

不登校は、怠けやわがままと捉えられやすい。子どもは、なぜ学校がいやなのかなかなか表現できないからである。しかし、子どもの様子を見ればわかる。明らかに、強い恐怖や不安に捉えられているのである。 

どのような団体であっても、そこに合わないケースは生じるものである。人間どうしがいっしょにいる以上、雰囲気にどうしてもなじめないということは生じるし、いじめや誤解や反目がなくなることはあり得ない。それは、人の世の常であろう。ましてや、子どものことである。与えられた教育方法にどうしても合わないことも起こる。 

そういうケースのために、その団体を離脱する自由と、ほかの道が柔軟に沸き起こるようにしておくのが、知恵というものだ。そうしないと、心身の重大な病気や、自殺に追い込まれるケースが頻発してくる。どんな会社でも役所でも、最後の最後は辞職するという手段がある。夫婦でも離婚という手段があるではないか。 

ところが、学校には離脱する自由がない。病気以外の理由で学校に行かないと、すなわち就学義務違反なのである。それで、不登校の子どもと親の立場がなくなってしまう。現在の日本の義務教育制度には、一本道しかない。その一本道を、子どもをほめたり脅したりで頑張らせて渡らせるだけなのだ。その綱はそう細いわけでもないが、落ちたらそれまでである。 

不登校が増えたので、学校に行かないことも現実的には容認されている。しかしそれは、「どうしようもない場合は、大目に見ます」と言っているだけである。そこで、学校に行かないことの不安感、罪悪感がいつもつきまとう。抑うつ状態に拍車をかける。 

不登校の子どもの立場は、離婚が罪悪であった時代の離婚女性の立場によく似ている。離婚した「出戻り」女性が、人間として欠陥があるように見なされ、実家で人目をしのんで生きるしかなかった時代がある。それと同じような状況なのである。 

日本の義務教育は、コースをはずれたときの安全装置を作ろうとしなかった。それどころか、「子どもたちが『今落ちこぼれてもかまわない』と考えたら、子どもたちが努力しなくなる」と発想したのである。これには、実際に落ちこぼれてしまう子はどうするのだ、という思慮が欠けていた。

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不登校は制度公害(3)

 不登校は、制度が不備であるために、自分に合った教育に出会えない子どもたちがたくさん生じ、学校に行かないことを非難され、追い詰められていったという現象です。不登校は『制度公害』です。
 以下は、拙著「変えよう!日本の学校システム」からの引用の続きです。


 教育方法が狭い

小学校低学年の例である。

ある母親が、人の紹介で、私のところに教育相談に来た。その人は、しばらく子どものことを説明すると、涙を流し始めた。息子は、小学校一年生の秋までで学校に行かなくなったのだ。息子は、顔にチックが出ていた。

母親が、なんとか学校に行かせようとした時期もある。そのため子どもは親の言うことに素直でなくなっていた。先生からは、「親離れができていない」と言われた。相談に行った公的機関のカウンセラーは、幼児期の育て方に問題を見つけた。

「私の育て方が悪かったんです」

 と母親は涙をぬぐう。カウンセラーに言われたことは、重く受け止めている。しかし、実際はどうしようもないのである。過去の原因を見つけたところで、タイムマシンで過去に飛んで解決できるわけではないのだから。 

このままだと将来はどうなることか、日々自分が子どもをダメにしているのではないかと、不安な毎日が続く。そのため息子にあたってしまうこともある。それで、また自責の念にかられる。

いっしょにやってきたその子は、隣の部屋で遊んでいた。工作が好きで、工作用紙をたちまち切ったり貼ったりしてなにかを組み立てていた。一人でよく遊ぶし、そうとうにクリエイティブだと母親が言った。よく行き来する友達もいるとのことだった。

 この子に、そう大きな問題があるわけでもない。障害と分類されるようなものを持っているわけではない。母親からの話を聞くと、かなり感受性の強い子だし、自分のやり方を通そうとする子でもあった。そのため、なにかのきっかけで担任の先生とこじれてしまったようであった。たぶん、学校にとっては、その子はなんらかの問題児であったろう。先生には先生のご苦労があったろう。しかし、それだけのことである。
 

学校と教育方法に合わなかっただけで、この親子がここまで追い詰められることはないだろう。親は、転校も考えたが、次の学校でも同じことになる可能性が大きいと考えた。

一方通行的な集団授業に対する反省は、世界中で起こっており、各種のオルタナティブ教育(画一的な教育の代替として第一次大戦後頃から起こってきた新しい教育法の総称。フリースクール、シュタイナー教育、モンテッソーリ教育などが有名)が存在している。それが、日本で解禁されていれば、ずいぶんと選択肢がひろがっていたろう。そこまで本格的な教育でなくても、とりあえず、親切な大人が接して信頼関係を作り、好きな工作でもやらせ、友達ができやすい環境を作るくらいだったら、私でもできる。 

ホームスクールが制度的に認められていれば、世間の目をしのぶような立場を余儀なくされなくても済む。

現在の学校だと、まず集団授業があり、それについていけるかいけないかの二者択一である。そして、現状の教育に合わないと、生徒または親の心理学上の問題にすぐに飛んでしまう。心理学上の問題がすぐに浮上するのは、教育方法のオプションが狭いということでもある。 

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道徳教育の無責任体制

道徳を教科にすることに反対です。

むかしむかし、ある国の王様が、すべての人をよい人にしようと思いました。
王様は、それは子どもたちの教育から始めなければならない思いました。王様は教育にくわしい学者たちを呼んで
「何を教えれば、よい人間になるのか」
と尋ねました。
学者たちは、頭を寄せ合って一生懸命に考えて
「自主、自立、自由と責任、向上心、個性の伸長、希望と勇気、相互理解、寛容、....」
とたくさんのよいことを言いました。
「どうやってそれを教えるのか」
そう王様は尋ねました。学者たちは
「それは私たちは知りません。私たちが知っているのは何を教えたらいいかだけです」
と言いました。

そこで王様は大臣に、
「どうやって、こどもたちによいことを教えたらいいのか」
と尋ねました。大臣は
「法律を作って、学校の先生たちに教えさせればいいのです」
と言いました。
「先生たちはどう教えたらいいのかね」
と王様が尋ねると、大臣は
「それは私も知りません。でも、法律で目標を決めて、あとは先生たちが工夫しなさいと言えばいいのです」
と言いました。

そこで王様は先生を呼んで
「どういう工夫をすればいいのかね」
と尋ねました。先生は
「そんな難しいことは、私は知りません。でも教科書を作ってもらえれば、その通りに教えることはできます」
と言いました。

それでその国がどうなったか、ですって?
子どもたちが大人の真似をして、みんなが「誰かさん任せ」にする国になったとさ。

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不登校は制度公害(2)

 不登校が小中学校で12万人も生じる現象は、個々の子どもと家庭の問題であると捉えている限り、解決しません。
 不登校は、制度が不備であるために、自分に合った教育に出会えない子どもたちがたくさん生じ、学校に行かないことを非難され、追い詰められていったという現象です。不登校は『制度公害』です。

 不登校を学校システムの問題として捉えるべきです。以下は、拙著「変えよう!日本の学校システム」からの引用の続きです。


制度が違う国では発生しない ── 続き

 もし、アメリカやヨーロッパで、日本の不登校問題と同様のことが起こったらどうなるだろうか。
 たちまち、民間に新しい学校がたくさんできて、子どもたちを吸収していくだろう。家庭で子どもを育てる親も増えるだろう。新しい教育運動がたくさん起こるだろう。公立学校の改革運動も起こるだろう。学校に行けない子どものためには、サポート体制ができるだろう。学校や教育行政が十分な教育を提供しない、と訴訟が頻発するであろう。

 現実に、このような柔軟な動きがすぐに起こるから、アメリカやヨーロッパでは、問題が小さいうちに解決されていくのである。

 日本では、不登校を、学校に適応できない子どもたちがいる、としか捉えられなかった。子どもたちをなんとか学校に適応させようとした。だから、不登校問題は解決不能な問題になってしまった。

 そんなことを話してから、私は言った。

「私は、不登校問題は制度公害だってよく言うんです。自分に合った教育を提供されないまま、学校に行くことを強制され、行かないことを陰に陽に非難され、追い詰められた子どもたちがたくさん出たんです。新しい教育が柔軟に生まれてくる構造がないんです。これは、制度の問題なんです」

 おびただしい数のこどもたちと家族が、学校に行けないことがもとで深刻な抑うつ状態になった。


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道徳の教科化に反対

道徳の教科化がなされそうです。
反対です。偽善を助長するだけです。
それより、学校がしている不道徳を改めてほしい。

子どもを点数稼ぎの世界に投げ込んで競わせるのが、たいへんな不道徳です。
命令して点数をつけて、ご褒美を出したり罰を与えたり。
これなんですよ。モノの見えない人間を大量生産しているのは。

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