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2013年11月

教育委員会の歴史(5) なぜ文部省は解体されなかったのか

 日本の教育委員会の歴史について、途中で止まっていました。申し訳ありませんでした。

 健康問題でした。
 じつは、心臓の手術を受けて、退院してきたところです。

 今療養中の身ですが、おかげさまで、日常業務から離れて書き物に専念できます。教育委員会の歴史について続けます。

なぜ文部省は解体されなかったのか

 アメリカが日本を占領したとき、すでに軍国主義一掃の方策はまとまっていて、解体すべき省庁のリストはできていた。内務省、文部省は、とうぜん、そのリストに載っている。内務省は秘密警察権力の元締め、文部省は軍国主義教育の元締めなのだから、眼をつけられるのは当然のことであろう。

 じっさいに、内務省は解体されてしまった。しかし、文部省は解体されなかった。

 この経緯はまことに興味深い。

 文部省が存続したことは、戦後教育行政の大きな分岐点の一つであり、その後への影響は大きい。このとき文部省がいったん解体されていたら、その後の流れは大きく違っていたであろう、とある文部官僚は述懐する。
 文部省が解体されなかった理由は、文部省がどのような官庁であるかを、よく示すものだと思う。文部省が解体されなかった理由を詳しく追ってみよう。

 1945年の終戦を迎え、文部省の方針転換は早かった。この最大の理由は、1945年8月18日、(終戦の3日後)東久邇内閣の文部大臣に就任した前田多門の政策にある。前田は、内務省から東京市助役、朝日新聞論説委員、ニューヨークの日本文化会館館長、という経歴の持ち主で、国際感覚と行政手腕を併せ持った人間である。

 前田文相は、いち早く、文化日本の建設を打ち出し、軍国主義の払拭にとりかかる。国際感覚を持つ前田にとっては、念願のチャンスが巡ってきたものである。
 前田文相はさっそく人事に手を付ける。文部省の局長クラスに田中耕太郎(東大教授)、関口泰(朝日新聞論説委員)、山崎匡輔(東大教授)という人たちを招聘して、文部省の指導層を一気に改革派に入れ替えた。こんな緊急時だからできたことである。

 とりあえず教科書にスミを塗らせたのもこのときの改革である。スミ塗り教科書はアメリカの指示によるとされることもあるが、そうではない。日本側の自主的な転換政策である。スミ塗り教科書はいかにも下策であるが、紙の手配もつかない状況では、やむを得なかったであろう。

 アメリカ側に占領行政の態勢ができて、教育における軍国主義一掃の指示が出てくるのは10月になってからである。
 その指示が出る前に、文部省は軍国主義一掃の基本的な方針転換を終えていた。

 アメリカ側は、文部省の転換を「改革の先手を打って、存続しようとする戦略だろう」と疑っている。しかし、その見方は違っている。前田は時代がよく見えている人間で、戦争が終わったのだから一刻も早く軍国主義を脱却しなければならない、という当たり前を実行していただけである。

 しかしながら、この前田改革のおかげで、結果的に文部省は「改革の先手を打って、存続する」ことが可能になった。従来の感覚で、アメリカ側の指示に抵抗しながら不承不承従っていたりしたら、あっけなくバッサリと切られたであろう。

 アメリカ側にしても事情がある。文部省を切りたくても、教育は、間接統治するしかないのである。占領軍が、学校を直接統治するなど不可能である。全国の学校に兵士を送り込み、銃を剥き出しにしたりすれば、抵抗運動に火をつけるようなものである。ましては、言語の壁がある。学校の教師たちがなにを教えようが、アメリカ人たちにはさっぱりわからないのである。全国5万に近い学校、40万人の教員、1600万人の生徒、これが反米抵抗運動の温床になったりするのはアメリカの悪夢である。

 軍隊や財閥は、解体すればそれでコトが済む。しかし、教育は解体してそれっきりというわけにはいかない。文部省を解体するなら、替わりの教育行政組織を作り出さなければならなくなる。

 実際にとられた政策は、文部省という中央省庁を分割したり、他の中央省庁に置き換えるというやり方ではなかった。教育を中央集権から、地方自治に転換するという方式をとった。この地方自治組織がすなわち教育委員会なのである。

 そのため、文部省の廃止は絶対に必要というものではなくなった。中央に文部省、地方に教育委員会と平行して別組織が存在することが可能であった。文部省は、権限縮小だけで済ませることができた。

 これが内務省の場合だと、建設省、厚生省、自治省などに分割したあとにも内務省が残るということはあり得ない。しかし、教育の場合は、地方分権にするという方針をとったために、アメリカ側は、文部省を実権のない援助機関とすることで足りるとしたのである。

 教育委員会はたいへんな難産で、なかなかすんなりと生まれなかった。生まれても当面は文部省に後見させないとやっていけないものだった。

 教育において、形式上は教育委員会が主役だが、実質的には文部省が教育の指揮を取っているという体制が、このときにできる。昭和23(1948)年のことである。

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