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教育委員会の歴史(4) 戦前の視学制度

 戦前の教育行政は、一般行政と分離していなかった。国の方針が、教育内容にそのまま反映していた。

 教育内容は、国定教科書によって定められていたが、もう一つ教育内容を統制するものとして視学制度があった。視学は、学校を巡回して学校の様子や授業を視察する役職であるが、教員人事にも発言力を持っていた。

 ある教員の体験記がよく実情を伝えているので、引用する。
 「ある教師の昭和史」 荻野末著 一橋書房 1970

<人事は「新聞辞令」>

 他校への転任については、これはその作業を視学官がすることで、「新聞辞令」が普通でありました。朝おきて新聞をみたら、自分はふっとばされていたというわけです。

 わたしは、新聞販売所の近くに住んでいたことがありますが、三月三十一目の夜になりますと、自分のつとめている学校ばかりでなく他校の教師もあつまって、終電車で朝刊のくるのを待っていたものです。
 はじめは、どこへとばされようとも、などと気炎をあげていた連中も、時刻が迫るにつれてひっそりとしていきました。

 終電車がつくと、いちはやく新聞販売所にとび、「新聞辞令」をみてホッとしたり、あるいは「こんちくしょう」「バカたれ校長め」と、くやしがりました。くやしがり悲しんでいるものがあったとしても、それをはねかえす連帯も組織もありませんでした。弱い者は泣きねいりをし、強いものも、せいぜい歓送迎会などで酒の力をかり、校長に毒舌を吐くぐらいのものでありました。

 その校長も、いわゆる大物はとにかく、おおかたの校長にいたっては、やっぱり新聞辞令組であったわけです、この元凶は視学官であったわけですが、じつはこの視学官を左右に動かすのは、上級官僚であり、ボス的在在の大物校長もそれぞれの地区にいて、「大御所」といわれ、校長や教頭になるにはこのせまき門を通過しなければならなかったし、視学官も、この「大御所」の意見をきかずには、だれかを校長にも教頭にもできなかったようです。(「ある教師の昭和史」 36~37頁)

<視学の来校>

 ある日、突然、視学がやってきました。
 校長は、茶をいれ、学校経営について概略説明して視学をすわらせ、間をとる──このわずかな間の時間に「視学来校」の小さなメモが小使さんによって各級へとぶ。こういうことは、視学来校のときはいつも同様でありました。

 …この日は、どういうわけか説明なしにわたしをよんで、「研究授業をやれ」ということでした。こういう場合は、校長か教頭に抜擢するための首実験か、思想や行動調査の一つとして、あるいはいじめる一手段としておこなわれるのがつねでした。

 わたしは、研究授業をやれと高飛車にいう視学に抗議することもならず、地理の授業をしました。題目は「アジア」、学級は六年生。

 (中略) 授業も、こういうところにくると、実際には子どもの理解はあいまいになってくるのですが、しかし、子どもたちとしては「なんとなく」うなずいてみせることが、ひとつの習慣となって、いかにも「帰一し奉る」雰囲気となるわけです。

 校長室でお茶をのんでいる視学に、おそるおそる「ありがとうございました」とあたまをさげると、「やあ、ご苦労、国民科としての統合、国民精神をもった統一した授業であった」と、たいへんごきげんで、賞賛されたことをおぼえています。

 この日は、さらに恥しい経験をさせられました。教室でつぎの授業をはじめているわたしを、校長は廊下によびだして、小豆をみつけてきてくれとたのみました。
 こういう視察のあった場合、米などの食料を「おみやげ」としてもたせることが校長としての常識となっていて、なかには、米がほしいなどと要求するものもあることが、一般的にしられていました。わたしは自転車であちこちの農家を走りまわらなければなりませんでした。(同書 46~48頁)

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