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2013年7月

教育委員会の歴史 番外編

 教育の歴史を調べていて、つくづく思うことがある。

 「何を教えるか」より、「ほんとうに子どもの感受性と観察力を尊重したのか」がはるかに重要であると。

 日本の戦前の教育は、小学生のときから「忠君愛国」を叩き込んでいた。それでさぞかし私心のない人たちが社会にあふれただろう、と思うと、とんでもない。「お国のため」をカサに着て威張りちらす人たちと、卑屈に権力者に迎合する人たちが、社会にあふれた。

 日本は無茶な戦争をやったあげく、1945年の敗戦を迎えた。日本人は「天皇陛下万歳」を叫んでいたから、アメリカに占領されても、激しい抵抗運動が起こる可能性はあった。そうしたら、あっさりと「マッカーサー万歳」を叫んだ。
 シベリアに抑留されていた人たちは、「スターリン元帥万歳」を叫んだ。

 アメリカやソ連がうまく日本人を支配したとも言える。しかし、権力に対して従順な日本人が育っていたから、うまくつけ込むことができたのである。
 なんのことはない、戦前の義務教育は、強い者に迎合することを教えこんでいただけのことである。

 戦後日本教育の最大の悲劇は、東西冷戦に巻き込まれて、文部省vs教員組合の対立を起こしたことだと思う。このときの国家側も教員組合側も、言うことが教条的だと思う。
 なんのことはない、戦前の教育は、党派的な結論を振りかざすことしかできない人たちを育てていたのである。その教育を受けていた人たちが、戦後に闘いを繰り広げた。 

 西欧の学校教育史は、教会と国家が教育権を奪い合った歴史である。どちらも相手の欠点はよく捉えている。
 「神」を敬うことを子どものときから叩き込んだらさぞかし敬虔で利己心のない人たちが育つかと思うと、「神」を持ち出してすべてを解決しようとし、宗教戦争を起こす人たちが育つのである。
 「国家」への忠誠心をもった人たちを育てれば、社会がさぞ良くなると思うと、国家権力に依存し、偏狭なナショナリズムを煽る人たちが現れるのである。

 教会だろうが国家だろうが、忠誠心を養成しようとする教育は、社会にとって破壊的である。

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教育委員会の歴史(4) 戦前の視学制度

 戦前の教育行政は、一般行政と分離していなかった。国の方針が、教育内容にそのまま反映していた。

 教育内容は、国定教科書によって定められていたが、もう一つ教育内容を統制するものとして視学制度があった。視学は、学校を巡回して学校の様子や授業を視察する役職であるが、教員人事にも発言力を持っていた。

 ある教員の体験記がよく実情を伝えているので、引用する。
 「ある教師の昭和史」 荻野末著 一橋書房 1970

<人事は「新聞辞令」>

 他校への転任については、これはその作業を視学官がすることで、「新聞辞令」が普通でありました。朝おきて新聞をみたら、自分はふっとばされていたというわけです。

 わたしは、新聞販売所の近くに住んでいたことがありますが、三月三十一目の夜になりますと、自分のつとめている学校ばかりでなく他校の教師もあつまって、終電車で朝刊のくるのを待っていたものです。
 はじめは、どこへとばされようとも、などと気炎をあげていた連中も、時刻が迫るにつれてひっそりとしていきました。

 終電車がつくと、いちはやく新聞販売所にとび、「新聞辞令」をみてホッとしたり、あるいは「こんちくしょう」「バカたれ校長め」と、くやしがりました。くやしがり悲しんでいるものがあったとしても、それをはねかえす連帯も組織もありませんでした。弱い者は泣きねいりをし、強いものも、せいぜい歓送迎会などで酒の力をかり、校長に毒舌を吐くぐらいのものでありました。

 その校長も、いわゆる大物はとにかく、おおかたの校長にいたっては、やっぱり新聞辞令組であったわけです、この元凶は視学官であったわけですが、じつはこの視学官を左右に動かすのは、上級官僚であり、ボス的在在の大物校長もそれぞれの地区にいて、「大御所」といわれ、校長や教頭になるにはこのせまき門を通過しなければならなかったし、視学官も、この「大御所」の意見をきかずには、だれかを校長にも教頭にもできなかったようです。(「ある教師の昭和史」 36~37頁)

<視学の来校>

 ある日、突然、視学がやってきました。
 校長は、茶をいれ、学校経営について概略説明して視学をすわらせ、間をとる──このわずかな間の時間に「視学来校」の小さなメモが小使さんによって各級へとぶ。こういうことは、視学来校のときはいつも同様でありました。

 …この日は、どういうわけか説明なしにわたしをよんで、「研究授業をやれ」ということでした。こういう場合は、校長か教頭に抜擢するための首実験か、思想や行動調査の一つとして、あるいはいじめる一手段としておこなわれるのがつねでした。

 わたしは、研究授業をやれと高飛車にいう視学に抗議することもならず、地理の授業をしました。題目は「アジア」、学級は六年生。

 (中略) 授業も、こういうところにくると、実際には子どもの理解はあいまいになってくるのですが、しかし、子どもたちとしては「なんとなく」うなずいてみせることが、ひとつの習慣となって、いかにも「帰一し奉る」雰囲気となるわけです。

 校長室でお茶をのんでいる視学に、おそるおそる「ありがとうございました」とあたまをさげると、「やあ、ご苦労、国民科としての統合、国民精神をもった統一した授業であった」と、たいへんごきげんで、賞賛されたことをおぼえています。

 この日は、さらに恥しい経験をさせられました。教室でつぎの授業をはじめているわたしを、校長は廊下によびだして、小豆をみつけてきてくれとたのみました。
 こういう視察のあった場合、米などの食料を「おみやげ」としてもたせることが校長としての常識となっていて、なかには、米がほしいなどと要求するものもあることが、一般的にしられていました。わたしは自転車であちこちの農家を走りまわらなければなりませんでした。(同書 46~48頁)

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教育委員会の歴史(3) 戦前の教育行政

 日本の教育委員会は、1948年に、アメリカの教育委員会制度を模倣してできました。制度の形式はよく似ています。しかし、その中身はまったく違っています。

 単純な言い方をすれば、アメリカの教育委員会は住民による自治組織であり、日本の教育委員会は政府の教育施策に沿って学校を管理する組織なのです。

 教育委員会の管轄する日本の学校システムは、全国に一律の水準の教育を普及させ、日本の高度経済成長を支えることに役立ちました。
 しかし、このシステムは、現場の当事者からのフィードバックが満足に行われない、という大問題を抱えています。さまざまな教育問題を自律的に発見し解決する能力に乏しいのです。

 教育委員会は、建前としては、地方自治のためにあります。しかし、それが機能していません。なぜそうなるのか。それが、私が教育委員会の研究を始めた大きな理由です。

 戦前の教育行政との比較から始めます。

*****************************

 戦前の義務教育学校の指揮系統は次のようなものだった。

  内務省
       >→ 道府県 → 市町村 → 学校
  文部省

 ここでの注目点は、学校も一般行政の中に組み入れられていることである。

 頂点の一つに内務省が現れているのを、不思議に思われるかもしれない。これは、戦前は地方自治がなくて、地方は内務省が指揮していたためである。学校は市町村が直接に作って運営していた。
 その市町村の総元締めが内務省だから、内務省は学校に対しても、大きな権限を持つのである。

 内務省は、現在の、国土交通省、厚生労働省、総務省、警察を全部いっしょにしたような官庁で、権限は絶大である。県の学務課長は、内務省から派遣された若いキャリア官僚であり、彼らには校長たちも頭が上がらない。

 戦前だって気骨のある校長たちはいたろうに、なぜ若いキャリア官僚の前に這いつくばるのか、と思われるかもしれない。その理由は、県の学務課長は、教育全般を監督していて、人事と予算に容喙できることにある。気骨のある校長でも、学務課長に睨まれれば自分の学校運営はできないし、トバされてしまえばそれで終わりなのである。

 文部省は、主に教育内容にたずさわっている官庁で、内務省に比べれば権限が小さい。文部官僚の半数は、内務省からの出向だった。

 この仕組みだと、国の政策遂行と教育が一体化する。日本で軍国主義教育が容易に行われたのも、政治が教育を指揮していたためである。その反省が、教育委員会の導入につながる。

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教育委員会の歴史(2) 広義と狭義の教育委員会

 教育委員会。

 いったい、なんでしょう。わかりにくいですね。「行政委員会」という、政治の手が及ばないようにしてある行政機関なのだ、ということは前回述べました。

 さらにわかりにくくしている理由に、「教育委員会」という言葉が指し示す組織が二つあることがあります。それについて解説します。

****************************************

 「教育委員会」という言葉に、二つの意味がある。

 狭い意味では、数名からなる教育委員の合議体のことをいう。この合議体が、教育委員会の最高決定機関である。

 教育委員の合議体の下に、教育委員会事務局がある。地方の学校教育と、社会教育を管轄している。
 教育委員会は、公立学校の管理がもっとも大きな仕事であるが、他に図書館、博物館、スポーツ施設などの管理もしている。そのため、多数の常勤職員のいる事務局を持っている。この事務局を含めた機関が、広義の「教育委員会」である。

  ┌────── 教育委員会(広義) ───────┐
  │ ┌──────────┐              │
  │ │ 教育委員会      │ 教育委員会事務局  │
  │ │ (狭義)          │              │
  │ └──────────┘              │
  └──────────────────────┘

 事務局の長が、教育長である。教育長は常勤であり、その自治体の教育部門の実質的な責任者である。教育長は教育委員の一人である。

 おおざっぱに言えば、自治体の学校教育と社会教育を管理する部門が「教育委員会」と呼ばれていると考えればよい。 教育委員は、教育長を除いて非常勤である。教育委員の合議は、月1~2回程度行われることがふつうである。

 なぜ、このような組織形態を取っているのか、その歴史的経過はどのようなものなのか、現在どのような役割を果たし、どのような問題を抱えているのか、それを明らかにしていきたい。

 これから本稿では特に断らないかぎり、「教育委員会」は事務局を含んだ広義の意味で使うことにする。

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教育委員会の歴史(1) 行政委員会

 教育委員会は存廃も含めて、議論がなされています。

 日本の教育委員会について、広い視野から正確な資料を提供したく、拙著「変えよう!日本の学校システム」(平凡社 2006)から、教育委員会について書いた部分を、多少の補足をしつつ公開します。

********************

 教育委員会は、なんのためにあるのかわかりにくい組織である。ところが、この教育委員会がなぜ存在するのか、どのように機能しているのかを見ていくと、日本の教育の姿が浮き彫りになってくる。

 まず、教育委員会のことを簡単に見てみよう。「委員会」と名前がついているが、教育委員会は審議会のようなものではない。実態は、地方自治体の公教育と社会教育を管理している部門である。

 教育は、知事や市長が指揮できる一般行政とは分離させて、行政委員会の形にしてある。
 行政委員会というのは「独立性の高い合議制の行政組織」である。教育委員会に対して、知事も市長も指揮できない。

 教育が時の政治に左右されてはいけない。教育方針が政党や首長の色に染まってはまずい。そのため、地方行政から教育部門が独立し、教育委員の合議で運営されているのである。
 教育委員を政治的圧力から守るため、教育委員は任期の途中で罷免されないようにしてある。教育委員の下に事務局があり、教員人事、就学事務などの仕事をしている。

 行政委員会をなぜ作るかというと、「政治家の手が及ばないようにしたい」からである。このことは、日本に実際に存在している行政委員会の例を見るとわかりやすい。

 公正取引委員会。独占禁止法を運用している。これが、政党の手の及ぶものだったら、たちまち利権の巣窟になるであろう。

 労働委員会。労働者と使用者の粉争の調停にあたっているところ。ここは中立であることに細心の注意を払わないと、機能しない。

 選挙管理委員会。選挙運営に政治家が介入したら公正が保てない。中立の人たちが、政治の手の及ぽない組織を作って、選挙の運営をする。

 そして、教育の分野にも教育委員会という行政委員会を作っている。やはり、教育を政治から切り離すためである。

 教育委員会は、それぞれの都道府県にある。また、それぞれの市区町村にもある。仕事は、公立学校の管理運営と、社会教育、文化財の保護などである。

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ソ連を怖がったため、ソ連と同じになってしまった体制(2)

 前回の続きです。なぜ、日本の教育は民意反映システムを作っていないのか、についてです。

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 戦後の社会システム作りに大きな影響を及ぼした自由民主党は、自他ともに認める反社会主義の政党であった。自民党は、経済・文化活動の自由、言論の自由、多党制民主主義の原則に立って、社会システム作りをしている。

 ところが教育に関しては、とんでもないシステムを作った。教育システムには、民主主義原則が存在していないのである。文科大臣から一教員にいたるどこにも、民意によって任命される役職が存在していないのである。

 どうして自民党は、こんな社会主義国と同じような体制を作ったのだろうか。

 具体的に2点あると思う。一つは、自民党に、教育の国家管理が必要であるという人たちが多かったことである。もう一つは「学校が、左翼思想を吹き込むことに使われる」ことをたいへんに警戒していた。

 教員組合を封じ込めることが、自民党にとっての大きな政治課題であった。そのため、自民党はあまりに無原則なことをした。教員の発言権を削ぎ、教育の地方自治を侵し、保護者・住民の発言権を奪ったのである。

 これは、教育に問題があったときの自律的回復能力を奪ったに等しい。

 それをやったのが「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(昭和31年)という法律である。この法律ができたときに、半世紀後の教育崩壊が決まったようなものだと思う。

「これでは、民意反映システムのない社会主義国と同じ仕組みになってしまう」という発想が、この法律を作った人たちになかった。

 日教組憎しで、ここまでやってしまうのである。
 人は、自分の持つ欠点に気付いていないと、同じ欠点を持つ人や団体を嫌悪し怖がるものだ。

 国家主義教育をやりたかった自民党は、社会主義国の国家主義教育がたまらないものに見えるのである。
 ソ連のような”洗脳教育”を怖れるなら、民意反映システムと教育選択の自由を教育に作るべきだったはずだ。ところが、自民党は「教育の中立性を守る」ために、国が教育を監督するシステムを作ったのである。

 それは、ソ連を怖がったために、ソ連と同じになってしまった体制である。

 それはまた、屈折した権力欲の現れでもある。「あんな悪い奴がいるから、私がコントロールするしかない」は、子どもを支配する親から、会社の派閥闘争、国家の国民統制にいたるまで、権力欲を自覚できない権力者の自己欺瞞なのである。

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