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2013年2月

「自信がない」こと

 20歳くらいのときだった。
 理系の大学生だったが、自分のしたいことがわからなかった。そのうち、自分がほんとうに情熱を燃やせるのは、人間と社会がいったいどうなっているかなのだと思った。
 語られる言葉がすべて、ほんとうのことを映しだしていないと感じられた。言葉にすることで抜け落ちていくものがたくさんあった。その抜け落ちるものの中に、自分の生があった。でも、それを表現することも、伝えることもできなかった。
 無駄だと知りつつ、たくさんの書物を読んだ。

 実際に生きてみるしかないと思った。
 いちおう社会人になった。「ああはなりたくない」というものをたくさん見た。権力欲、追従、猜疑心、ゴシップ、.....。そして、自分がまたそれになってしまうのだった。それに反抗しても、また別の独善性に落ち込むのだった。
 自由に生きたかった。人間の根本にかかわらないとだめだ。自分に抜け落ちたものは、自分の受けた教育にも大きな問題があると思った。いつのまにか、教育関係に手を出していた。

 現実の中で転げ回っていると、なんとかはなるものだ。
 とくに、子どもと戯れること。子どもの感覚がわかってくると、人間の本質的な部分が感じ取れてくる。人間を実際に動かしているさまざまな力、それと言語の関係。それが見えるには、まだ言語の中に入り込んでいない子どもたちと関係を持っていることが重要なのだ。子どもたちがいなかったら、われわれの社会は、とてつもなく偽善的で独善的なものになってしまうと思う。

 けさ、目を覚まして静けさの中で物音や感情に注意を澄ませていたら、自分に自信のない感じそのものが、意識に上がっていた。主に、背中から肩・首を中心とした緊張と、呼吸の浅さ。それに伴うあるいたたまれなさ。そのとき、条件反射的に湧き起こるけっこうな言葉の数々。

 それが「自信のなさ」そのものなのだ。
 私が言葉ばかり紡ぎ出すことそのものが、自信のなさなのだ。その自信のなさが、立派な言葉を集め、その言葉が自分だと思い込む。それがいわゆる「自我」である。その自我が、マッチ売りの少女みたいに、ささやかな暖を取っている。でも、このやり方では、いずれ凍死するのである。

 現代の教育問題の最大のものは、この「自信のなさ」だと思う。原因は、教育と躾が、子どもの感覚と感情を忘れて、目に見える達成を求めるためである。

 自信というのは、自分の感覚に根ざせるかどうかなのだ。総合的なものだ。自信がないと、子どもたちは、同調過多になるか、独善的になる。自分を慰撫するために知性を使うようになり、物事が見えなくなる。
 でも、現代の教育は、これを知識や技術の伝達で解決しようとする。解決するはずがない。もっと、感覚と感情を大事にしないと、人間が断片化してしまう。
 人間として生きている身体感覚と感情から、子どもたちを切り離してしまうこと。それはとてつもない過ちだと思う。

 受験勉強的な机と書物での学習は、20歳を過ぎてからやることだと思う。学位論文を書くとか、弁護士になりたい人が法律の勉強をするとか。そういうタイプの勉強は20歳を過ぎてからがやりどころだと思う。それまでに、もっともっと大事なことがある。子供時代でないとできないこと。全身全霊をあげて、遊びとも学びともつかないことをすること。
 その話し自体は、けっこう通じると思う。ところが、「でも現実は」、誰も学校を変えようがないしくみになっている。それは、官僚機構が、学校の上に乗って指揮しているからだ。学校を教師と親と子どもたちの手に取り戻すことだ。
 子どもと接していない人たちに、教育の舵取りをさせてはいけない。どうしても抽象的になって子どもを見逃す。

 教育は、生きる営みそのものであり、文化現象そのものなのだ。学術や芸術に認められている自由を、教育にも与えよ。

 と、これが「変えよう!日本の学校システム」という本を書き、このブログを始めた理由だ、というところにたどり着くのである。

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