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2013年1月

智恵の源

 人間の中に、自分の安全を図るために、手段の限りを尽くしている中枢があります。
 目立とうとしたり、隠れようとしたり、自分を良くみせたり、他人を責め立てたり・・・・、とこの中枢は動物的な狡猾さを持っています。

 ほんとうは、この中枢が、生きる力と智恵のエンジン部分を担っているのです。

 でも、同調の強制や、能力競争の中で、この中枢は表に出ることができなくて、すっかり動物的次元に退化しています。それで、われわれはお互いに、ごまかしや、逃避や、権力欲や、攻撃性に悩まされるのであります。

 この中枢がちゃんと育てば、いつも全状況を判断して、愛と智恵をわき出させてくれるようになります。

 それには、脅しや、賞罰や、競争に訴える教育をしないこと。
 大事な、大事なエネルギーが、自己保存の動物的狡猾さに退化してしまうからです。

 もし、自分の中の怯えているものが、いかに動物的狡猾さを発揮しているか、非難も理論付けもなく認知できたら、慈愛の想いが自然に湧いてきます。その慈愛が、自分にも他人にも、広々とした空間を作っていくのです。
 そのとき、動物的な狡猾さだった中枢は、恐怖への反射的行動に限定されなくなり、考えと気持ちと行動を調和させる大広間のようなものになっています。

 子どもを理解しましょう。
 自分を理解することから子どもの理解に向かうこともできますし、子どもを理解することから、自分を理解することもできます。

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いじめが発生しやすいところ

 黒沢明監督の映画「どですかでん」(原作山本周五郎「季節のない街」)に、女房の尻に敷かれてこき使われているみじめな亭主が登場する。あまりのことに、他人がその女房の批判をする。そうしたらその亭主が、「よくもうちのカアちゃんの悪口を言ったな」と剣幕を変えて怒るのである。

 人間て、不思議なものだ。こんなことがよくおこる。

 「共依存」という現象がある。ある人間関係に囚われ逃げられない者を言う。夫に暴力を振るわれ続けているのに逃げ出そうとしない妻。親の価値観に囚われて自立できない子どもなどいる。
 なんで逃げないの、と他人からは思うのだが、その人間関係にあまりに深く入り込んでいてその関係でだけ自分が存在しているので、逃げることなど思いもよらないのである。あまりに深く自尊心を壊されると、相手の価値観の中でだけ生きるようになる。

 学校でのいじめで、この関係が発生していることがよくある。被害者が、いじめられていることを訴えることもしないし、逃げ出すこともしない。それで自殺が起こったりする。

 学校と生徒の関係に共依存的なものがよくある。教師が権力に訴えるほどに、生徒を侮辱するほどに、生徒が教師にしがみつくのである。生徒が、自分が能なしで邪悪であることを受け容れ、だから学校と先生なしでは生きられないと信じる。そうすると、けっこう管理しやすくなる。
 そのかわり、集団が荒れて、雑草のようにいじめがはびこるのだが、それが「管理教育」の結果であることに、教師たちが気付かない。

 人間としてあんまりだとういうことをされたら、訴えることができる。自分の身の周りに泣き寝入りを許さない。これを現在の社会の法律と司法制度が保障しているし、常識にもなっている。
 しかし学校は「よい先生、よい生徒」で人間関係の問題を解決しようとする。司法手続きが整備されていなくて、領主時代と同じ構造になっている。すべてがそうだというわけではないが、問題をはやいうちに見つけて自律的に解決する能力に乏しい。とくに中学で問題が大きい。

 そうすると、泣き寝入りが多くなる。
 正義が存在することが信じられなくなり、誰についたらよいか、誰の価値観に合わせたらよいかの力関係で生きるしかなくなる。
 それで、奇形的な依存関係がたくさんできてしまうのである。

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