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2012年11月

個性を失うということ

 不登校の子どもに、「どうして学校にいかなくなったの」と尋ねても、答えなど返ってきません。

 お勉強がまったくわからなくなった子どもに、「どこがわからないの」と尋ねても、答えなど返ってきません。

 心がかじかんでしまうと、なんの言葉も浮かばなくなる、なにが自分の気持ちかもわからなくなる。

 個性を失うということは、単に行動や思考を他者に合わせていることではありません。他者の言葉に出会うと、それが自分の内面で圧倒的な力を持ってしまうことなのです。

 個性を失うということは、目上の者や権威者の言葉がみんな正しいと感じられてしまうことです。
 どこかで、強者に圧倒されてしまったのです。

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生きるアート

 秋の日差しが窓に差し込んでいます。カーペットに光の模様ができています。

 ヒヨドリがピーピー鳴いています。壁に掛けた時計が、かちかちいっています。

 疲れを貯めていたので昨日たっぷり休養し、整体にもいきました。きょうは身体が穏やかです。

 それから、「やらねばならないあれやこれや」を想い出しました。それで頭をいっぱいにしてそこから一日の行動を組み立てそうになります。
 でも...。ああ、ここに住みたいのではないのだよ。
 考えがいつも中心にあって、すべてを説明し、方式をいつも蓄積し、命令を出している状態。
 そこが、不幸の元なんだよ。

 考えは、生きることにとって大事なパーツの一つです。
 でも、パーツの一つにすぎないものにしがみつくから、人間が考えの奴隷になります。さまざまな教条主義が発生します。

 人間がそうだから、人間関係のすみずみで、たくさんの無理解と強引さが発生する。それが社会構造になっていく。社会問題が限りなく発生する。

 そうではなく、「生きるアート」とでもいうようなものがあります。あたりの事物の刻一刻の移り変わり、身体の声、さまざまに移り変わる感情、事実を的確に映す思考、他人の言うことの傾聴......、それらすべてが大事なものです。生きることは、そういうものがパーツとなって、一つのメロディーになり、祝祭になっていくものです。

 考えで自分や他人を支配することを訓練している教育は、人間と社会を不幸にしています。

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教育委員会について本気で考える

 8月29日に、シンクタンク構想日本が主催する「JIフォーラム 教育委員会について本気で考える」にパネリストの一人として参加しました。

 構想日本代表の加藤秀樹氏が司会役で、パネリストの「教育委員会廃止論」の元志木市長穂坂邦夫氏、事業仕分けで活躍中の元教育委員会職員新倉聡氏、といっしょに言いたい放題を言ってきました。
 言いたい放題、といっても、よくあるように悪口を並べたわけではないんです。登壇した4人とも、事実に基づいてしゃべったことだけが通じるということを知っている人間で、何が問題であるか客観的に指摘しているんです。

 議事録が公開されています。読んでいただけるとありがたいです。日本の教育がいかに教育行政に制約されているかに関心のある方たちには、たいへん役に立ちます。

 加藤さんがはじめに、
「今日来ていただいた古山さんの言葉ですが、教育問題の本質は『中央集権型無責任体制』というのが、一言で表したわかりやすい言葉だと思います。」
と拙著『変えよう!日本の学校システム』の内容を紹介してくれました。

 そうなんです。
 昭和30年代から、文部省(当時)が実権を持ちつつ、形式的には教育委員会が責任者という『文部省院政体制』だったんです。そのため、ほんとうの責任者が誰なのかわからない。問題があったときにどこが責任を持って解決にあたるのか、わからない。
 現在、地方分権が少し進んだのですが、基本構造は昭和30年代のままです。

 時代は、もう、「教育」から「学び」に転換しつつあります。国が「~を教えなければいけない」なんて行政を通じて指揮しているような時代じゃなくて、一人一人がのほんとうに自分の学びに出会えたかどうかなんです。「教育」は、文化や技術の領域のものでして、内容は人々に任せるべきなんです。

 ついでだけど、私は大阪の橋下改革みたいな、別の権力で教育を監視するのには反対です。教育の本質は自治にあります。自分たちで問題を見つけて、自分たちで解決を考える。そうしないと、考える人間が育ちません。
 児童・生徒、教員、保護者、この三者が学校運営に参加する。行政は、その調整役に退く。それが学校のあるべき姿だと思います。

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思考と身体

 整体法を教えている方に、「力の抜き方」を教わった。理論ではなく、体験講座である。

 これは、「脱力」とは違う。身体は普通に機能する状態のまま、余分な力が抜ける。「力み」が抜ける、という表現が近いかもしれない。

 そうしたら、身体を動かすのが楽しい。受講者同士で手を振り回してもらうと、自分の手が自然についていく。これはおもしろい。
 子どものときの遊び感覚で動いているときを想い出す。
 力を抜いて動いていると、いつも身体とお友達でいるような、身体がオーラを放っているような感じがする。
 いつもの「~をせねばならない」から身体を動かしていると、身体は思考の奴隷になってただの機械になり、いつも悲しみが漂っている感じがする。

「人間がその肉体を重荷のようにひきずり回っているのが現代の特徴である。芸術に基づく真の教育は、一つ一つの歩みや手振りが子どもに内面的な喜びと満足を与えるものでなければならない。」 (R.シュタイナー 『現代の教育はどうあるべきか』より)

 シュタイナーのこの言葉は、深く人間性を捉えていると思う。いわゆる、「やる気」の問題に深く深く関わっていると思う。

 私自身、「しなければならないことがあるけれど、やる気がおこらない」、これで数十年間ずっと悩まされてきた。自分から望んだこと、やり遂げたいと思っていることでも、そうなってしまう。
 原因は、思考と身体の関係なのだと思う。

 学校教育の
・ ラジオ体操的な、形から強制していく体育。
・ じっと座っていなければならない授業。

 この二つが、そうとうな悪さをしていると思う。私自身、思考と身体の葛藤を植え付けられたのは、学校教育であることを実感している。
 シュタイナー教育だと、オイリュトミーという、不思議な踊りのような体操のようなものを持っている。
 サドベリータイプの教育だと、子どもの自発的な遊びに任せて、強制を避けている。

 このように、思考と身体の関係を深く問い直している教育も存在するのである。

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