”教育”と呼ばれるこの野蛮な風習
ブログの更新の間をずいぶんとあけてしまいました。いつも読んでくださる方々、すみません。健康は大丈夫か、とご心配いただきました。大丈夫です。
多忙でした。
多忙でしたが、でも、ブログをまったく書けないはずなどありません。
なにか新しいものが感じ取れるけれど、表現の道が見つからないんです。
言葉が及ばないところに入っていく道を見つけた。十代のうちは住んでいることのできた王国に、少しは戻ることができるようになった。
そうしたら、すべての結論は浅薄だと感じられてしまう。
人間の中に、クリエイティブそのもの、感受性そのものみたいな世界があって、言葉はその影みたいなものです。
もちろん、言葉には言葉の役割があります。言葉は役に立つものです。欲をかかずに、有用性に徹して、言葉を使うべきです。
タゴールの詩を想い出します。
「私が歌いにきた歌は、まだ歌われていない」
(「ギタンジャリ」 第13歌)
6年前に体調を崩して仕事を絞っていたのですが、今年の春から、また新しく子どもたちと関わっています。自主保育的な幼児教育と、中学生相手の寺子屋。
子どもを相手にしていると、少しは、自分の歌を歌った気がします。
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コメント
お元気そうでお幸せそうなご様子でホッとしました。
歌うように、ダンスするように生きている時間のことを、言葉ではとても言い表せませんよね。
でもその中のホンの一部を書いているとちゃんと分かって励まされる人もきっと沢山いらっしゃると思います。
いつも読ませていただいて私も感謝感謝です。
投稿: 会 | 2012年10月25日 (木) 23時46分
> 私が歌いにきた歌
いい言葉ですね.タゴールですか.
自分はどんな歌を歌いに来たのだろう?と,ふと考えてしまいました.その答を自分は知っているだろうか.
わからないけれど,まだ歌ってないことは確かです.
心にしみる言葉です.
投稿: Ladybird | 2012年10月26日 (金) 01時30分