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自己知と感受性

 自己知というのは、一生続く、もっとも価値ある学びなのだと思います。
 自分がどのような動機で動いているのか、それは全存在、全感覚を使ってのみ、理解できるものです。言語でのみ自分を捉えていると、どんなに反省したつもりでも無意識領域が大きくなり、自己知が浅くなります。

 その例です。
 さっきちょうど、あるメーリングリストに思うことを存分に書いていて、自分がちょっと調子に乗りすぎていないか、みなさまから「あいつ一人のための場じゃないぞ」と言われそうな気がして不安になりました。

 ....と書けば、頭で考えて自己反省したみたいです。
 そうじゃありません。実際に起こったことは、言語を介していないのです。

 「自分がちょっと調子に乗りすぎていないか」は、他人が私に対して、あいつめ、と思う場面を瞬間的にイメージしています。思い浮かべていますが、言葉としては何も浮かんでいません。思考の一種ではありますが、野生動物は、たぶんこんなふうに思考しているだろうな、という思考です。

 そうしたら、条件反射的に、胃のあたりに不快な感じがします。まずい、やばい、という感じです。これは言語が出て来るよりはるかに速く、瞬間的に起こります。

 それは、サッカーの試合をしていて、あっちから敵が来る、と見て、やばいと瞬間的に向きを変えるようなものです。言語の介在なしに、きわめて短い時間で起こります。

 これは、私の中にできている条件反射です。生まれて育ってくる過程のどこかで刷り込まれています。
 この条件反射があるために、わたしは臆病です。人前で遠慮が多くてのびのびしない感じになります。でも、ときどき、意識的に臆病さを乗り越えようとして、こんどはほんとうに反感を買うようなことをしてしまいます。
 と同時に、この条件反射は日本人の文化そのものでもあります。他人の中にも、同じものを見つけることが多いのです。

 場面を想定しては、条件反射的に反応する。
 私の中に、この、膨大な堆積があります。でも、私はそれに気付かないまま行動しています。

 人間の自由を奪っているものはたくさんありますが、その最大原因は、この条件反射だと思います。

 子どもは、このような言語を介さない世界を生きています。感受性によって生きているのです。
 ですから、子どもが何かしたときに理由を尋ねてもわかりません。子どもは、ただ、そうしただけなのです。でも、子どもにとって瞬間瞬間の判断というのはちゃんとあるのです。それは、子どもを見ていれば、わかることです。

 問題は、これがただの条件反射であるか、感受性で受け止めた上での主体的判断であるかなのです。

 恐怖に訴えて結果を出させるだけの躾は、条件反射作りです。その子の自由を奪います。その子は、自分の中の何が起こっているかのプロセスに関与することなく、さまざまな気分が湧き出てしまうのです。それがなぜか理解できなくて、他人のせいにしたり、自分のせいにしたりします。

 そうではなくて、どんな感覚も避けることなく、怖いことを怖いと感じ、やるせないことをやるせないと感じる、そのような感覚に対する全面的受容があれば、その子は判断に基づいて生きることができます。

 あるがままを認める愛が必要なのです。それが人間を自由にします。

 言語過程の外側にあるが、生き物としては当然に感じていること、それを感じ取れることが、知恵そのものなのです。

 場面を想定しては、条件反射を起こしていること。それはあまりに素早く起こっていて、言語でフォローできない。
 そのため、私は内面で何が起こっているのか知らないのです。

 これは、そのプロセスを感じ取ることができると、消えます。感じ取れれば、条件反射ではなくなります。子どもの時の負の刷り込みが大きかったとしても、誰でも自由になることができます。自分の中でほんとうに起こっていることを感じる勇気さえあれば、自由になることができます。

 これは不思議なことなのですが、全感受性をあげて、一切の言語化をせずにあるプロセスを生きることができると、それは条件反射ではなくなって、私の自由を邪魔しなくなるのです。
 これは、大人にも子どもにも共通です。

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コメント

実に稚拙な内容だ!

投稿: 七井誓 | 2012年8月30日 (木) 19時38分

〈自己知〉と〈条件反射〉と〈言語化〉
…自分を捉える態度としてこの3種類が文章中に出て来ますね。

〈条件反射〉に属するのが→
「自分がちょっと調子に乗りすぎていないか」だったり、
野生動物の思考であり、
サッカー選手のとっさの対応であり、
古山さんの、人前でのびのびできない臆病さ。
日本人の文化そのもの。
…そしてこれらは後天的に獲得される(させられる)。
これまでの人生の蓄積が、本人に気づかせる事なく
その人を突き動かす。自由を奪う。
自分の中の何が起こっているかのプロセスを感じ取れていない。

〈言語化〉つまり理屈先行の行動に属するのが→
頭で考えて自己反省
「ときどき、意識的に臆病さを乗り越えようとして、
こんどはほんとうに反感を買うようなことをしてしまいます」だったり、
(今回の記事ではありませんが)読書感想文がその最たるもの。

〈自己知〉は→
言語を介さない点は条件反射と同じだが、
感受性に基づいていて人に理由を説明出来るものではない。
条件反射は受動的だが、これは主体的。
恐怖から自由。
自分の中の何が起こっているかのプロセスを感じ取れている。
=知恵

あれ?〈自己知〉と〈条件反射〉と〈言語でのみ自己反省〉
この3つと思ってたけど、古山さんは4つに分けてるのかな。

子供の、感受性に基づく行動は、まだ〈自己知〉ではなくて、
そういった子供が、
あるがままを認める愛に包まれて成長し、
「自分の感覚を全面的受容」することで
〈自己知(判断に基づいて生きること)〉へと成長する、のかな。
(自分の感受性を自覚するかしないかの違い)

難しい文章ですね。

古山さんの文章を読んでコメントしようと思って
感想を書こうとすると難しいんです。読書感想文を書く
難しさです。

まさに「面白かった」としか言い様がないのですが、
コメントを書きたいなと思った時には、それ以上の何か、
コメントで伝えたい思いがわき上がるものなのですが、
言葉にすると見事に“読書感想文”になる。
自分の言語に思いをからめとられてしまう。
「人前で遠慮が多くてのびのびしない感じになります。でも、ときどき、意識的に臆病さを乗り越えようとして、こんどはほんとうに反感を買うようなことをしてしまいます」
と云うのは、私も思い当たりますね、
そういうの。

投稿: 夜の助手席 | 2012年9月 1日 (土) 01時42分

夜の助手席さま
 最近、頭の中の内部対話をやめて、起こっていること認識することが、いささかできるようになりました。
 そうしたら、そこに、子供時代と同じものが流れていました。どうやって、”大人”が構成されているのかも見えてきました。ただし、言語によって認知したのではありません。
 それを、言葉にすること、簡単ではなくて、わかりにくい表現ですみません。これからもトライします。

投稿: 古山 | 2012年9月 1日 (土) 13時12分

昨日大津の教育委員長を襲撃した人を支援する会を作ろうと提案したらこのフリースクールを強制的に退会させられた

投稿: | 2012年9月 8日 (土) 16時01分

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