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2012年8月

自己知と感受性

 自己知というのは、一生続く、もっとも価値ある学びなのだと思います。
 自分がどのような動機で動いているのか、それは全存在、全感覚を使ってのみ、理解できるものです。言語でのみ自分を捉えていると、どんなに反省したつもりでも無意識領域が大きくなり、自己知が浅くなります。

 その例です。
 さっきちょうど、あるメーリングリストに思うことを存分に書いていて、自分がちょっと調子に乗りすぎていないか、みなさまから「あいつ一人のための場じゃないぞ」と言われそうな気がして不安になりました。

 ....と書けば、頭で考えて自己反省したみたいです。
 そうじゃありません。実際に起こったことは、言語を介していないのです。

 「自分がちょっと調子に乗りすぎていないか」は、他人が私に対して、あいつめ、と思う場面を瞬間的にイメージしています。思い浮かべていますが、言葉としては何も浮かんでいません。思考の一種ではありますが、野生動物は、たぶんこんなふうに思考しているだろうな、という思考です。

 そうしたら、条件反射的に、胃のあたりに不快な感じがします。まずい、やばい、という感じです。これは言語が出て来るよりはるかに速く、瞬間的に起こります。

 それは、サッカーの試合をしていて、あっちから敵が来る、と見て、やばいと瞬間的に向きを変えるようなものです。言語の介在なしに、きわめて短い時間で起こります。

 これは、私の中にできている条件反射です。生まれて育ってくる過程のどこかで刷り込まれています。
 この条件反射があるために、わたしは臆病です。人前で遠慮が多くてのびのびしない感じになります。でも、ときどき、意識的に臆病さを乗り越えようとして、こんどはほんとうに反感を買うようなことをしてしまいます。
 と同時に、この条件反射は日本人の文化そのものでもあります。他人の中にも、同じものを見つけることが多いのです。

 場面を想定しては、条件反射的に反応する。
 私の中に、この、膨大な堆積があります。でも、私はそれに気付かないまま行動しています。

 人間の自由を奪っているものはたくさんありますが、その最大原因は、この条件反射だと思います。

 子どもは、このような言語を介さない世界を生きています。感受性によって生きているのです。
 ですから、子どもが何かしたときに理由を尋ねてもわかりません。子どもは、ただ、そうしただけなのです。でも、子どもにとって瞬間瞬間の判断というのはちゃんとあるのです。それは、子どもを見ていれば、わかることです。

 問題は、これがただの条件反射であるか、感受性で受け止めた上での主体的判断であるかなのです。

 恐怖に訴えて結果を出させるだけの躾は、条件反射作りです。その子の自由を奪います。その子は、自分の中の何が起こっているかのプロセスに関与することなく、さまざまな気分が湧き出てしまうのです。それがなぜか理解できなくて、他人のせいにしたり、自分のせいにしたりします。

 そうではなくて、どんな感覚も避けることなく、怖いことを怖いと感じ、やるせないことをやるせないと感じる、そのような感覚に対する全面的受容があれば、その子は判断に基づいて生きることができます。

 あるがままを認める愛が必要なのです。それが人間を自由にします。

 言語過程の外側にあるが、生き物としては当然に感じていること、それを感じ取れることが、知恵そのものなのです。

 場面を想定しては、条件反射を起こしていること。それはあまりに素早く起こっていて、言語でフォローできない。
 そのため、私は内面で何が起こっているのか知らないのです。

 これは、そのプロセスを感じ取ることができると、消えます。感じ取れれば、条件反射ではなくなります。子どもの時の負の刷り込みが大きかったとしても、誰でも自由になることができます。自分の中でほんとうに起こっていることを感じる勇気さえあれば、自由になることができます。

 これは不思議なことなのですが、全感受性をあげて、一切の言語化をせずにあるプロセスを生きることができると、それは条件反射ではなくなって、私の自由を邪魔しなくなるのです。
 これは、大人にも子どもにも共通です。

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読書感想文の宿題をやめましょう

 夏休みの読書感想文の宿題をやめましょう。
 強制されても苦痛なだけです。得るところがありません。感想文は書きたい人だけ書けばよい。

 「感想を書きなさい」と言われても、「おもしろかった」と書けば、それ以上書くことなどないのです。誰でもそうだったはずです。
 強いておもしろさを書こうとすれば、「主人公がこうしてこうなった」というような場面やあらすじを書くことになります。そうするとそれは「感想ではない」と先生に言われますので、書けない。
 「おもしろかった」と1行書いたあとは、どうしようもなくて、苦しむのであります。

 優秀作に選ばれた感想文を読んでごらんなさい。感想文を書くというのは、本を読むのとはまったく違う技術なのです。ぐっと自分に引き寄せてしまって、自分の想い、考えを書くのです。

 よい感想文を書けるようにするなら、子どもが生活の中でほんとうに感じたことを言葉にする機会をたくさん作る、その子が発することによく耳を傾ける、きらりとしたことを言ったら反応してあげる、そのような地道なことをし続けることです。作文の指導が上手な先生は、それをやっているはずです。親たちでも、上手な人たちがいます。
 話し上手、書き上手は、心から聞いてくれる人がいるときに育つのです。

 ぽーんと宿題だと強制されたら、いやになるだけです。

 読書をさせてなにか能力を伸ばさせようというなら、あらすじを書くことのほうが大事です。物事を要約することは大事な能力で、日常生活でも、国語の勉強でも、役に立ちます。

 読書感想文の全国コンクールが、毎年開かれています。
 あれに出させようと、全国津々浦々の小中学校が、読書感想文の宿題を出すわけでしょう。

 りっぱなご褒美を数少なく出して、みんなに競わせる。
 上澄みに素晴らしいものが現れればそれでよい。強制してでもみんなにやらせて、裾野を広げる。陰で苦しむ人間、やる気をなくす人間が出ることは、まったく視野に入っていない。

 いまの教育の縮図じゃないですか。

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旗ふるな

こんな詩に出会いました。

『旗』 作・城山三郎

 旗振るな 
 旗振らすな 
 旗伏せよ 
 旗たため 
 社旗も校旗も 
 国々の旗も 
 国策の旗も
 運動と言う名の旗も
 ひとみなひとり
 ひとりには
 一つの命

学校というのは、旗を振りたい人たちや、旗の前に直立不動したい人たちが、思い通りにしたがるところです。
学校には、素直で信じやすい若い人たちがたくさんいますから。

旗をかざす人たちの空虚さがわかりますか。旗は、体裁の良い自己崇拝なのです。
その虚しさを見抜く目を子どもたちに失わせないことができますか。

大義や権威をまぶしく感じないだけの充実した生を、子どもたちに保障できますか。

新たな旗を振ることなしに、それができますか。

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ささやかな恐怖。学校で植え付けられた

けさ、自分がいつもひたされていた恐怖のことを意識できていました。
ささやかな恐怖。何十年もずっとひたされてきたものです。
身体全体で感じる、ちょっとすくんだような感じ。子どもが怯えて、物陰に隠れるような感じ。

この恐怖があるから、いつも考え事をします。その考え事をするということが、物陰に隠れること。
他人から見てどうであるか
自分が承認されているかどうか
いまのままで自分ではだめだと考えたり
もっとほんとうの自分があると考えたり
あのときああすればよかったと悔やみ
こうなったらどうしよう、こうなったらどうしようと、いつも思いをめぐらす

この恐怖で、
つい、自分を自分以上に見せたり
よく知らないことを吹聴したり
逆に、ひどく卑下したり。
他人の欠点をいつも見つけ
なににつけても論評します。
言葉を頭の中で回転させているときは、他の事は全部忘れてしまえる。

間違えるのが怖いから、誰か権威者の言ったことだと注釈をつけるし。それも、誰もが認める権威より、ちょっとマイナーな権威を利用するし。

20代のときに、他人から見てどうであるかを気にするのがいやになって、気にしないと決意したら、他人に迷惑ばかりかけるKYになってしまったし。

この恐怖、学校で植え付けられています。
家庭ではもっと自由だったし、親には言いたい放題が言えました。恐怖にはならないです。小学校に行きだしてから、恐怖に満ちた内面生活が始まったことを、よく覚えています。3年生くらいになったら適応でき、明るくしていましたが、この恐怖があったために、かえって明るかったのだと思います。

集団生活には、たしかにそれなりの取り決めや規律が必要です。
でも、先生たちは、それを、恐怖や辱めに訴えて植え付けようとしていた。
授業を成立させるためには、先生たちは、手段を選んでいなかった。
自分勝手で暴力的な子どもたちは、押さえつけられただけで、なにがまずいかの感受性を発達させてはいなかった。

私は、学校の雰囲気に怯えて、何をするとしかられるか敏感に察知している子どもでした。

この恐怖は、ささやかではあるけれど、虚栄や、偽善の根源になってます。

こういう恐怖で自分が動いていることは、考えればわかることだし、他人を見れば一目瞭然です。でも、感じ取れないうちは解放されない。
それをやっと見つけた。説明ではなく、言葉に置き換えてしまうのではなく、身体の実感として。

とりとめがなくてすみません。思いつくままに。

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できるあんたとできないあんた

 グループに対して、何かを教えたり、ワークをやったりするとき、とても単純な法則があります。

 いっしょに一つのものを完成させる作業や、役割分担で成り立つ作業をしていると、お互いの仲がよくなってきます。自己表現がたくさんできると、もっとよくなります。

 「あんたはできるけど、あんたはできない」と差別や順位をつけていると、お互いの仲が悪くなってきます。人間は、比較されるたびに孤独感を味わうものです。優越感を味わう側も、劣等感を味わう側も、どちらも実は孤独なのです。

 学校の勉学では、「あんたはできる、あんたはできない」というメッセージがたくさん出ています。学校は、社会に出て個人のポイント稼ぎをして生きることの練習になっています。
 もちろん、生徒も先生も、その上に仲のよい関係を築こうと努力しているのですが、差別や順位づけをそのままにしているので、どうしても効果が薄いです。
 いじめのはびこる土壌になります。

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