« 2012年6月 | トップページ | 2012年8月 »

2012年7月

管理社会といじめ

 大津市のいじめ自殺事件が大きく報道されています。
 新聞やネット上に、被害者に呼びかける声、加害者に呼びかける声、自分の体験を赤裸々に語る声、それぞれ真摯なものがたくさんあります。でも私には、いじめは、個人の性格や心の問題だけではないと思えます。
 ここでは、違う視点からいじめについて思うことを書きます。

 いじめは、管理社会で多発します。
 管理社会というのは、人を見ていなくて、成果だけ見ている社会です。
 管理社会は、多くのことにやり方と手順が決まっています。やり方と手順を守らない人間がいたら、お互いにジロリと睨み合う社会です。
 管理社会では、すべてのことに「それはこういうことだ」という答えが用意されています。誰もが、それに沿ってものを言っています、それに合わせていないと孤立します。

 管理社会では、だれもがなかなか認められません。満足した人間が働かなくなることを怖れているのです。いつも目標を持ち、達成に向かって努力することが推奨されます。でも、認められるのは、達成された瞬間だけです。どの人も「自分が認められている」という実感を持っていません。

 管理社会というのは、どの人も、認められるためにあがかなければならない社会です。うぬぼれ屋や、利己主義者が増えます。他人をバカにすることで自尊心を保つ人が多くなります。多くの人が、自分は欠点や問題の多い人間だと思っています。そして、他の人の欠点や問題がたまらないものに感じられます。

 管理社会では、誰もが仮面をつけて生きています。自分で感じたことは心の片隅においやって、しなければならないことをし、言わなければならないことします。誰もが、空虚でやるせないものを持っていて、なにかで紛らして生きています。

 管理社会では、仲間と同調しないと生きて行けません。仲間による承認以外に基準はないのです。

 いじめは中学で多発します。中学が典型的な管理社会です。
 成績、行動、すべて目に見える成果があるかどうかで測っているのです。校舎、教室は標語だらけ、 「中学生らしく」と要求される、服装、態度、言動。
 つまらない授業。私語と居眠りだらけ。
 頭ごなしの教師たち。
 うまくいかないほどに、教師たちは、目標と態度を管理しようとするのです。

 それでも、多くの中学生はけっこう明るく生きています。比較の対象がないから、それを当たり前として生きているのです。 友人とのバカさわぎや、ふざけあいが、最高の息抜き。
 でも、しわ寄せが集中的に現れるところがあります。

 日頃がみじめだと、誰かをからかったり、困らせたりするのは、楽しいことです。
 「あいつはたまらない」という奴に、制裁を加える場合もあります。
 誰かを自分の言うなりにする喜び。

 先生たちは、生徒たちをなんとか「~ねばならない」の世界に引き戻そうとします。でも、教師たちも管理社会に生きているのです。教師同士もいじめがあるし、「あいつよりマシだ」とか「あいつさえいなければ」とか内心でため息をついています。

 管理社会というのは、誰もが自分の心を生きることができなくなってしまった社会です。
 何か違う、と誰もが思うけれど、誰も変えようがない。ただ、それが当たり前だから、そこで生きている。

 いじめを根本的になくしたいなら、管理社会を見直さないといけません。
 貧乏なために盗みの絶えない国があったとします。犯罪者の取り締りは必要だし、盗みに対する備えも必要です。でも、国全体を豊かにすることを考えなかったら、いつまでたっても盗みはなくなりません。それと同じです。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  ブログランキングに参加しています

| | コメント (3) | トラックバック (0)

情熱と理解が湧き出る泉

 われわれは、わけのわからないものに取り囲まれて生きるようになっています。

 テレビの原理をどれだけの人が知っているでしょうか。自動車は? 冷房は? コンピュータは?
 根本的な仕組みがわからないものの中で暮らすと、われわれは、なにか落ち着きの悪さを感じ、表面的な行動だけ合わせて生きるようになります。

 社会の仕組みについても、われわれはわけのわからないものにこづき回されて生きています。とにかく、試験があるのだ、落ちこぼれてはいけないのだ....。

 学校は、1時間ごとに、数学、国語、理科、と目まぐるしく科目を変えます。生徒は、授業が始まるたびに、自分の関心を捨てて教師の差し出すものに合わせることを要求されます。ある科目に関心を持ったとしても、50分後にはそれを捨てることを要求されます。家庭生活にまで、宿題や塾が入り込みます。
 このような教育を行っていると、どうしても生徒の自発性が低下します。そこで学校は、強制、賞罰、競争を使って生徒を動機づけます。ますます、生徒の自発性が低下します。

 このような教育は、浅薄ではないでしょうか。結論に固執する人間や、政治煽動やゴシップに弱い人間を、大量生産しているのではないでしょうか。

 そうではなく、人間の深いところに、情熱と理解が湧き出る泉があります。それは、騒がしさや強制の中にはありません。静けさと感受性によって、その泉から水を汲むことができます。教育は、その泉との交流を助けることができるでしょうか。
 

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  ブログランキングに参加しています


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自主高校があっていい

 中学生のお子さんを持つ親と話していたこと。
 子どもに詰め込み勉強をさせたくはない。しかし、現実に高校受験があるのでどうしたらいいか。私はこう言いました。

 「自主高校があっていいじゃないですか。」

 学びは、自分たちのものです。生徒と親たちで高校に相当するものを作ってしまえばいいのです。自主保育があるのと同じです。

 高校は義務教育じゃありません。「高校卒業程度認定試験」という文科省管轄の試験があって、これに合格すれば、高校卒業と同じに通用する資格が得られます。進学にも就職にも通用します。
 高卒認定試験は、難しくありません。そのための勉強に、さほど時間はいらない。あとの時間は、好きなことをするのに振り向ければいいです。勉強だろうが遊びだろうがスポーツだろうがなんでもいい、好きなことに打ち込むとき、人間はいちばん伸びます。

 自習が難しい科目は、自分たちで先生を雇えばいいではありませんか。
 どうして、教え下手な教師に甘んじなければならないのですか。学期ごとか、1年ごとくらいに生徒が信任投票をして、教わりたくない先生とは再契約しなければいいです。
 スポーツ指導者、話し合いのファシリテーター、社会活動コーディネーターのような人を雇ってもいい。
 公共施設とそのサービスは、利用できるものはなんでも利用すればいい。
 年限を3年と区切ることもない。

 やろうと思えば、たいして難しくないと思います。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  ブログランキングに参加しています

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年6月 | トップページ | 2012年8月 »