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「1Q84」 単純な世界観から抜け出すこと

 村上春樹の『1Q84』が文庫本になってコンビニに置かれていました。
 そろそろ読むか。
 1冊買いました。いったん読みだすと、もう、やめられない。けっきょく、文庫本になっていない単行本2冊まで買って、第三部まで一気に読みました。これまでの村上春樹の長編の中で、いちばん良かったです。

 『1Q84』はすぐれた芸術作品だと思います。すぐれた芸術作品は、それ自体が一つの世界になっています。解説や批評の枠の中に収めきれません。ちょうど、一人の人間をほんとうに理解したときのように。
 解説も批評もする気はないのですが、『1Q84』で私が刺激されたことを少し。

 70年代の終わり頃のことでした。私は東京の喫茶店にいました。店内BGMに、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」がかかっていました。ガールフレンドが、
「この歌詞は、一度入ったら出られないホテルのことを言っているの」
と言いました。
 私はぽつりと、「一度入ったら出られないものって、たくさんあるよ」
 と言い、彼女が深くわかったような顔をしました。

 私はそのころ、なんとか自由になろうともがいていました。会社勤めが苦痛だったけれど、まだ終身雇用制が全盛の時代です。どうしようか、悶々としていました。
 その後、エイヤと会社を辞めました。自分がやってみたいことに身を任せよう。
 しかし、自由感はない。
 そうか、自分の内面の問題なのかといろいろ探求しました。生育歴からもたらされるもつれや、社会のいろいろな文化的強制力を、それなり見抜いたとは思います。入ったことすらわからないでいる扉がたくさんあります。
 しかし、自由感はない。
 自分のことにかまけてもだめだ。人のためになろう。そう思って、私塾を開き、不登校の子どもたちを援助しました。人間の奥には「叡智」としか呼びようのないものが流れていることも知りました。
 しかし、自由感はない。

 「一度入ったら出られないところがある。そこから出られるか?」
 これが、『1Q84』のメインテーマでした。それは私自身のテーマでした。私は、『1Q84』に深く入り込みました。

 『1Q84』は、連合赤軍事件とオウム真理教事件を下敷きにしています。下敷きにしていますが、過激派やカルト教団を詳しく描写するという手法は取りません。カルト教団らしきものは、外部からの調査の対象としてしか登場しません。

 『1Q84』はいわゆるカルト問題を取り上げているのですが、村上春樹はことさら洗脳の問題としては取り上げていません。そうではなくて、「別世界に入り込むとはどういうことか」という一人一人の問題にしているのです。

 そこが村上春樹のすごさだと思います。
 これを”洗脳”の問題としてとりあげたら、洗脳をする悪い人とその被害者という善悪の問題になります。しかし、村上春樹は、過激派やカルトの問題を、善悪の問題として片付けたくなかったのでしょう。誰か悪人のせいにしてすむことではない。もっと深く、一人一人の人間の心の問題ではないかと。
「別世界に入り込んでいった人たちがいた。その人たちは、どのようにその世界に入ったのか」
「なぜそこから出られなかったのか」
を入念に描こうとするのです。

 思想統制の恐ろしさをとりあげたジョージ・オーウェルの小説『1984年』には、ビッグ・ブラザーという独裁者がいます。『1Q84』にも、「リーダー」というカルト教祖がいます。ところがこの「リーダー」は、リトル・ピープルという善か悪かもわからない得体のしれない小人たちに支配されています。「リーダー」は、自身も耐えがたい苦痛を抱え、自分の死を願っています。彼は暗殺者を迎え入れ、自分を殺させます。

 ビッグ・ブラザーではなく、リトル・ピープル。

 一人の凶悪な人間が仕組んでいるのではないのです。
 このリトル・ピープルたちは、善悪不明、正体不明です。正体不明のまま、物語は終わります。おそらく人間とはまったく違う次元の生き物で、ただ彼らの世界を生きているだけらしい、ということが暗示されています。

 『1Q84』には、カルト問題とは直接に関係ないサブストーリーがたくさんあります。そして、サブストーリーは、
「はじめは荒唐無稽に見えても、だんだん現実と感じられる」
「いったん別な世界に入ると、そこを出るのは難しい」
というメロディーを、さまざまに形を変えながら奏でています。

 もし、「カルトは悪だ」という結論に導くならば、それはまた別な単純思考とバッシングに行き着いてしまいます。だから村上春樹は、直接にカルトの悪を訴えない。われわれは社会のいろいろなフィクションにこのように入り込んでしまうのだ、というプロセスを入念に示すのです。

 はじめは、つたない空想物語だった「空気さなぎ」が、ついには1Q84の世界での現実になってしまいます。
 主人公天吾の父親が、NHKの集金人になりきってしまい、死の床でまで支払いの督促をしています。
 もう一人の主人公青豆が、だんだんプロフェッショナルな殺し屋になっていきます。
 そのような登場人物達のストーリーがあります。

 そして、読者一人一人に村上春樹が提示するストーリーがあります。それは「この小説世界をあなたはだんだん現実と感じて受け入れますね。それと同じように、あなたは社会のフィクションをたくさん受け入れているのではありませんか」と言っているように思えます。

 もう一つ『1Q84』が、盛りだくさんなエンターテインメントであり、焦点を絞れるようで絞れないことにも大きな印象を受けました。たくさんの視点を重層させることによって、「世界は、単純な結論では捉えきれないのではないですか」という問いかけをしているのです。

 そして、このように結論を嫌う構造になっているにも関わらず、『1Q84』の第3部は、「脱出可能である」という1点にまとまっていきます。

「この社会のフィクションから、脱出することは可能だ」

 
 その通り、可能です。
 最近になって、自分が思考によって自分をコントロールすることそのものが牢獄なのだということを感じ取れてきて、いささかは自由の空気を吸っているところです。

 人間性全体の中での思考の役割を見抜くこと。
 教育では、それが大事なのです。そうでないと、頭でっかちや、独善を育ててしまうのです。
 自由な人間であるためには、自由であろうと思うだけではどうにもなりません。教育の手助けが必要です。人間に結論を復唱させ、条件反射を創り出そうとする教育が、人間の自由を奪うのです。そこから脱出しようとしても、こんどは別な結論にがんじがらめにされてしまうので、別な穴に落ち込んで抜け出せなくなってしまうのです。

 村上春樹自身の言葉:
「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまう と耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」
「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」

 私は、現在の教育が、人間性からあまりに離れたところに入り込んでしまったと感じています。
 索漠感や苦痛が、かえって「人間を鍛える」ものとして称揚される不思議な世界にわれわれは入り込んでいます。
 点数を稼げる人間になりなさいと、『精神的な囲い込み』がなされています。
 それは、だれか極悪人がいるためではなく、すべての人が制度の奴隷になり、それがなくなると耐えられなくなっているためです。

 しかし、
 「脱出可能である」
 と私は本気で考えています。それは手の届くところにあります。
 シュタイナー教育やモンテッソーリ教育などで代表される、試験で追い立てない教育はたくさん開発され、成果を実証されています。競争入試に依存せずに、1国の教育水準を高く保っている国もあります。

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