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2012年4月

社会問題の根幹と思えること

 これは社会問題の根幹に関わるんだ、と思える教育問題について。

 ストレスの大きい生き方をする人たちに、大きく言うと2種類あります。

 一つは、他人と摩擦を起こさないことを最優先させて生きる人たちです。他人と対立しそうになると、すぐに自分の考えを枉げます。世の中の多数派や、目上の者の言うことは全部正しく感じられる。内面の考えは、どこかで聞いた意見のパッチワークになっています。
 こういう生き方をしていると、物事そのものがどうなっているかの判断が育ちません。判断が悪くて、いろんな失敗やストレスを生じる。それでますます自分で考えなくなります。
 人間ジャングルの中で適応するためにはいいのですが、そのためだけに他の能力を捨ててしまったようなものです。

 もう一つは、自分の考えと自分の方式をかっちり築き上げて、他人が入り込むのを許さない人たちです。表面的な儀礼は守りますが、自分が正しくて他はみんな間違っていると思っています。孤立しやすく、世を恨みやすいです。きらっとしたものはあるけれど、多くのことで独善的になります。いったん指導的な立場につくと、他人に言うことをきかせようと、権威的、権力的になりやすい。そうなると本人もストレスを感じますが、それ以上に周囲の人のストレスが大きいです。

 社会問題はいろいろあるのですが、追従癖を身につけることと唯我独尊癖を身につけること、この二つは社会問題の根幹に関わる問題だと思うんです。人間たちが明晰さを失ってしまい、すべてのことに判断が悪くなるのです。

 私自身、この二つのどちらもやらかしましたねえ。どちらも、怖いからやらかすことなのだ、ということを身をもって学びました。正反対のことに見えて、実は同根なのです。

 十代のうちくらいは、どちらのタイプも、「愚かだなあ。自分があんなになるなんてあり得ない」くらいにしか思っていなかったんですけどね。
 会社勤めをして、年功序列、先輩後輩社会など気にせず生きてやろうとしました。そうしたら反発を買って、こんどは恐怖の塊になって何も主張できなくなってしまいました。

 子どもたちに勉強を教える立場になって子どもたちがつまづくのを観察すると、たいへん粗略な分けかたではありますが、この2種類が大きな原因になっています。
 間違っていると言われるのが怖くて、自分の答えを持とうとしない。
 すでに知っていることに固執して、新しい視点を獲得しようとしない。

 どちらも動物的な防衛本能から来ています。考えてそうしているのではなく、恐怖感から身につけてしまうのです。本人には見えない。他人のは見える。だから、指摘したくらいでは修正できなくて、動物的な安心感のところに働きかけなければならない。簡単ではありません。

 家庭でのしつけや社会組織の教育力まで含めて、強圧的な教育、賞罰・競争で動機づける教育が、恐怖をはぐくんでいるんです。

 目的は手段を選びます。物事がよく見える賢い人間を育てないなら、権威・権力に訴えてはいけない。賞罰・競争に訴えてはいけない。恐怖から身につけたものは、明晰さがない。
 教育は、本来は、何がどうなっているのか、よく観察し考える力をつけるためのチャンスなのです。ところが、結果を出すためによからぬ手段で動機づけるようになると、人間と社会に大きなダメージを与えます。

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「1Q84」 単純な世界観から抜け出すこと

 村上春樹の『1Q84』が文庫本になってコンビニに置かれていました。
 そろそろ読むか。
 1冊買いました。いったん読みだすと、もう、やめられない。けっきょく、文庫本になっていない単行本2冊まで買って、第三部まで一気に読みました。これまでの村上春樹の長編の中で、いちばん良かったです。

 『1Q84』はすぐれた芸術作品だと思います。すぐれた芸術作品は、それ自体が一つの世界になっています。解説や批評の枠の中に収めきれません。ちょうど、一人の人間をほんとうに理解したときのように。
 解説も批評もする気はないのですが、『1Q84』で私が刺激されたことを少し。

 70年代の終わり頃のことでした。私は東京の喫茶店にいました。店内BGMに、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」がかかっていました。ガールフレンドが、
「この歌詞は、一度入ったら出られないホテルのことを言っているの」
と言いました。
 私はぽつりと、「一度入ったら出られないものって、たくさんあるよ」
 と言い、彼女が深くわかったような顔をしました。

 私はそのころ、なんとか自由になろうともがいていました。会社勤めが苦痛だったけれど、まだ終身雇用制が全盛の時代です。どうしようか、悶々としていました。
 その後、エイヤと会社を辞めました。自分がやってみたいことに身を任せよう。
 しかし、自由感はない。
 そうか、自分の内面の問題なのかといろいろ探求しました。生育歴からもたらされるもつれや、社会のいろいろな文化的強制力を、それなり見抜いたとは思います。入ったことすらわからないでいる扉がたくさんあります。
 しかし、自由感はない。
 自分のことにかまけてもだめだ。人のためになろう。そう思って、私塾を開き、不登校の子どもたちを援助しました。人間の奥には「叡智」としか呼びようのないものが流れていることも知りました。
 しかし、自由感はない。

 「一度入ったら出られないところがある。そこから出られるか?」
 これが、『1Q84』のメインテーマでした。それは私自身のテーマでした。私は、『1Q84』に深く入り込みました。

 『1Q84』は、連合赤軍事件とオウム真理教事件を下敷きにしています。下敷きにしていますが、過激派やカルト教団を詳しく描写するという手法は取りません。カルト教団らしきものは、外部からの調査の対象としてしか登場しません。

 『1Q84』はいわゆるカルト問題を取り上げているのですが、村上春樹はことさら洗脳の問題としては取り上げていません。そうではなくて、「別世界に入り込むとはどういうことか」という一人一人の問題にしているのです。

 そこが村上春樹のすごさだと思います。
 これを”洗脳”の問題としてとりあげたら、洗脳をする悪い人とその被害者という善悪の問題になります。しかし、村上春樹は、過激派やカルトの問題を、善悪の問題として片付けたくなかったのでしょう。誰か悪人のせいにしてすむことではない。もっと深く、一人一人の人間の心の問題ではないかと。
「別世界に入り込んでいった人たちがいた。その人たちは、どのようにその世界に入ったのか」
「なぜそこから出られなかったのか」
を入念に描こうとするのです。

 思想統制の恐ろしさをとりあげたジョージ・オーウェルの小説『1984年』には、ビッグ・ブラザーという独裁者がいます。『1Q84』にも、「リーダー」というカルト教祖がいます。ところがこの「リーダー」は、リトル・ピープルという善か悪かもわからない得体のしれない小人たちに支配されています。「リーダー」は、自身も耐えがたい苦痛を抱え、自分の死を願っています。彼は暗殺者を迎え入れ、自分を殺させます。

 ビッグ・ブラザーではなく、リトル・ピープル。

 一人の凶悪な人間が仕組んでいるのではないのです。
 このリトル・ピープルたちは、善悪不明、正体不明です。正体不明のまま、物語は終わります。おそらく人間とはまったく違う次元の生き物で、ただ彼らの世界を生きているだけらしい、ということが暗示されています。

 『1Q84』には、カルト問題とは直接に関係ないサブストーリーがたくさんあります。そして、サブストーリーは、
「はじめは荒唐無稽に見えても、だんだん現実と感じられる」
「いったん別な世界に入ると、そこを出るのは難しい」
というメロディーを、さまざまに形を変えながら奏でています。

 もし、「カルトは悪だ」という結論に導くならば、それはまた別な単純思考とバッシングに行き着いてしまいます。だから村上春樹は、直接にカルトの悪を訴えない。われわれは社会のいろいろなフィクションにこのように入り込んでしまうのだ、というプロセスを入念に示すのです。

 はじめは、つたない空想物語だった「空気さなぎ」が、ついには1Q84の世界での現実になってしまいます。
 主人公天吾の父親が、NHKの集金人になりきってしまい、死の床でまで支払いの督促をしています。
 もう一人の主人公青豆が、だんだんプロフェッショナルな殺し屋になっていきます。
 そのような登場人物達のストーリーがあります。

 そして、読者一人一人に村上春樹が提示するストーリーがあります。それは「この小説世界をあなたはだんだん現実と感じて受け入れますね。それと同じように、あなたは社会のフィクションをたくさん受け入れているのではありませんか」と言っているように思えます。

 もう一つ『1Q84』が、盛りだくさんなエンターテインメントであり、焦点を絞れるようで絞れないことにも大きな印象を受けました。たくさんの視点を重層させることによって、「世界は、単純な結論では捉えきれないのではないですか」という問いかけをしているのです。

 そして、このように結論を嫌う構造になっているにも関わらず、『1Q84』の第3部は、「脱出可能である」という1点にまとまっていきます。

「この社会のフィクションから、脱出することは可能だ」

 
 その通り、可能です。
 最近になって、自分が思考によって自分をコントロールすることそのものが牢獄なのだということを感じ取れてきて、いささかは自由の空気を吸っているところです。

 人間性全体の中での思考の役割を見抜くこと。
 教育では、それが大事なのです。そうでないと、頭でっかちや、独善を育ててしまうのです。
 自由な人間であるためには、自由であろうと思うだけではどうにもなりません。教育の手助けが必要です。人間に結論を復唱させ、条件反射を創り出そうとする教育が、人間の自由を奪うのです。そこから脱出しようとしても、こんどは別な結論にがんじがらめにされてしまうので、別な穴に落ち込んで抜け出せなくなってしまうのです。

 村上春樹自身の言葉:
「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による『精神的な囲い込み』のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまう と耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」
「物語というのは、そういう『精神的な囲い込み』に対抗するものでなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところには入りたがらないものなんです」

 私は、現在の教育が、人間性からあまりに離れたところに入り込んでしまったと感じています。
 索漠感や苦痛が、かえって「人間を鍛える」ものとして称揚される不思議な世界にわれわれは入り込んでいます。
 点数を稼げる人間になりなさいと、『精神的な囲い込み』がなされています。
 それは、だれか極悪人がいるためではなく、すべての人が制度の奴隷になり、それがなくなると耐えられなくなっているためです。

 しかし、
 「脱出可能である」
 と私は本気で考えています。それは手の届くところにあります。
 シュタイナー教育やモンテッソーリ教育などで代表される、試験で追い立てない教育はたくさん開発され、成果を実証されています。競争入試に依存せずに、1国の教育水準を高く保っている国もあります。

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入試による教育水準コントロールへの疑問

 春は高校別の大学入学者発表の季節です。週刊誌が売り物にしています。

 これがまた、実質的な高校ランキングとなっています。東大を頂点とする有名大学に何人入ったかがたいへん重要なのです。有名大学合格者数が増えたか減ったかで、自分のところの教育方針を考える学校も教育委員会も多いでしょう。

 よく、思うんです。どこかの高校が東大入学者を一人増やせば、どこかの高校が一人減らしているわけでしょう。これは、ただのゼロサムゲームです。お互いの奪い合いをしているだけ。どこかが伸びれば、どこかが凋落します。

 全体の教育水準が上がったのか下がったのか、ということとは関係ありません。自分の学校のことしか考えていないんです。

 日本の教育の質をコントロールしているのは、実はこの高校ランキングです。そしてランクの高い高校に入ろうとする競争があることで、中学の教育もコントロールされています。
 日本は学校査察があるわけではありませんし、生徒や保護者の参加による質の保証があるわけでもありません。大学入学者数がコントロールしているんです。

 でも、競争で人を評価していると、劣者は動機を失います。たくさんの人がやる気を失うんです。

 人がやる気を持つのは、自分のことを理解し、認めてくれる人がいるときです。教育に限らず、どんな分野でもそうです。どんな学力の生徒であっても、自分というものを理解し認めてもらっていれば、学ぼうとします。
 ところが、競争によるコントロールは、認められない生徒達をたくさん生み出してしまいます。現在、教育の舵取りをする立場にいる人たちの多くは、受験競争の勝者たちです。一部のランクの高い学校ばかり見ていて、全部をそうすればいいのにと思っているようです。競争の中では、それは不可能です。

 マネーゲームに支配された経済では、ほうっておくと貧富の格差が大きくなって、けっきょく全体の経済水準が落ちてしまいます。ひどいと、暴動や内乱にゆきつきます。
 いま、教育でそれをやっているのだと思います。

 教育内容も、入試問題で高得点を取ることにどんどん特化してしまい、「人を育てる」という本来の目的から、どんどんはずれていきます。

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集中力ではなく

 J.クリシュナムルティという哲学者がいます。この人の教育思想に基づいたクリシュナムルティ・スクールが、インド、アメリカ、イギリスに6校あります。

 クリシュナムルティ教育が、他の教育と異なる大きな特徴があります。
 それは、「集中力」(concentration)ではなくて、「気がついていること」(awareness)、をもっとも重要なものとしていることです。
 「気がついていること」が発揮されている場合、焦点となるものが特になく、外界内界をとわず、起こっていることすべてに気がついています。このとき、「英知」が働き出します。「英知」は、生きることの全体性から生まれるもので、特定のパターンに従うことではありません。

 通常、教育あるいは学びと呼ばれているものは、なにかに集中し、それに習熟することをいいます。このとき、意識が絞り込まれ、気がつかないことがたくさんできてしまう。そのため、個人は大きな不幸を背負い込むし、社会には葛藤が絶えなくなります。
 例を挙げれば、集中力で勉強して有名大学に入ったが、自分が競争意識に支配された俗物であることに気づかない、そんなようなことです。
 われわれの存在全体の一部に過ぎないものがわれわれを支配すると、われわれは愚かになる。単に数多くの課目を頭に詰め込むような教育をしてはいけない。それがクリシュナムルティの主張です。

 日本は、老荘思想の影響や、仏教の「空」や「悟り」についての理解がある程度はありますので、「アウェアネスが大事なのだ」というクリシュナムルティの主張は、比較的理解しやすいだろうと思います。

 しかし、クリシュナムルティ・スクールが「悟り」を目指す学校かというとそうではなく、学問を教えることが中心になっています。この現実の中で幸福に賢く生きることが大事であり、そのために、感受性と、客観的な観察と思考を育てようとしています。

 クリシュナムルティ教育は、特定のカリキュラムや教育方法を持ちません。しかし教師に対して、十分な自己知を持っていることが要求されます。自分の文化的制約、先入観などについて気付いていること、授業中に何が起こっているのか、生徒はどのような状態なのか、あるがままに知ることが大事なのです。そのような教師とともにあることで、生徒が触発されていきます。

 クリシュナムルティ自身の著作から引用します。

 わたしたちの大半は、集中するとはいかなることなのかを学びます。つまり、子どもの頃から何かに集中することを強いられているのですが、一般的に、わたしたちはそうすることが好きだとは思っていません。そのため、嫌いなことを無理強いさせられることに対してある種の反発を覚えるようになります。

 あなたは何のために教育を受けるのでしょう? あなたは一人の人間として、どんな存在になろうとしているのでしょうか? 今日においては、もっとも高度な政治組織から洗練を極めた宗教制度に至るまで、いずれも凡庸さに支配されています。あなたが教育を受けるのは、こうしたパターンに適合するためでしょうか? 情熱をまったくもたない、自分自身や周囲の世界との葛藤を抱えるような凡庸な人間になろうとしているのでしょうか。

(「アートとしての教育」 41注意深さ より)

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ニセの適応、ニセの自主性、ニセの学力

 小学生のとき、恥ずかしかったのが、先生の前だと「良い子」になる子たちでした。見ているだけで、私のほうが恥ずかしくなって、ジタバタしたくなるような気分になるのです。
 先生も親も、それが見抜けないのです。
 今となれば、そういう子にこそ愛情が必要だと知っています。でも、子どものときは、そこまでわからない。

 「良い子」だけではありません。学校は、作り物がまかり通るところでした。

  ニセの適応。 クラスの中にいても、問題さえ起こさなければ、適応できていることになります。後年、集団生活に疲れやすく息切れします。 

  ニセの自主性。 課題を与えられて、それをやったら自主的ということになります。後年、自分が何をしたいのかわからなくなります。

  ニセの学力。 丸覚えでも、あてづっぽうでも、点数を取らなければならないのです。後年、物事への洞察力が不足します。

 ホンモノの部分ももちろん形成されています。しかし、ニセモノが学校のフィルターにはひっかからないで素通りするのです。それどころか、むしろ、子どもが表面だけツジツマを合わせてニセモノになることが、称揚されています。

 どうしてそういうことになるのかなあ、と大人になってから改めて考えました。先生個々人や、個々の学校のせいではなさそうです。

 やはり学校が、「お役目」を遂行するだけの官僚組織であることに行き着くと思います。官僚制組織の中では、結果は、客観的なものでなければならないのですから。ニセでもいい、指標をクリヤーさせるところなのです。

 ニセモノが横行することを、学校のせいだけにしては申し訳ないと思います。でも、学校は「なにがほんとうのことか」を伝えるのに、いちばん希望を持てるところのはずです。利害や、力関係で動機づけることなら、家庭でも地域でもできることです。
 

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