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子どもが無力感を持つとき

 子どもが、すさんだ感じになるのは、家庭のせいでしょうか、学校のせいでしょうか?
 それはケースバイケースで、家庭も学校もどちらも影響しているとしか言いようがないのですが、しかし、子どもの無力感に関しては、学校の責任のほうが大きいと思います。

 先生たちが専門知識に閉じこもって、知識や技能を伝授する立場になると、子どもたちは自分たちが劣った人間だと感じるようになるのです。必死に先生の意に沿おうとし、それができないとなげやりになります。

 子どもたちが必要としているのは、まず、自分が十分な配慮の元に置かれ、関心を持ってもらっているという感覚です。それなしに「できたか、できないか」を迫るような教育をしますと、かなりの割合の子どもたちが無力感を持ちます。

 無力感を持った子どもから、いろいろな困った行動が出てきます。
 多いのが、人をバカにしたり、欠点をあげつらったりする言葉が多くなることです。これは、他の子を傷つけ、その子自身を孤立させます。
 もっと直接に、いじめに走ることもあります。
 自分は劣っているからだと、劣等感の泥沼に沈む場合もあります。

 なんだか落ち着かなくなり、ワーワーキャーキャーしていることもあります。強い子だと、授業の流れを妨げて、やらされなくてもいいようにします。
 それが押さえつけられると、白日夢にふけるようになります。
 気が弱くなって、自分の判断をしなくなって、誰かに頼ってばかりいることもあります。

 そういう現象が現れると、学校関係者は、「家庭でもっとちゃんとしつけてもらわないと、私たちにはどうしようもない」と考える方向にいきがちです。
 もちろん、家庭の問題もあります。
 しかし、子どもの無力感が学校で生じている場合は、学校に第一の責任があると思います。

 法律の強制力に依拠して子どもを集め、教室内に長時間座らせ、賞罰で動機付け、集団行動を取らせ、できれは「エラい」できなければ「頑張りましょう」。

 この教育方法そのものが内蔵する欠陥があります。それは子どもが無力感にさいなまれるようになりやすい、ということです。
 比較対象がないとなかなかそれが見えにくいのですが、シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、サドベリータイプ校とかいった「人間性教育」と比較すると、何が問題点なのか、よく見えてきます。

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コメント

小6で担任が変わり、ガミガミたえず文句を言う先生でした。息子は友達から蹴られたり、きつい言葉をかけられるようになり 、先生はそんな場面は見ていないため野放しとなりました。
いろいろな事にやる気のない言動が増え、「どうせ僕なんか何をやってもできない…」といじける事が増えました。
前にも増して臆病になりました。

4月から中学生。先生にはあまり期待はしないようにしています。ごくたまに、素晴らしい先生がいらっしゃるのを知っています。しかし、なかなか出会う確率は低いです。どんな先生に会っても生きて行けるタフさを身につけないと、と感じています。


投稿: やま | 2012年3月31日 (土) 09時57分

子どもの無力感を,家庭と学校に切り分ける根拠は何?「先生たちが専門知識に閉じこもって、知識や技能を伝授する立場になると、子どもたちは自分たちが劣った人間だと感じるようになる」という論を他では聞いたことがありません。日本の教育は根本的な誤りを持っており,多くの児童生徒が犠牲になっていると言えますが,教育制度全体に原因があるなら,学校の落ち度の指摘だけで問題が明らかになるとは思えません。また,制度とは別に起立性調節障害が原因のこともあります。学校と家庭を標的にするやりかたは,橋下流と誤解されかねません。

投稿: kazukitea | 2012年6月18日 (月) 13時36分

kazukiさま、ご意見をありがとうございます。他では聞いたことのない論なので、ここで主張しております。新しいものとして検討いただければ幸いです。
決して一方的に学校に責めを負わせる論ではありませんこと、再読いただければわかると思います。

投稿: 古山 | 2012年6月18日 (月) 16時29分

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