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2012年3月

子どもが無力感を持つとき

 子どもが、すさんだ感じになるのは、家庭のせいでしょうか、学校のせいでしょうか?
 それはケースバイケースで、家庭も学校もどちらも影響しているとしか言いようがないのですが、しかし、子どもの無力感に関しては、学校の責任のほうが大きいと思います。

 先生たちが専門知識に閉じこもって、知識や技能を伝授する立場になると、子どもたちは自分たちが劣った人間だと感じるようになるのです。必死に先生の意に沿おうとし、それができないとなげやりになります。

 子どもたちが必要としているのは、まず、自分が十分な配慮の元に置かれ、関心を持ってもらっているという感覚です。それなしに「できたか、できないか」を迫るような教育をしますと、かなりの割合の子どもたちが無力感を持ちます。

 無力感を持った子どもから、いろいろな困った行動が出てきます。
 多いのが、人をバカにしたり、欠点をあげつらったりする言葉が多くなることです。これは、他の子を傷つけ、その子自身を孤立させます。
 もっと直接に、いじめに走ることもあります。
 自分は劣っているからだと、劣等感の泥沼に沈む場合もあります。

 なんだか落ち着かなくなり、ワーワーキャーキャーしていることもあります。強い子だと、授業の流れを妨げて、やらされなくてもいいようにします。
 それが押さえつけられると、白日夢にふけるようになります。
 気が弱くなって、自分の判断をしなくなって、誰かに頼ってばかりいることもあります。

 そういう現象が現れると、学校関係者は、「家庭でもっとちゃんとしつけてもらわないと、私たちにはどうしようもない」と考える方向にいきがちです。
 もちろん、家庭の問題もあります。
 しかし、子どもの無力感が学校で生じている場合は、学校に第一の責任があると思います。

 法律の強制力に依拠して子どもを集め、教室内に長時間座らせ、賞罰で動機付け、集団行動を取らせ、できれは「エラい」できなければ「頑張りましょう」。

 この教育方法そのものが内蔵する欠陥があります。それは子どもが無力感にさいなまれるようになりやすい、ということです。
 比較対象がないとなかなかそれが見えにくいのですが、シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、サドベリータイプ校とかいった「人間性教育」と比較すると、何が問題点なのか、よく見えてきます。

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官僚制に冒された教育

 この3日ほど、食品中の放射性物質を測定するのに熱中していました。専用の器械は200万円くらいからです。それを約50万円の投資でなんとかしようと、工夫し、数式と格闘し、どうやら使い物になる方式を作りました。4月からの国の基準である100ベクレル/kgでも確実に検出できます。楽しかった。

 学びって、これなんだよな、と思いました。熱中する、工夫する、調べまくる。それは楽しいのです。今回、たまたまうまく結果が出ました。でも、失敗したかもしれない。それでも、自分が学べるものはたくさんあります。長らく文系の仕事をしていたので、標準偏差と誤差の問題など、大学時代にサボッたのを改めて学習できました。

 教育って、学びって、なに? ほんとうに何かを学べたときって、どういうときでしたか?
 先生がいる場合もある、いない場合もある。でも、とにかく自分が関心を持っていないことには学びはない。

 それを考えると、学校でやっていることって、無駄なこと、非効率なことがすごく多いと思います。

 なぜ?
 現状の学校は、官僚制に取り込まれた教育です。たいへん形式的になっている。

 教育を受けることが、学校に出席することに置き換えられている。
 先生が授業をすれば、教育が為されたことにされる。
 教室の椅子に座っていれば、教育されたことになる。
 習得したかどうかが、点数を取れるかどうかになっている。理解なしの丸暗記でも小手先のテクニックでもかまわない。

 現在の学校は、巨大な官僚機構の末端に位置しています。官僚制は、文書化と客観性を求めます。したがって、教育は、文書化できる客観的な結果を出すことを目的とするようになります。
 

 でもね、そうじゃなくてね、教育ってもっと柔軟だし、自由なものじゃないでしょうか。
 教育はすごく個人個人の内面に根ざしたものなんです。結果を文書や数値にできるものなんて、ほんの一部。そのほんの一部が自己目的になっているから、出席と点数が一人歩きします。



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生きるのに必要なこと

 新しい教育・子育ての文化が必要だと思います。
 昨日、小さな講演をしたときにしゃべったこと。少しプラスアルファしています。

 生きるのにほんとうに必要なことは何か。それは、われわれがほんとうに追い詰められたときに力になるのは何かを考えればいいです。

 一つ目は、心を通わせられる人。家族でも、友人でも、恋人でもいい、自分というものをわかってくれる人がいると生きられる。

 二つ目は、自然。自然は、大きな力を持っています。

 三つ目は、芸術。ほんとうに苦しいとき、われわれは、お気に入りの音楽に聞き入ります。

 四つ目として、自分の身体との調和。心が苦しいとき、手仕事や肉体作業に打ち込む人たちがいます。スポーツをする人もいます。知恵と呼ばれるものの半分は、身体に宿っています。

 教育の基盤も、これらに置くべきです。思考には思考の役割がありますが、15歳くらいまでの教育は、思考中心とすべきではありません。
 これらの基盤ができていれば、思考も生きたものになりますし、生涯にわたって学び続けることができます。

 それに比べて、思考にできることは小さいです。考えで解決することも多いのですが、ちょっと考えても解決しないことは、いくら考えても解決せず、堂々巡りします。われわれは、既に知っていることしか考えることができません。

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受験勉強が嫌いだった

 大学受験。
 自分にとっては40年以上も前のことになります。

 受験勉強が嫌いだった。ほんとに、ほんとに、嫌いだった。理屈抜き。

 学びというのはあらゆる不純な動機づけを見抜くことそのものである。プレッシャーによる学びに屈することは、真実を求める心の自殺である。なんて今だったらカッコよく言うんですけど、17歳や18歳ではなにがなにやらわかりません。
 勉強していると遊びが気になる、遊んでいると勉強が気になる。最悪ですね。

 大学受験は、徴兵制の一種なのだと思っていました。でも、脱走する勇気はなかった。
 親が勉強にうるさかったら反抗できたかもしれないけれど、親は成績のよい息子が嬉しいだけだから、私は期待に応えてしまう。
 ほんとうに、進学しか価値観のない時代でもありました。

 でも勉強は嫌いだから、「難しいところに入ってみせりゃ、それでいいんでしょ」
 それだけになってしまいました。

 東大に入るつもりだったら、学生争乱のためにその年の東大入試がなくなってしまい、京大に行きました。別になんの勉強がしたかったわけでもない。どうせ、自分の人生なんか持ちようがないのさ、みたいに精神的にグレています。

 グレると、ろくなことがないですね。
 70年の学園紛争のまっただ中でした。一切の既存の価値観を疑おう、ということには賛同できました。どんな権威も認めなくなった。そうしたら、授業は理解できなくなり、失恋し、学生運動に巻き込まれ、いつも不安の塊。付き合っている仲間が全共闘派だから、仲間とつきあっていたい一心で革命用語を覚える。いろんな本を読みあさり、仲間に対してひけらかす。

 ほんとうは、愛されたかっただけなんですけどね。その正反対のことばかりする。

 学生時代に仲間に流されたのがいやだったから、もう集団に流されるまいと思いました。会社勤めしても、資本主義に染まってなるかと自分の思想を固めて突っ張った。そうしたら集団に入り込めない、いわゆる「空気読めない」になりました。
 6年近くも頑張った。でもつらくて、辞めました。

 ほんとうは怖くてしょうがなかっただけなのに、思想で固めて強いふりをする。そういう他人にはうんざりするけれど、自分でやってみないとその心境はわからないものです。頑張っているうちに、自分の心も他人の心も感じられないモンスターになるんです。

 会社を辞めてぶらぶらして、いわゆる自分探しをやります。生きることの充実はどこにあるのか。
 そんなの、探して見つかるようなものじゃありません。だって、生きるエネルギーは自己欺瞞がないところにやって来るんです。本に書いてあることや誰かの言ったことを真似していること自体が、空虚感や恐怖から逃げ回っているんです。

 そうこうしているうちに、親戚や知人の子どもの勉強を見るようになり、こちらは自然にうまくいきます。集団に入り込めないつらさを知っているもので、不登校の人たちを援助していたら、これもうまくいきます。いつのまにか、教育をやるようになっていました。失敗も多いけれど、教育だと原因究明に熱心になれます。どうも、天職だったみたいです。
 

 いま、痛切に思います。

 自分の気持ちがわからなくなると、高くつく。最初は、気持ちを偽っていることがわかっていても、やっているうちに偽っていることがわからなくなる。
 生きていくのにもっとも大事なことは、自己欺瞞がないことです。自分の行為の動機に気付いていることです。それが叡智というものです。

 でも、それを助けてくれる教育には出会えなかった。動機を一切不問にして、とにかくこれをマスターしろという教育ばかりだった。他人と比較したり、うわべだけ取り繕うことを教える教育ばかりだった。
 全部を教育のせいにしてはいけません、自分のせいも半分です。でも、教育のせいも半分だぞ、なんてことしてくれやがった、と思います。

 シュタイナー教育のように感受性を大事にする教育とか、サドベリータイプのように自由を尊重する教育とか、自分の十代がそういう教育だったら、こんなに苦しまなくて済んだでしょう。そのように人間性を大事にする教育を受けていたら、なにかしら才能を発揮する人生になっていたでしょう。それはさぞかし気持ちよかったろう。

 ああ、でも、と思います。
 反抗、孤立、欺瞞、執着、そういうものをもうコリゴリだというところまで生ききり、その不毛を見抜くこと。そこから湧いてくる澄んだ感じと喜び。こればかりは、バカなことをやらないことには、やってきません。こういう人生だったのかねえ、それもいいねと思います。

 しかしやっぱり、人生の躓きの石はどこにでもあるものでして、教育でわざわざ転ばせるようなことをしてはいけない。教育は、人間性そのものをいつも見据えていないといけないと思うのです。

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