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2012年2月

聞くアート

 学びの本質的な部分に「聞くアート」があります。
 いまから思うと、子どものころの私は、すごいアートを身につけていたのだと思います。でも、そのときは気がつきませんでした。
 「聞くアート」を身につけていれば、一を聞いて、三も四も知ることができるのです。しゃべっている相手の人格、感情、思想的バックグラウンドまでみんな入ってきます。

 そのとき、自分の意識を、まったく相手の話しに明け渡してしまっています。相手の人が私の意識の中で生きているのです。私は、何も考えません。
 でも、相手の話が終わったら、私はたちまち「自分の意見はこうだ」と言うことができるのです。私は私、相手は相手、あたりまえです。

 いまは、たいしたことないです。
 私は、会合などで人の話をよく聞いていません。はっと気がつくと、自分の考え事をしてしまっているのがしょっちゅうです。その間に、他の人がしゃべっていたことは、聞いていないのです。

 高校生くらいまでは、そうじゃなかったです。誰の言うことでも、全身全霊で聞いていました。そうしたら、お勉強は全然苦労がなくて、授業を聞いていればいい成績を取っていられました。教師のしゃべることなんか、最初の少しを聞けば、だいたい何をしゃべるか予想がつきますし、実際にしゃべったときは「ああ、やっぱり予想通りだ」と復習をしているようなものです。
 友達との会話も、臨機応変で、ユーモアと機転が利いていました。

 なつかしいなあ、あの頃。
 まだ、心が不安と恐怖に覆われていなかったとき。

 大学生になってから、変わってしまいました。時代が時代でして、大学紛争の真っ最中。ほんとうに石や火炎瓶が飛び交っているのです。そこで、学生運動に巻き込まれたり、失恋したりして、自分が置かれた立場もなにがなにやらわからない。人間関係が安心できない。授業中にさっぱり聞いていない。当然、授業はさっぱりわからない。

 会社勤めしたときは、もっと自分の殻を作っていました。「会社に巻き込まれずに、自分でいる」という生き方を貫こうとしたのだけれど、自分はさほど強い人間でもなく、ストレスばかり大きい。学生時代は、友人たちの話は聞けていたけれど、会社員のときは、それすらも困難。主義主張の合う人間と、主義主張の話でだけ会話できる。

 そんなとき、人の話をきいていないですねえ。とうぜん、仕事のミスは多い。孤独感はつのる。ほんとうは自分はすごいんだと信じているけど、嫌われないようにそのことを隠している。いっそう孤独がつのる。

 その体験があったもので、人の話を聞けない子どもたち、お勉強がわからない子どもたち、落ちこぼれる子どもたちの立場は、こういうことなんだろうと見当がつくようになりました。できない子どもほどに親切を尽くす。そうすると、いい結果が出るんです。

 「聞くアート」が身につけられないのは、不安と恐怖のため。
 われわれの文化全体が、不安と恐怖から逃げ回るためにできているようなものだし。

 もちろん、物事はそんなに単純ではなくて、いろんな要因があります。でも、不安と恐怖があるために「おきまりの考え事回路」ができて、それが学びの邪魔になっているというのが、よくあるパターンです。大人たちの理解力がないのは、たいていその「おきまりの考え事回路」のせいじゃないですか。それは「自我」と呼ばれたりしますけれど。

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子ども時代の重要性

 子どものときの体験は無意識の領域に沈みこんで、裏から影響していると思われています。私には、そうだとは思えません。

 子ども時代は、いま私の中に生きていて、いま私を支えているのです。

 子ども時代の私がいま私の中で生きていなかったら、私は鬱病みたいになってしまうでしょう。私は、すべてどういうことであるかわかっています。なんでも説明できますし、何をしたらいいかもわかります。でも、私は「わかっているけど、どうしようもないんだ」とつぶやいたまま、部屋の中でごろごろしているでしょう。何の意欲も好奇心もなく、「こうすれば意欲が湧くだろうか」と、他人の生き方を真似したり、生き方の本に書いてあることを試し、得るところなくまた部屋の中でごろごろするでしょう。

 子ども時代が無意識になってしまうのは、言語化された部分だけを自分だと思っているからです。
 しかし、何を自分と感じるかは、すごく柔軟で伸縮性のあるものです。
 日々の生命感覚、肉体からのさまざまな訴え、物音や静けさ、そういうものに意識が届いていれば、それがまさに子ども時代に培われ、今も自分の中で生きているものであり、生きていることのもっとも重要な部分であることを発見できます。

 不注意な教育によって、われわれは、分析し結論を出し、自分を言葉で指揮して生きるようになっています。教育だけではありません、われわれが接する人たち、本やTVで出会う人たちがみなそうなのです。
 そのとき、自分の中の子どもは、意識の光が届かず、忘れられ、しおれています。ときたま、暴れます。

 子ども時代を忘れた文化。
 それが、個人の不幸の源泉であり、搾取や戦争の源泉でもあると思います。

 子ども時代は、重要なものです。
 私たちの中を探求することから、自分の中の子ども時代を見つけ、現実の子どもたちとよい関係を持つこともできます。逆に、現実の子どもと通じ合うことから、私たちの中の子ども時代を見つけていくこともできます。

 子ども時代の重要性を見つけたとき、われわれは、言葉で自分や他人を指揮しようとする戦いから解放され、自分の目と自分の手で創造的な社会を作っていくでしょう。

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人間の中で育つもの

 またまた、更新の間をあけてしまいすみません。例によって、多忙と体調不良です。

 子どもが成長するとき、「ぼくはこうなろうと思う。なれた」というように、育っていくでしょうか。

 明らかに違います。
 ある日、なにか新しいものが自分の中に芽生えているのです。なにか、新しい意欲が湧いてくるのです。

 それは、もちろん教育の結果でもあります。しかし、直接に覚えたものの結果ではありません。
 新しいものは、朝起きたときに芽生えています。

 眠りはたいへん重要なものです。眠っているときに、前日に体験されたことが消化され、新しい統合が生まれてきます。それは、生きている全身全霊が体験したことが、眠りの中で深い叡智と出会い、新たな統合を産み出しているのです。

 人間の成長の中で起こっていることは、教えられたことをいかにこなしているかではないのです。いかに頑張って結果を出すかとは、ほんの小さな部分にすぎないのです。

 この事実に気がつくなら、教育というのは学習指導要領をこなすことではなく、人間が成長することそのものに畏敬の念を持ち協力することであることがわかります。

 そう言っただけでは抽象的です。
 具体的な道として、シュタイナー教育、モンテッソーリ教育、フレネ教育、デモクラティック・スクールといった教育法が、子どもはどのようなものであるか、子どもがどのように学び成長するかについて、いろいろな知恵と知識を蓄えています。
 これらの教育を解禁して、選ぼうとすれば選べるよう人々の選択肢の中に加えることが、たいへん重要だと思います。

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