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2011年11月

テストはなぜするの

 テストはなんのためにするのですか?
 先生にそう尋ねますと、たいてい

 「理解を確実にするためだ」

 「できないところを見つけて、ちゃんと学習するためだ」

 という答えが返ってきます。

 ほんとうかなあ。ほんとにそのように使っているのかなあ?

 いちおう、算数・数学を念頭において考えます。
 できた子が、「この理解でよかった」と確認できるのはいいとしてです、できなかったときの対応が問題なのです。
 たいてい

 「頑張って、自分でやっておきなさい」

でしょ。
 それじゃ、だめだって。
 それが落ちこぼれの山を作る原因です。

 授業でもわからなかった子なんですよ、さらにテストで「できない」という実感を味合わせているのです。そこで先生が放り出してしまって、
「自分でやっておきなさい」

 それで、自習できるはずがないじゃないですか。落ちこぼれるだけです。
 

 テストをやったなら、そのフォロー体制ができてないといけない。これ、大事なことです。フォロー体制を作ってないなら、テストなんかするな。

 せっかく「何ができないのか」をみつけたわけでしょ。その子にあった指導やワークを提供できないといけない。それも、親切に、暖かく。

 そんなことをしているヒマが先生にないって?
 もちろんそれが現実です。テストのあとのフォローをやっていたら、教科書を終わらせることができません。教科書を終わらせなければ、保護者からも校長からもクレームがきます。

 だからしょうがないって?

 そこが、しょせんは官営学校であり、教育の配給制度なんです。与えられた教科書を教えるのが学校なんです。明治時代の感覚を、まだ引きずっています。そう法律で統制してしまったから、身動きできないのです。
 発想が逆です。いちばん大事なところで発想が逆だと思うんです。

 「この子はどういう子で、何を必要としているか」から出発しないといけない。そこから、授業方法もテキストも学校の体制も組み立てないといけない。
 根本的な教育革命が必要なんです。

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ある高校受験

 高校受験の、おもしろい経験談がありました。

 阿部俊郎という人のブログ「いまここ」

  母のこと http://abetoshiro.ti-da.net/e3254559.html

 彼は、中学2年生のときに、母親の日記を読んでしまった。母親は結婚して満州に渡ったのだが、終戦時に夫に先立たれ、3歳と生まれたばかりの子どもを抱えたまま避難民になった。子どもたちは衰弱して死に、葬ることすらできなかった。その後再婚して彼が生まれた。彼は、知らない兄姉がいたことを知り、自分は母親を幸せにするために生まれてきたのだと直感した。

 あるとき、その母が、遊んでばかりいる彼を見かねて、涙ながらに訴えた。「お願いだから勉強してほしい。」

 母のためならばと、彼は猛勉強をし、最難関校に合格した。

 いい話だと思います。
 人間、若いうちのどこかできっちりした勉強をするのは大事なことだと思います。

 ところが、こういう話を読むと、「そうか、誰だってその気になって勉強すれば、できるようになるんだ」とか、「うちの子に、この阿部さんの話を聞かせてみよう」というふうに受け取られることも多いだろうと思います。
 それはよくない。くれぐれも、真似をなさって我が子と阿部俊郎さんを比較なさらぬように、とついつい思うんです。

 中学の後半くらいから、急に勉強をして成績が急上昇する子は、たしかにいます。男の子に多いです。

 ところが、それには条件があります。
 その条件というのは、心から信頼できる人が誰でもいいからいることと、それまでよく遊び込んでいることなのです。信頼があると、知識や技能を受け止める中心があります。よく遊び込んでいるといろんな感覚も、自発性も十分に育っています。そこまで基盤ができた上に、最後に言葉や数式が上載せされれば、あっという間に成績が伸びるのです。

 でも、小学校の高学年くらいからムチが入ってしまっている子では、これが効きません。それどころか、中学の後半になると、頑張っても頑張っても、ずるずると成績が落ちていくことが多いのです。

 がむしゃらに勉強すると、一時的には成績が伸びます。でも、こういうがむしゃら勉強は、長くやると、人間としての狭さが出てきます。生きること全体と切り離されてしまうからでしょうね。

 阿部少年は、高校に入ってから勉強に興味が持てず、学校もつまらなくなりました。それで、自分から作曲の道に入ります。

 この人は、ほんとにマトモだったと思います。がむしゃら勉強の限界に、自然に気付いています。

 数学ができることも、難しい本が読めることも、それ自体は良いことだと思いますが、それ自体が良いことならその良さ自体を伝えていくのが、教育というものです。
 賞罰や競争で動機づけることは、人間を動物に貶めています。

 ちなみにこの阿部俊郎という人、悟りを開いています。ホンモノです。
 

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お前の兄貴はできたのに

 私の妹が中学生のときでした。担任が数学の先生でした。私もその先生に教わったことがありました。

 あるとき、その先生が妹に言ったんです。

「お前の兄貴はできたのになあ。お前も頑張れよ」

 それで妹が頑張ったかって? とんでもない。
 すっかり落ち込んで、数学嫌いになってしまいました。妹は理数系の頭脳じゃないけれど、そう頭が悪いわけでもなくて、声のかけ方、手ほどきの仕方しだいで、やる気はどうにでもなるようなタイプです。

 当たり前でしょ。「私は兄とは違います」、「どうせ、私はダメです」となるほうが普通です。

 その普通の感覚を持っていない先生が、昔も今もけっこういるんです。けっこうどころか、どうもたくさんいるんじゃないか。
 

 他人との比較で言われると、人格を否定された感じがするんですよ。これ、誰でも当たり前です。自分は自分で生きているんだから。

 人間同士の比較って、それ自体が暴力です。

 そういうと、「なんだ、極端なことを言うな」と思われるかもしれないけれど、会社で「○○くんはちゃんとできるのに、きみはねえ...」と言われて、「どうせ私は○○くんとは違います」と心の中で反発したり、「嫌みな言い方する奴だねえ」と反感を持つほうが普通だと思います。

 小学生以下くらいの子どもに、「誰々ちゃんをみてごらんなさい、ちゃんとやってるでしょ」と言えば、たいてい子どもがふくれっ面をします。

 どうしてそうなるかって、説明しますとね、感じ方も能力も全然違う他人を持ってきて、「あんなふうになれ」なんて言われても、やり方も感覚もまったくわからない。どうしようもないんです。実行しようのない結論を押しつけられているだけです。絶望的な気がします。
 「お前はだめだ」と言われた感じしかしないんです。

 数学をやらせたいなら、数学を親切に教えればいいんです。数学で褒めればいいんです。それを「お前の兄貴は...」なんて持ち出すから、落ち込ませちゃう。

 人間同士の比較って、それ自体が暴力です。

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よい競争と悪い競争

 競争的な教育が、浅薄な人間を大量に作り出しています。競争的な教育をやめるべきです。

 そういうと、「競争によって人間が磨かれる」という声が出てきます。
 もちろん、もちろん、そういう面はあります。競争のすべてが悪いわけではありません。

 よい競争は、相撲をとったり、鬼ごっこをしたりするようなことです。よい競争は、

 
   任意参加です。

   ゲームのルールが決まっていて、時と場所を限定して競争します。

   敗者を追い詰めません。

 でも、たとえば、学校で成績の順位を付けるのは

   任意参加ではありません。

   学校生活、家庭生活のすべてを巻き込みます。

   人格全体の優劣とみなされます。

 成績の順位付けは、ムチとニンジンで走らせる手段として使われています。

 「成績が悪ければ発憤するからいいのだ」
 ほんと? そういう人が何%いますか? それに、誰かが発憤したら、ほかの誰かがずり落ちるのではありませんか。
 勝者もいつずり落ちるかわかならい。そこで、みんなが走り続ける。

 みんなを走り続けさせるのが目的で、競争させているのですから。

 学ぶ動機付けとして、競争をさせる人はずるいです。自分は高見に立って、「みんな頑張れ! 負けるんじゃないぞ」と言っていればいいのですから。

 任意参加ならいいです。プロ野球球団ならいいです。レギュラー選手になれるのはほんの一握り。それを承知した上の入団した人たちであり、だめだったらほかの生きる道を探せる。そういう競争ならかまいません。大いにやればいいです。

 でも、普通教育に持ち込むべきではないと思います。とくに、いまの高校入試は、実質的に全員参加の成績輪切りをやっています。立場の弱い者まで、みんな巻き込んでいます。
 高校入試は、つまらない授業を維持するための支配手段になっています。「どんなにつまらなくても、ここで頑張らないと将来がたいへんなんだよ。」

 こいうことをやっておいて、「学ぶ意欲がない」、「自発性がない」。
 それは、あたりまえじゃないですか。

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学習指導要領、教科書検定、入試

 学習指導要領、教科書検定、入試、この三点セットが日本教育を狭い枠の中に閉じ込めていると思います。

 すべての教育をそんなに狭く限定しなくていい。もっといろんな教育があっていい。しかし、学習指導要領をなくすと、「入試の出題範囲が広がって競争が激化する」と怖れるのですね。

 現実は逆で、米国や、ヨーロッパの国々の例を見ると、授業内容も教科書も多様であるために、画一的入試を行うことが不可能になって、スキル重視や平常点重視になっていきます。

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