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2011年10月

いまの教育が唯一の形態か

 学校に強制的に来させて、机に無理矢理座らせて、決められた教科を教え込む。
 これは、訓練であって、教育ではないと思っています。

 私は大嫌いでした。なぜ、この非人間性を疑わないのかと、子どもの時は感じていたし、大人になったら考えました。
 こういう教育では伸びなかった子供たちをたくさん知っています。

 学校は、1人1人を大事にしていると言うし、決して一方通行の授業をしていないと言います。たしかにそういうことを学校と先生は考えているし、よい試みもあります。ときたまには、いい感じの教室運営もあります。
 でも、全体としては建前です。

 学校の様子を見ると、どんな試みも、個人的なもので終わっていきます。学校は規則と慣習でがんじがらめです。

 教育というのは、国家に起源があるのではありません。義務教育が普及したのは19世紀後半からです。人間がいれば、教育が存在するのです。
 教育は学術、文化そのものでして、法律や行政に内容を統制させると、しなびてしまいます。
 教育は、人々が担い、人々の間から自然発生するものです。寺子屋みたいなものや、遊び中心のものがあっていい。あったほうがいい。

 ホームスクールを含め、教育機関を作る自由と、選ぶ自由が必要です。

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黒板を消すのが早すぎる

 ある大学生が言っていました。

 先生が黒板で計算をどんどんやって、どんどん消す。ノートに写しきれないので、携帯のカメラを使って撮影する者が多い。
 そうしたら先生が、機嫌を悪くして、撮影してはいけないと言った。

 私が、「授業評価はやっているんでしょ」と尋ねると
 「やってます」と大学生。
 「そこに、先生が黒板を消すのが早いから撮影するのです、と書いて伝えたら」
 「あ、でも、書けないよ。授業評価も、点数に入っているから」

 そう、まあね。
 日本の教育風土では、なかなか伝えられないだろうな、というのわかります。

 「その先生、なんで学生が撮影するのかわかってないよ。伝えてあげるといいんだけどね」、と私は言いました。
 その先生、昨年もそうだったというから、学生は誰も事実を伝えようとしないのでしょうね。

 授業評価でよく思うのですが、半期まとめてやっても、効果は薄いです。学生は抽象的なことばか書いてきます。先生が黒板を消すのが早すぎる、というような一番大事な具体的なこと、がわからないのです。
 授業を良くするのは、「そこでわからなくなった」、「その図で混乱した」というようなことを、ひんぱんにフィードバックできることです。具体的なことがわからないと、改良しようがないです。

 それと、授業評価を評価してはだめです。ほんとうのことを書いてもらえなくなります。

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達成主義ではなく

 子どもが学ぶとき、あらゆる感覚を動員し、どうなっているかを自分で納得し、それを臨機応変に使いこなそうとします。これは、幼児が物事を学んでいるさまを見ると、よくわかります。

 でも、大人たちは、いつのまにか結論の塊になっています。この学びのプロセスを忘れてしまっています。
 子どもが、九九が言えたとか、難しい漢字を書けたとか、ご挨拶がちゃんとできたかとか、そんなことばかり見るようになります。

 そういう大人たちが教育をどうするかを決めると、何を達成すべきかの一覧表を作ります。

 教育は、いつのまにかその一覧表を達成することになってしまいます。
 学校は、その一覧表を教え込むために作られ、教師たちが雇われます。一覧表達成の、義務も、見栄も体面も生まれます。

 目標が先にありますので、どうしても教育は訓練的、注入的になります。
 子どもたちに、賞罰に訴えてでも、競争させてでも、結果を出させようとします。

 さらに、入試競争もあります。
 さらに、社会そのものが地位・序列と、競争でできています。子どもたちは、生き延びるための知識・技能だけをかき集めます。
 虫の動き、雨の音にも感動できていた子どもたちが、いつのまにか、点数を気にし、借り物の人生訓の丸覚えで生きるようになります。

 それで、結局、結論の塊である大人たちが育ちます。
 そして、ちょっと修正された一覧表を作ります。それもしょせんは一覧表です。

 悪循環が続きます。

 学びは、雨の音に聞き入ることの中にあります。自転車に乗れるようになる身体の動きの一つ一つの中にあります。言葉にならないたくさんの感情に、静かに浸ることにあります。
 教育は、一人一人の学びを援助し、保護することです。それは、一人一人が生きていることに対する気遣い、愛情の中から生まれてくるものです。

 集団訓練を基本とする近代義務教育と、入試による競争主義は、部族社会を乗り越え、近代産業を興すための必要悪だったと思います。その成果も大きかった。けれど、不安で攻撃的で、権威に弱い人間をたくさん生み出しました。

 そんなことをしなくても、われわれの社会は、幸福な個人と高度な科学技術を両立させられるだけの文化的成熟に達していると思うのです。

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教育の56年体制を抜けだそう

 日本の教育にとってもっとも不幸だったことは、文部省と日教組の闘いでした。これによって、学校運営から、教員と保護者を排除する仕組みができました。教育の56年体制です。

 それって、根本的におかしくないですか?

 学校の当事者は、いったい誰なのですか?

 学校の主役は生徒です。子役だからとバカにしてはいけません。生徒が主役です。学校は生徒が学び育つための場です。
 学校の当事者は、まず生徒、そして直接に生徒に関わる教職員、学校に教育を委任している保護者です。

 当事者を運営から排除して、「あなたたちは、決められた目標に向かって邁進してください。口出ししないように。しかし達成に協力するように」と言っているのが、現在の学校運営体制です。
 文句が出にくいから表面はうまくいきます。でも、問題が蓄積しては破裂します。

 当事者を抜きにして、どうして自律的な問題発見とその自律的解決ができるでしょうか。
 自分で問題を発見して解決することは、国語や数学の教科の中だけでなく、学校の当事者の生き方でなければいけません。

 生徒と、教員と、保護者をもっと信用しないといけません。学校に自治がないと、民主社会を担うことのできる人間が育たないのです。自治は体得しないと身につきません。

 文部省vs日教組の図式は、90年代には終わらせるべきでした。新しい発想が必要です。学校にもっと権限を委譲し、教員と保護者、そして年齢に応じて生徒を参加させる仕組みが必要です。

 大阪府議会に「大阪府教育基本条例」が出されました。これは、教員と保護者を運営から排除するのを強めようとするものです。教育の56年体制の枠の中です。

 教育は、生々しい場です。ものすごくたくさんの洞察と工夫なしにはやっていけません。「世を憂いる」人たちが抽象的な法律や行政権力でなんとかしようとするから、かえって悪くなるのです。

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大阪府教育基本条例について

 大阪府議会の「大阪維新の会」が、大阪府教育基本条例の案を出しています。

  この案は「教育に対して、政治に口を出させろ」というものです。あぶない、あぶない。

 教育の政治からの独立は非常に重要です。時の利害に過ぎない政治が教育を左右してはいけません。国家主義の熱狂ごときが教育を侵してはいけない。
 教育は、人格を育てます。その人格が、政治や経済を作ります。政治より、教育のほうが優位なのです。どういう人間を育てるべきかを、政治家や実業家が決めてはいけません。知事は選挙で政治代表に選ばれましたが、教育に関する識見で教育の代表として選ばれたわけではありません。

 しかし、教育委員会に関しては、橋下知事の言うことは的確です。
「教育もサービスなわけだから、保護者の納得するようなサービスにもっていくのが本当の政治。それができていないのは、今の教育委員会制度が原因」

 そのとおりです。教育行政は民意を反映しなければなりません。
 しかもなおかつ、教育は政治から中立でなければならないのです。

 そこでどうするかというと、政治とは別立てで、教育のための民意反映組織を作らなければいけない。それが、教育委員会の本来の発想なのです。
 教育を、市長や議会の利害にまみれさせてはいけない。教育は教育で、自分たちの代表を選んで運営してもらおう。そういう考えでアメリカで教育委員会が発生しました。現在もそうなっています。教育委員は、選挙で選ばれた住民代表なのです。

 日本の教育委員会はアメリカの制度を真似たものですが、実質はまったく違います。1948年の当時は公選制でしたが、1956年に教育委員会の公選制は廃止されました。
 教育は保護者に責任を負って行われるべきものだから、それを公選制で担保していたのです。その公選制をはずした日本の教育
委員会には、民意反映のルートがまったくありません。閉鎖的でお役所仕事が目立つようになった。教育は、おかしいと思っても、誰も変えようがない仕組みなのです。

 橋下知事の、教育委員会批判は正しいです。
 しかし、教育を政治の指揮下に置くのは、間違っています。教育が、首長の人気取りの手段にされます。政治的に過激な首長が現れれば、教育が振り回されます。校長たちが、知事や市長の顔色を見ます。

 改革の筋道は、教育を政治に支配させることではありません。教育と学校の自治が大事なのです。改革方法には、二つの道があります。

  ・ 公選制
教育委員会(アメリカ型)

  ・ 法律で学校自治の独立性を高める(ヨーロッパ型)

 
  私はヨーロッパ型が本筋だと思っています。教育の当事者は、生徒、教員、保護者です。現在の日本の、当事者を抜きにする発想で、うまくいくはずがありません。

 日本の教育委員制度が形骸化し、「中央集権無責任体制」ができていたことは、拙著「変えよう!日本の学校システム」に詳しく書きました。一読を頂ければ幸いです。

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