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2011年9月

学ばなくなる理由

 人が学ばなくなる理由、それは降り積もったたくさんの小さな恐怖が、たくさんの固定パターンを作っているためです。他にも学ばなくなる理由はありますが、これが最大だと思います。大人でも子どもでも同じです。

 私自身、高校生くらいまで、人の話を傾聴できていました。自分の考えの枠組みなしに、相手が言っていることの中になんの留保もなく入り込み、その話を成り立たせているバックグラウンドや、話す人の人格まで感じ取る。これをやっていれば、格別の努力なしに、物事はすうっとわかってくるのです。
 それは、自分の考えがないということではなくて、自分の意見をいう時がくれば、自分の意見はまたすうっと生まれてきます。

 でも、私も大人になってから、相手がしゃべっているときに自分の考え事をしているようになりました。「これは、こういうことだ、ああいうことだ」と。そうしたら、ほんとうに頭が悪くなりました。

 それは、外から見ると「鈍くて、人の話をよく聞いていなくて、型にはまっている」という状態なのです。そうであることを、自分でよく確かめました。
 他人の前で考え事をしている私の状態は、外から見ると、あの物わかりの悪い人と同じなのです。
 あの物わかりの悪い生徒は、私のあの状態と同じなのです。

 しかし、それは、なんとかしようと思ったくらいでなんとかなるものではない。
 でも、いったい、なぜそうなるのだ。

 クリシュナムルティが、著作でいろいろ教えてくれていました。この人は「ご自分で見つけないかぎり、見つかりません」ということを説き続けている人です。答えは用意してくれていない。あらゆる感情と思考を、どんな非難も正当化もなく観察なさい、それだけです。

 自分の観察を続けると、理由がわからないたくさんの悲しみ、憎しみ、がありました。悲しみや憎しみがなんであるか、ぜったいに借り物の説明をすまい、わからないまま持ちこたえようと思いました。何年かそうやっていました。

 そのうちにわかりました。いろんな感覚や感情が理解できてきたら、どのように思考が浮かぶのかわかってきました。

 なぜ思考が湧くかというと、怖いときや心細いときに、すでに知っている良いことを思い起こせば、安心できるからです。思考は、怖いときや心細いときに安心するための条件反射になっている。だから、同じことを繰り返し繰り返し考えている。

 ちょっとでも恐怖や不安があると、たちまちお馴染みの思考がわき起こって、恐怖を遮断します。それは条件反射になっています。そもそも、思考の動機を感じないために、思考がわき起こる仕組みなのです。ですから、思考の動機は、なかなか発見できません。

 これは、他人からだとよくわかるのです。「あの人は、怖がっているから、知識をひけらかしている」と。ところが、本人にはわからないものです。本人は怖がっていることを感じないために、しゃべっているのです。
 条件反射が多くなって、思考リピーターになってしまうと、人とも、事物とも、交流が不完全になり、トラブルが多くなる。それでいっそう恐怖や不安が湧いてくる。これが、学ばなくなる理由です。いっそう、抱え込んだ結論を大事にし、条件反射を強化します。

 これらの条件反射ができるのに、躾と教育が関係していることは、言うまでもありません。

 しかし、過去にできてしまった条件反射からどうやって自由になれるのか。
 自分自身への、十分な注意深さがあれば、この条件反射がほぐれるのです。それはまた、人から人へと伝わるものでもあります。
 十分な注意深さ、それは愛情と呼ばれるものでもあります。全面的な理解の光が差し込むとき、脳に新しい回路が出来るとしか思えません。

 子どもの小さな怯え、それに共感し慈しむことができるとき、子どもを助けているだけでなく、自分の中の頑ななものもほぐれていくのだと思います。

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結論を覚えるのではなく

 結論を丸覚えするのではなく、いつも理解と発見によって生きること。
 その重要性は、単に教科学習ではなく、一人一人の幸福と社会のあり方そのものにとって重要なのだと思います。

 われわれは、空虚さと恐怖から、
 けっこうな結論に身を寄せて生きています。そのため、夫婦であっても本当に心を通わせることは稀です。結論のぶつけ合いだけが行われているのです。
 
われわれは、空虚と恐怖から身を守るために、自己イメージを作ります。それは虚栄であったり、自己破壊であったりして、いっそう恐怖と孤独をつのらせます。
 われわれは、
結論を同じくする人たちと付き合い、合わない人を排除します。そのため社会は、狭い身内意識の壁で身動きのとれないものになっています。さらにわれわれは、イデオロギー、宗教、国家を信じ、集団に分裂して互いに争います。それが戦争の原因です。

 よい結論を身につければ、なんとかなる。そう信じて、私たちはいつも結論を探しては蓄えて生きています。 その結論が、お互いの間に立ちはだかる壁なのです。この生き方は、受験勉強で答えをたくさん蓄えたのと同じではないでしょうか。
 
 
子供たちが、どうやって虚栄や逃避を身につけていくか。どうやって、暴力的になっていくか。それが社会に何をもたらしているか。 そのことが見えたら、私たちのしつけと教育に、根本的な変容がはじまると思います。脅してでも競争させてでも知識や技能を身につけさせようとすることは、できなくなると思います。

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生きる力

 人間はたくさんの感覚を持っています。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚、熱感覚、運動感覚、平衡感覚、人格を認識する感覚・・・・。それらの感覚によって、世界と交感して生きています。多くの感覚を使って生きていると生命が充実している感じがします。

 生きる力を失っているときは、このうちのわずかな感覚しか使っていません。特定のイメージを作り出し、それにすがりついているのです。

 生きる力を取り戻すには、たくさんの感覚を使い、現在だけを生きるとよい。自然と親しむ、スポーツをする、人と親しむなどです。
 すべての感覚を使って現在のあるがままを知り、そこから行動しているとき、生命の充実感があるのです。これはエネルギーに満ちている子どもの生き方そのものです。

 しかし、われわれの文化、そして教育は、目標とそれに向かっての努力が万能であるかのように我々に教えています。何かを達成すれば力が湧くだろうと。
 その何かを追求しているうちに、われわれは目標イメージを模倣するだけになり、方式に捉われ、「現在」を見失ってしまうのです。

 そしてわれわれの文化と教育は、思考が万能であるかのように教えています。教師たちの多くは、権威ある教科書や書物の伝授者になることで、自分たちの立場を得ています。
 困ったとき、われわれは権威を求めます。権威者の言葉、本に書いてある言葉、家族友人の「こうすればいいよ、ああすればいいよ」という方式にすがります。そして、思考だけでなんとかしようとするのです。

 思考に頼るとき、われわれは現在のあるがままとの交感を失っています。思考だけが「自分」だと思い込み、独裁者の孤独と、被支配者の苦しみの両方を味わっています。
 方式は、技術的な方面では有効です。しかし、心理的な苦しみに関しては無力です。

 われわれが現在の教育を続けるならば、生きる力を失った人たちがたくさん現れます。われわれは、感覚を絞り込んで、特定の目標を達成することしか教えられていません。

 賞罰、野心、競争に訴えた教育は、たくさんの人間を不安定にしています。

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セルフ・エスティームを失うこと

 更新がとどこおりがちですみません。でも、アクセス数が意外と落ちていないことに驚いています。皆様に感謝しています。
 すでに書いたものを読み直していたら、自分でも「いいことを言う」と思うことに出会いました。「放射線、原子力、核兵器」の一部です。

> 教育だけが、人類を恐怖から解放する可能性を持っています。
> あまりにも単純なことです。子どもを恐怖に訴えて動かそうとすることをやめましょう。賞罰、競争、脅しに訴えた教育をやめましょう。子どもに対する、心ないド突きやからかいをやめましょう。

> 恐怖がないときに、人間は、事物とも他人とも、心を通わせて生きることができます。それは、欲しい物に目を血走らせたエネルギーではありません。理解と共感の中に、とてつもないエネルギーがあります。

 なぜ、恐怖があるのでしょうか。小学生のとき、そして中学生のとき、この問題と真剣に向き合っていたときの感覚を、想い出します。あのくらいの年齢は、実際に感じていることをごまかすのがうまくないのです。内面に嵐があるなら、その嵐のなすがままです。
 学校は、恐怖の場でした。学校の秩序はただの賞罰秩序で、なんの潤いもない。先生が見ていなければなにが起こるかわからない。

 なぜ恐怖があるのか、子どもの時はわかりません。
 私は、学校では適応できていました。明るく元気なほうでした。学校からは逃げられないから、そこで明るく生きるしかないのです。
 でも、一人になったときに、無価値感や寂寥に襲われる。そんなとき、押し入れに閉じこもるときもあるし、虫や草を相手にするときもあります。
 いまになると、その無価値感や寂寥をごまかさずに生きていたのは大事なことでした。それで、大事なものは失わないですみました。大事なものというのは、自己欺瞞なしに生きるということです。

 享楽的なものや強い刺激によって無価値感や寂寥を紛らすようになると、その人は偏見や先入観が多くなりますし、人とのコミュニケーションも独善的になりがちです。これは、子どもでも大人でも同じです。理想や将来像によって紛らすのも同じです。

 私も、大学生くらいになって、自分に対して言葉でいいくるめることができるようになったら、深い迷路に入り込みました。

 教育関係の仕事に携わって発見したことがあります。子どもの恐怖は、騒がしい行動が多くなるか、セルフ・エスティームの低下となって現れることです。
 小学生も、中学生も、生きるのがつらくなったとき、学校に問題があると思うことはできません。なにかトラブルがあると、自分が悪い子だから、と思うものなのです。これは、家庭生活でもそうです。親が悪い、と思えるのは中学生くらいの年齢で、それまでは、自分のせいだと思うものなのです。十歳にもなると、親に向かってずいぶんと憎まれ口をきくものですが、でも親への基本的な信頼は失っていません。

 小学生くらいまでの年齢は、依存の中で生きています。もし依存できる人がいなくなったら、親や先生がろくでなしの人間だと思わなければならなかったら、それはたいへんに不幸なことだと思います。

 子どもは大人を批判するかわりに、セルフ・エスティームを失ってしまうのです。子どもが自分はいけない子だと思っていたら、その子は恐怖に囚われているし、「忘れられた子」になっています。ほんとうのその子自身のほとばしりのところを、生きられなくなっているのです。
 「忘れられた子」に甘んじる子もいます。「問題児」のほうがまだましだと、トラブルを起こす子もいます。

 先生たちも親たちも、「よい子だったか」と「達成したか」に捉われすぎているのです。あるいは、他のなんらかのマニュアルに捉われすぎているのです。
 あるいは、ただ単に忙しくて子どものことを忘れているのです。

 生きる真実も、生きるエネルギーも、教育目標として実現することはできません。子どもとの現実の関係の中でしか、お互いの心の素早い動きの中でしか、見つけることはできません。「生きる力」を高所から言ってもしょうがないのです。
 セルフ・エスティームを失った子どもに、関心を注ぎましょう。いっしょに生きましょう、いっしょに戯れましょう。学校はたくさんの子どもを見ていてそれは不可能だというなら、見ることのできる人数にまで減らしましょう。学校に頼らずに、教育が街の片隅からでも生まれることが出来るようにしましょう。

 われわれが恐怖から解放されないかぎり、集団や個人間の闘争、憎しみ、殺し合い、からの解放は難しいのです。

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