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2011年6月

雑念と恐怖

 私は小心者で、ちょっとのことですぐに怯え、虚勢を張ったり、しどろもどろしたりする。他人の怯えや虚勢はよく見えるが、自分のものはなかなか見えない。

 もう60歳だ。時が経てば自然に成熟する、などということはなかった。相変わらずだ。このまま死ぬのも、しゃくだ。なんとかならないかと、他人が言うことを聞き、万巻の書を読んだが、みんな役に立たない。そんなことをしていてもしょうがない。自分の中で実際に起こっていることだ、自分で実物を見るしかない。

 内面に関しては、言葉にせずに観察すること。
 言葉に置き換えるときに、ほんとうに起こっていることを見失う。感覚、感情のほとんどは言語化不可能だ。言葉にするとき、浅薄になる。
 しかしそれは簡単ではない。私はすぐに、覚え込んだ言葉に置き換えてしまい、注釈をつけ、結論としてため込む。でも、何年もやっていれば、自分の言葉の檻の中に陽が差し込むこともある。

 それは、子ども時代の、感受性だけで生きていたときの再現でもある。

 そうすると、たくさんの条件反射があることが見つかる。恐怖があるときに、私は条件反射的に言葉を紡ぎ出している。「きのうのあの映画はおもしろかった」、「政府の対応はなってない」、その他ありとあらゆる、希望や正義や気晴らし。

 それらは、恐怖を感じないですませるための言葉なのだ。けっこうな言葉が反射的に出てきて、恐怖を感じることを防いでいるのである。だから、私はその言葉がわいてくる理由を認識できない。そのときは、よいことを思いついたとしか思っていない。

 それが、いわゆる雑念の正体である。
 恐怖だけではない、悲しみも、空虚感も、身体の不調も、雑念を引き起こす。ようするに、あってはならない感覚・感情が雑念を引き起こすのである。雑念というのは、それを引き起こした原因を感じないための条件反射である。だからなかなかその原因がわからない。

 雑念でいっぱいで、集中力がないし、コミュニケーションがうまくとれない子どもたちを見てご覧なさい。たくさんの感覚や感情がケアされないままになっている。
 ところがその様子を見ると、学校も親も、条件反射的にもっと恐怖に訴えて訓練するのである。目先の結果だけは出る。それで、訓練が万能の処方箋だと思い込んでしまうのである。

 愛があるときだけ、われわれは真実に直面できる。
 愛とは、どんな正当化も非難もないことである。

 いわゆる雑念でなく、信条、ドグマに頼るようになると、弊害はもっと大きい。~主義や、国家に安心を求める人たちは戦争を引き起こす。

 結果を出すことにとらわれた躾けと教育は破壊的だと思う。それは、子供たちを虚栄や攻撃性や逃避に追いやる。それが、個人レベルではさまざまな不安と恐怖を生み出すし、集団レベルでは戦争を生み出す。

 しかし、世を憂いる警世の言葉などにたいした意味はない。
 私の雑念が、ほんとうは恐怖や悲しみの条件反射で引き起こされていることを見る、そのとき真実探求の第一歩があり、いつのまにやら安心と幸福感がやってくる。
 そのとき、私は、生徒や家族に、すこしはまともなことができていいる。不思議なのだ。ふっとタイミングよくジョークがでたり、うまい説明を思いついたりする。
 社会に関しては、結論から始めるのは暴力の一種だ。自分の感受性と自分の周りの人たちからはじめたときにだけ、何事かをなしえる。

 子供たちが、どうやって虚栄や逃避を身につけていくか。どうやって、暴力的になっていくか。それが社会に何をもたらしているか。
 そのことが見えたら、私たちのしつけと教育に、根本的な変容がはじまると思う。自分の足下から始めると思う。私たちは、子供の感受性を大事にし、優劣意識を煽ったり、競争させたりはしなくなると思う。

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教科書検定制度が崩れる日

 福島原発の事故があり、原子力発電の安全性の神話が崩れた。電力業界と政財界の複合体制が俎上に載せられるようになり、発電と送電の分離が真剣に議論されている。

 こういう日が来るのだ。いくら盤石に見えても、おかしなものは、いつかは崩れる。
 それと同じように、教科書検定制度も崩れるだろう。おかしなものは、いつかは崩れる。

 国の力があり、金の力がバックアップし、寡占体制ができれば、理屈など後からついてくるものだ。
 原子力がそうだった。政策と財力がまずあって、あとから「安全だ」、「割安だ」という理屈がついていった。
 教科書検定も同じだ。法律の力があり、教科書無償制度があり、広域採択による寡占体制がある。「変な教科書ができるとたいへんだから」という理屈で守られている。変かどうかを決めるのは、使う側なのに。

 私塾をやっていてしみじみ感じた。教科書検定制度は、教育水準の向上を妨げている。
 教科書が、子どもの学び感覚に沿って作られていない。
 教科書の見た目は美しい、誤植もない、間違ったことはいっていない、しかし、センスが悪いのである。実際に使ってみて、はじめてわかる。せっかくいい図をつかっているのに、どうしてこんなにぎゅうぎゅう詰め込むのか。練習問題がステップを踏んでいないので、たくさん落ちこぼすではないか。はたして、本という形式でよいのか。英語で、なぜCDを生徒に配布しないのか。etc.

 教科書問題というと、歴史解釈をめぐっての問題ばかりクローズアップされた。そんなことより、使いやすい、センスの良い教科書がほしいのである。

 現代史で解釈がいろいろ生じるのは当たり前のことだ。それで、教育の奪い合いなどしないでほしい。教育を政治に従属させないでほしい。生徒には、各論にどのような根拠があるのか示して、考えるようにするのが教育の仕事であろう。生徒に結論を教え込むことではない。
 検定教科書があるから、国の解釈が生まれ、その奪い合いになる。

 教育は文化現象である。人間が生きることそのものから生まれてくるものである。教育を、国が人々を教化する手段に押し込めないでほしい。

 自由に作れば良い。採択も自由である。問題があるなら、自然淘汰されるものである。教科書評論家という職業ができて、さまざまな視点から評価すればよい。
 外国から内容に文句がつくなら、「我が国は、貴国と違って言論、出版の自由を保障している。」と主張すればよいではないか。

 「この教科書ならわかる」、という評価が生まれれば、教師たちは争って採用するに決まっている。そうすると、他社がまた新機軸を打ち出して、よりよいものを作りだす。くすぐり的なおもしろさの教科書が生き延びるとは思えない。どんどん競争させればよい。

 生徒を点数競争させてはいけない。生徒は商品ではない。
 しかし、商品は競争がないといけない。教科書は競争させるべきである。

 先進諸国では、教科書は自由出版自由採択が常識である。

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不登校とオルタナティブ教育

 不登校とオルタナティブ教育の関係について思うことが多い。

 日本の現実の学校は、ある年齢になった子供たちを集めて、知的なものと社会的なものを中心に、訓練を施すところである。
 それがが学校のすべてだと言ったら間違いになる。学校により先生によりさまざまな工夫がなされている。しかし、やはり学校の骨格は「訓練」である。

 ところが、実際の子どもは、さまざまな肉体的欲求、感情、で動いている。子どもは特に、よくケアされ、暖かい人間関係に包まれ、探索行動をバックアップしてもらうことを必要としている。大勢の子どもを預かっている学校で対応しきれない問題は非常に多い。

 そのために、学校という訓練的な場で、やっていける子とやっていけない子がいる。
 学校というのはそもそも集団の場であり、訓練の場なのだから、子どもがそれに耐えられるところまで家庭や地域でちゃんと育ててほしい。学校にそれ以上のことを要求されても、対応することは不可能である。それが学校側の言い分である。

 学校でやっていけない子が、先生たちには「その子が特別なせいだ」と見える。
 それはその通りではある。不登校の児童・生徒たちは全体の1%にすぎず、もともと学校生活に困難を感じるようなものがあったから来れなくなる場合が多い。

 先生たちには「家庭要因が大きい」とも見える。 
 家庭がしっかりした生活習慣と共感のある人間関係を作っていれば、子どもは家庭外でのストレスがあっても、を吸収できることが多い。それも事実である。

 保護者の側からすると、個別の教員や学校に問題があるためとも見える。行政からもそう見える。それも事実である。教育というのは、”人”の要素が大きく、児童・生徒と教員がもつれてしまったケースも多いのである。

 しかし、もともと日本の学校そのものが持っている問題があって、それが特に敏感な子たちに現れているのだ、とも考えられる。

 私は、そちらが事実だと思う。
 学校に適応しにくい子は世界中どこにでもいるが、1%もの不登校が生じているのは、日本に特有の現象なのである。
 子どもにも親にも普通の意味での問題はないが、子どもが学校に行けなくなる例も多い。
 教員の質だって、日本は高いほうである。

 現実に、不登校の数は12~13万人程度で横ばいを続けている。
 90年代に不登校の急上昇があったため、学校も行政も手を尽くしている。そして、総数の横ばいにまではなった。しかし、それ以上は減らないのである。
 不登校問題を子ども個人の問題、家庭の問題、教員個人の問題で済ませている限り、解決しないであろう。

 教育を狭く考えなくてもいいのではないか、学校が訓練の場であることを根本から見直していいのではないか、そういう教育観がある。
 世界を見渡せば、いろいろな教育がある。発想も方法も違う。
 子どもが自発的にやろうということだけで学校を作ってもいいではないか。
 そもそも学校なしでも、子どもを育てられるのではないか。
 そういう教育すら、世界に存在している。

 それらの教育は、オルタナティブ教育と総称されている。私は、オルタナティブ教育への道を開くことが、不登校へのもっとも根本的な対応だと思う。日本教育を根本的に問い直すものが実在しないと、日本教育は比較の対象がなくて、子どもと家庭と教員個人ばかりに問題を見つける。

 ただ、不登校に関して、長期と短期の両方の取り組みが必要であると思う。
 オルタナティブ教育を興すことは、不登校に関して長期的な取り組みである。一気にいい学校がたくさんできてくることなどあり得ない。

 短期的には、不登校を不登校として対応する、いろんな場が必要だと思う。公立でも民間でもなんでもいい。暴行・監禁等の人権侵害以外は、どんなやり方でもいい。いっさい、人々の創意工夫に任せたほうがよい。
 不登校は、原因もさまざま、解決もさまざま、としか言いようがない。いろんな人が「不登校はこういうものであり、こうすればうまくいく」と言う。しかしそれは、そういう例もあったと言うだけのことだけである。どんなやり方をしても、そのやり方に合わない子もいるし、やりそこないもある。「一律の道などない」、ということを前提にすべきである。

 どのような道でもよい、現実的に対処すべきである。そのために、学校に行かなくても、子ども1人1人に教育費がついてまわるような仕組みをつくるべきである。そうでないと、家庭で途方に暮れるしかない人たちがたくさん生じてしまう。

 そういう現実的な場と、長期的にオルタナティブ教育を興すこと、その両方が必要だと思う。

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生きる力を得る二つの道

 生きる力を得るやり方に、大きく言って二つある。

 一つは、何か特定のイメージを持ち、それを実現しようとすることである。努力と獲得と言ってもいい。実現したときの興奮は大きい。その興奮を味わおうと、繰り返しチャレンジが行われる。
 多くの学校の教育者が、これだけが生きる力を得る道だと信じ、このタイプの生き方を生徒に身につけさせようとする。

 もう一つの生きる力を得る道は、特定の目的に絞り込まず、感受性を開け放って流れに身をまかせていくことである。あらかじめイメージがあるのではなく、まず事物や人との関係があって、その中できらめくものに招かれている。
 子どもが何かをおもしろがって夢中になっているのは、これである。突然絵を描き出したり、虫や草と飽きもせず戯れているのがこれである。

 子どもが疲れると、親の膝の中に入り込んで眠るのもこれである。ほんとうに流れに身を任せている。だからエネルギーがわくのである。

 いわゆる「クリエイティブ」な生き方は、後者である。その中に、常に新しいものがわき出してくるからである。
 明晰さも、後者に属する。物事が、あるがままに見えるからである。

 学校教育では、目標と努力だけが生きるエネルギーをもたらすと信じられている。しかし、ちょっと冷静にみれば、それは、欲望をかきたてて生きる道ではないか。
 「目的に向かってひたむきになる」ことは「欲望に目がくらんで他のことが目に入らない」ことでもある。

 ”教育者”不在のためだと思う。教師たちは、特定の目標を達成するために雇われ、給料を払われているのである。
 クリエイティブな道をとったら、期日までに指導要領を達成させられるかどうかわかりはしないし、テストのことなどそっちのけでクラス中で家作りを始めるかもしれないのである。

 しかし、既存の道に反発しただけで、クリエイティブになれるかというと、そんなものでもない。「自由」とか「生きる」とかのイメージに目がくらみ、言葉に酔ってしまえば、それは欲望の道である。美しい結論が先行して、それによってしかモノが見られないなら、ただの愚鈍である。

 だが、クリエイティブであることは、別に難しいことではない。子どもを見ればそれがわかる。自分のイメージと思考に酔ってしまわず、事物と交感できれば、たちまちクリエイティブになれるのである。
 こどもはまだ、肉体感覚と感情をそのままに生きている。言葉が介入して、いつも他人と比較したり、特定のこと以外に目を向けないようにはされていないのである。

 もちろん、大人でないと使いこなせない知識も技術もある。それを子どもに伝えることも大事なことである。それがないと子どもは、この世界とうまく噛み合えない。
 具体的なところでは、目標と努力はもちろんある。もっとおいしいカレーを作ろうとして工夫するのは、当然のことである。

 だが、教育の根本を「目標を立て、それに向かって邁進すること」に置くべきではないと思う。それは、一面で有能さを育てはする。しかし、その同じカードの裏には「欲に駆られた愚鈍な人間を育てる」と書いてあるのである。そして、挫折して無気力になったたくさんの若者を生み出すのである。

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