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2011年2月

全員参加復活は無意味 文科省学力調査

 文部科学省が、全国学力テストを数年に一度、全員参加方式にすることを検討しているという。
 朝日新聞
 産経新聞

 また、亡霊の復活だ。
 なんのメリットがあるのか理解に苦しむ。

・ 全国学力テストには現在も任意参加することができる。自校または各自治体の全国での位置づけや、経年変化を知りたいなら、任意参加すればそれでよいことである。

 これだけで、全員参加を復活させない理由は十分ではないか。現実に7割程度の学校が学力調査に参加しているのである。参加しないところは、それなりの理由があるのだから、それを尊重すればよろしい。

 文科省学力調査を全員参加とすべきでない他の理由もあげよう。

・ 学力レベルとその要因分析をするためなら、抽出調査で十分である。

・ 各県には、独自の学力調査がある。このほうが具体的で、どうしたらいいかがわかりやすい。これは秋に行われ、やったことの結果を授業に反映できる。文科省調査は4月である。

・ 文科省学力調査の内容は、「結果がこうだからこう対応する」という対応を検討するのには向かない。A問題はあまりに基本的であり、B問題はあまりに教材と離れている。文科省調査は、「自分の位置を知り、切磋琢磨」には、向いていないのである。マクロな分析はできだろうが、それは抽出調査で十分である。

・ 過度の競争をあおる。素人の首長が点数にとびついて干渉するためである。教育のうち、数値化が可能なのは、ほんの部分にすぎない。しかし、素人は数字に飛びつく。 

・ 教育の価値観を一元化させることになり、危険である

 教育は文化現象である。
 どうやったら美味しい料理を作れるかとか、どうやったら全員参加の劇を上演できるかとか、そういう次元の話なのである。
 それは、学問であり、芸術であり、技術であり、生き方なのである。
 官が基準を決めて全員に達成度を競わせるなど、まったく向いていない領域である。

 「切磋琢磨で全員向上」、これが亡霊である。発展途上国日本の教育に取り付いた亡霊である。
 競争で全員向上などするものか。競争は、一部の上澄みを得るのに向いているのであり、全体としてはストレスと落伍者だらけにしてしまうのである。
 「切磋琢磨で全員向上」に走る人たちは、ほんとうの指導力を持っていない。競わせて結果を出させようとするなど、卑しく、安っぽい。

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「何かになること」の影

 また、間をあけてしまいました。多忙と体調不良でした。

 先日電子辞書を買ったら、おまけで日本文学300選というのがついていた。その中に、太宰治の「東京八景」があった。ひょいと読んでみたら、思うところが多く、書かずにいられなくなった。

 太宰治というのは、どうせ、感傷と自己憐憫なのだろうと思って、食わず嫌いをしていた。
 読んでみたら、そうではなかった。醒めた目と的確な表現力も持っている。この「東京八景」は、いま、引きこもりをしたり、リストカットをしたりする若者たちが抱える「アレ」について書いているのである。生きることのどうしようもなさを、的確に描いている。
 「アレ」と言っていてもしょうがないのであるが、「アレ」がなんであるか簡単に説明できるくらいだったら、才能ある小説家の作品を引き合いに出す必要などない。ようするに、引きこもったり、リストカットしたり、自殺したりするしかしょうがなくなる「アレ」である。

 話は、東京の大学生になった筆者が、政治運動にかかわり、拘置され、学業は進まない。留年を繰り返し、「来年こそは卒業するから」と実家に頼み込んでは生活費をせびる。絶望的になったときに、女と心中を図り、自分だけ生き残る。卒業もできない、就職もできない。その後も借財、薬物中毒などを繰り返す。そういう顛末をさらりと書いているのが「東京八景」という作品である。

 太宰治は無頼派と呼ばれることもあるようだが、そうではないと思う。もしこの人がほんとうの無頼派だったら、自殺しないで済む。居直れない人なのである。太宰治は何度も自殺未遂を繰り返したあげく、けっきょく自殺した。あまりに真面目であるため、動きが取れなくなる。なんの申し開きをできる立場もない。逃避したり場当たりをやったりするが、悪人になりきることもできない。

 こんなエピソードがある。
 檀一雄と太宰治が熱海の旅館で支払いに困り、檀一雄を旅館に人質に残して太宰が東京の井伏鱒二のところに借金にいった。壇は、待ってもいっこうに音沙汰もないことにしびれを切らして井伏のもとに駆けつけると、太宰と井伏の二人はのん気に将棋を指していた。太宰は今まで散々面倒をかけてきた井伏に、借金の申し出のタイミングがつかめずにいたのであった。激怒しかけた檀に太宰は「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」 と言ったという。
 借金の申し出ができない。気が弱いのである。

 なんの申し開きもできないこと、なんの立場もないこと、自責と逃避を繰り返すこと、それが「アレ」なのである。したがって、「アレ」で苦しむ人たちは、立場を表現できない。表現できるくらいなら、なんとかなっている。
 ときたま、才能ある芸術家が現れて、いささかは表現したりする。

 こういう溝にはまって身動きできなくなるのは、個人の資質と心理的な問題だと思われている。たしかにそれも一面なのだが、大きくは社会問題なのだと思っている。
 やはり、社会規範に柔軟性がなくて、生き方の自由がないところに、「アレ」が発生しやすい。 

 太宰治の一族は、青森県下有数の大地主。父は貴族院議員。太宰治は出世栄達の一族である。旧制高校を出て、東京大学に入学する。たいへんなエリートコースだ。大きな期待を掛けられている、かんたんに見捨てられることもない。だから、はずれるにはずれられなくなる。

 世間には、親戚一同がみんなエリートで、東大にいくのが当たり前というような一族がいたりする。そうすると、その中にかならずドロップアウトが居て、一族の汚点みたいに思われていて、ひた隠しにされたりするものである。
 それは、陽のあたる一族の影の部分を生き抜く人なのだと思う。生きることの局面は広い。出世栄達だけが人生ではない。失意、自堕落、享楽、無能などもまた人生である。
 「このようにならなくてはならない」という要請の強いところは、それに応えられない人がかならず現れる。その人は、陽のあたる一族の、影の部分を生き抜いている。

 心理学者のユンクが、「影」ということを言っている。なにか立派な価値観があると、それにともなって「影」が生じるということである。「影」は個人の心の一部としてもあるし、集団の一部成員としてもある。

 いまの教育体系そのものが、「なにかになる」ことを前提にしている。ほんとうの探索と発見の援助になっていない。そうすると「影」ができやすい。

 太宰治は、社会的体面を保って生きる人たちの「影」の部分を生きたのだと思う。
 いま、引きこもりや自傷行為に入り込んでいる人たちも同じだと思う。彼らは、この社会が作った「影」の部分を生きているのだと思う。

 ほんとうに探索の自由と感受性を保っていれば、「影」などできないで済むのである。しかし、教育が「かくなるべし」を中心にできている。「かくなるべし」の社会と教育は、それが明るいほどに暗い「影」を作る。多くの人が苦しむ。

 「達成」や「目標」ではなく、自由と感受性と共感の教育があればなあ、としょっちゅう思うのである。少なくとも、義務教育の年齢では、もっともっと個人にたいして援助的であるべきだ。
 社会で生きるには、もちろん職業教育も、社会規範を知ることも必要だ。しかし、生きることの土台があれば、それがすべてではなくなる。その中で軽やかに生きたり、あるいは社会変革を目指したりできる。

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