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2010年12月

クリエイティブであること

 グレン・グールドというピアニストがいる。どうしてこういうピアニストが育ったのか、クリエイティブであるとはどういうことであるかと、いろいろ考えることがある。

 むかしグレン・グールドを聞いたときにはさっぱりわからなかった。どうしてこのピアニストがそんなに高く評価されるのか、理解できなかった。

 先日、グレン・グールドの弾くバッハのゴールドベルク変奏曲を聞いた。ただ耳にすうっと入ってきた。ああ、そういうことだったのか、そういうことだったのか。ただただ、納得できた。

 すばらしい、とか、すごい、とかという形容詞がちょっと違う感じがする。そうではない。めちゃくちゃに指は動く、テクニックはすごい。しかし、誇示している感じがない。謙虚だ。グレン・グールドの基本は静寂であり、静寂の中に音を響かせる。

 親しみにくい音楽ではない。情感に溢れている。しかし、感情に訴えて感動させようという音楽ではない。集団的熱狂とほど遠い情感である。たぶん、人類はこれから、このような情感を発達させていくのだろう。

 そこにはただただ感受性があり、一音一音を確かめながら、つねに創造の泉から音楽を湧き出させているのである。
 だから、グレン・グールドの演奏は、そのたびごとに違う。時期の違うレコーディングで、まったく違った演奏になっている。彼は、特定の型を修得してそれを実行しているのではない。

 グレン・グールドは教え込まれたパターンを磨き上げているのではなく、いつも音楽そのものの源泉と接触している。自分で音の必然性を見つけ、その必然性を追い続けるのである。拍手喝采されたら、そんなことはどうでもよい、バッハが何を言いたいのかあなたに伝わったかどうかだけが大事なのだ、と彼は言うに違いない。彼の音楽家生活の後半、演奏会を行わず、録音のみで活動したということも理解できる。

 宇宙探査機ボイジャーが太陽系を超え、宇宙生命に出会ったときのために人類の最高の文化を積み込んだ。そのなかに、グレン・グールドのバッハのCDがあったという。なるほど、それは納得できる。当然だと思う。

 グレン・グールドの伝記は読んでいないし、生涯についてあまり知らない。
 だが、この人を育て上げた教師がいないとことは、音楽を聞いていて歴然とわかる。権威主義の痕跡がみじんもないからである。もちろん、ピアノと音楽を教えた人たちはいるだろう。しかし、いわゆる、師事らしい師事というものはないであろう。そうでないと、この自由度の高さは説明がつかない。
 グレン・グールドは忽然と現れた。流派とか影響とかのもとに生まれてきてはいない。こういうピアニストを育てようと意図した人間はいなかったであろう。

 しかし、グレン・グールドをはぐくんだ人はいるであろう。おそらく、母親が優しい人だったのだろうと思う。一音一音の中に全世界を感じ取れるだけの感受性は、それを理解し護る人間がいないと、容易に世の波風にさらされて萎れるからである。規則や賞罰とはまったく違う秩序を維持してくれる人がいないと、自分の感覚を生き抜くことは難しい。

 クリエイティブなものを護り育てる秩序は、暴力的なものと無縁である。クリエイティブなものを護り育てる力は、愛とか優しさとかいう言葉で表される。その秩序の中で、すべての感覚と知性が動き始める。

 世の中は、あれやこれやを教え込みたい人たちで溢れている。教育はそれによって動かされている。しかし、それは暴力なのだ。結果を押しつけるものはみんな暴力だ。私にはそう感じられる。

 なにかが生まれる泉がある。子どものときは、誰でも知っていたはずだ。その泉の水を飲むと、物とでも人とでも、それ自体の美や性質に魅せられ、それと戯れることができる。この泉は、恐怖がないときに現れる。その泉と接触し続けること。そうすると、世界は達成や評価ではなく、美と驚異になる。その泉から飲むことを助けるのが、教育の為し得る最善だ。
 音楽家グレン・グールドは個人としての才能がなければ現れない。しかし、あのように、自分の感受性すべてで物事を捉え、一瞬一瞬の中から世界を生まれさせることは、誰でも、日常生活の中で可能である。

 大事な大事な子ども時代を、子ども時代として護ること。子どもを賞罰と達成競争の中に投げ入れないこと。

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愛について

 大きな大きな法則がある。

  人は、愛してくれる者のところにやってきて、愛してくれる者の言うことをきく。

 では、愛とは。

  愛とは、あるがままを認めること。
  あるがままを、どんな言葉にもよらずに感得すること。

 だれかが何かを私に教え込もうとして、その人が私のあるがままを認めていないなら、どうして私の耳と心が開くだろうか。
 その人が、私の能力と点数しか見ていないなら、私をいかに成功させようとも、私の心は暗闇に閉ざされている。  

にほんブ

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自分の利己主義に気づかないこと

 われわれの最大の教育問題は、自分の利己主義に気づかない人間を大量に育ててしまうことである。
 自分は高尚なことをしていると思っている人間の利己主義が、やっかいなのである。

 他人を支配したがる人間は、自分の動機に気が付いていない。かならず高尚な目的や正義の名のもとに、他人を動かそうとする。「目標に向けてがんばりましょう」。「全員一丸となって取り組もう」。
 ようするにあんたの思ったように他の人を動かしたいのでしょ、と思うのだが、ところが本人は目的や正義のことしか見えていない。

 規模が大きくなったときが怖い。ほんとうはちっぽけな人間たちが、政治党派、国家、宗教などと一体化して自分は神聖なものの一部であると主張する。そして、他人にも服従と献身を要求する。これは社会にとっての災厄である。戦争の最大原因である。しかし、それが巧妙な利己主義であることが、なかなか気付かれにくい。

 「愛」、「思いやり」、「個性尊重」、などなどを長々と立派にしゃべる人たち。他人からは自己顕示欲が見え見えだが、本人は立派なよいことを伝えたと思っている。
 他人は、「ああ、またか」と思っているのだが、本人は気づかない。
 
 急に結論に飛ぶことをお許し願いたい。ただの善悪や道徳の問題に行きたくないのである。
 自己認識が伴わない人たちは、自分の肉体とともに生きる感覚を失っている。それが自分の利己主義に気が付かない原因である。感覚、感情からは利己主義に陥ったときの不調和を知らせるシグナルは出ているのだが、それを感じ取れないのである。
 ただし、不調和を知らせるシグナルは、なんらかの不快な感覚として出てくるから、大きな愛と配慮の下に育てられないと、感じることを拒否する方向に行ってしまうのである。そして、無感覚と利己主義が生まれる。

 これは、知識と技能に偏重したわれわれの教育に大いに責任がある。われわれは、子どもの、悲しみ、孤独感、無力感、などを慈しんでいないのである。われわれは、子どもが何ができたかにしか関心がない。
 逆に言えば、われわれは、教育によって、人間の感覚と意思を調和させることは可能なのである。感受性を殺す教育をしてはいけない。頑張らせ一方の教育をしてはいけない。

 無意識とは、不思議なからくりで働きかける、われわれにはどうしようもない脳の仕組みだと思われている。そうではない。言語外の情動として働きかけてくるのである。感受性が発達していれば、認識できる。

 支配欲や自己顕示欲は、言葉の形では存在していない。それは感情・感覚なのである。だから、言葉とあまりに一体化している人間には、認識の網にひっかかって来ないのである。自分の動機が無意識の領域に入ってしまう。
 とくに、支配欲は複雑なプロセスであるが、恐怖が根本にある。まず恐怖があり、恐怖を恐怖として生きることができないために、「あるべき現実」が作られ、その鋳型に他者をはめこもうとするのである。これが恐怖から逃れるための条件反射になっているのである。
 けっして他者に働きかけること自体が悪いわけではない。しかし、恐怖から発した他者支配は、独りよがりで、他者の尊厳に気づいていないから、利己的なのである。

 教育が知識と技能に偏重して、「あるがままはどうなっているか」、「人間の中でなにが起こっているか」に注意を向けさせないことは、大きな問題である。
 とくに、集団授業で、長時間にわたって、生徒を机に座らせ一方通行の授業をしていることは、生徒の感覚を狭めさせただの言語存在にしてしまいがちである。答えが合っていればすべてよし、点数がとれればすべてよしになってしまう。

 人間の感覚、感情、そしてなによりも、「いま、ここに生きている」という感覚。これが人間を利己主義から引き戻すし、さらに愛と理性への道を拓くのである。

 教育は、現在のように事務所的、工場的なものでなく、より家庭的で、より多くの活動を含み、より人格交流的なものになるべきである。

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子どもの”夢”

 子どもに”夢”を語らせることが多い。

 「将来の夢」と先生に聞かれると、消防士とか、電車の運転手、とか看護婦とか言う。

 儀式さ、と思う。
 子どもが、受け入れられそうなことの選択肢の中から選ぶ。大人はそれを期待している。それはそれでよい。だから悪いということもない。子どもがウソをついているということでもない。そういうときは、そういう答えが出てくるものだ。

 でも、儀式さ。

 子どものほんとうの夢って?
 たぶん、いちばん的確に描き出しているのは、マンガの世界だろう。

 ひさしぶりに「少年ジャンプ」を読んだ。けっこうおもしろかった。こども、と言っても小学校高学年から中学生くらい、が教室の中が白日夢にふけっていて、それがどういう内容かというと、だいたいマンガの内容みたいなものを織りなしているものだ。

 それを表現することのできる者が、マンガ家になる。マンガの世界はいい。どんな経歴も、権威も通用しない。おもしろければ評価される。つまらなければ捨てられる。

 マンガの世界は暴力また暴力だ。そこで勝ち残ること。スーパーパワーを得ること。それでも強い敵が現れる。それをまた打ち破るスーバーパワーを得る。「ドラゴン・ボール」がよく表現していた。はてしない闘いの世界。

 あまりの暴虐に、正義への思いを燃え立たせること。そして力の塊になること。

 ユニークなキャラクターたちとチームを組むこと。そして敵と戦うこと。

 共通しているのは、主人公がなんらかのスーパーパワーを持っていること。あるいは、ドラエモンのようなスーパーパワーがついていること。それなしに、どうして白日夢にふけることができよう。

 そして、機知、諧謔、ユーモア。

 マンガの世界は、子どものほんとうの心をよく表している。暴力の世界は、葛藤があることの表現なのだ。マンガのなかのさまざまなスーパーパワーが子どもの夢なのだ。それは、子どもの無力感が映し出す絵巻物である。

 でも、子どもの夢はそれだけじゃない。まだ奥がある。
 知人の心理学者が言っていた。
 「男の子の考えていることって、女の裸を見たい一心ですよ。」そうだ、そうだ、その通りだ。よくぞ言ってくれた。
 でも、子どもは言えない。「僕の夢は、女の人の裸を見ることです。」言えるものか。
 大人向けのマンガ誌は、これをよく表現してくれている。でも、少年マンガ誌では無理だ。

 そのような、ほんとうの夢の世界。

 そして、学力がどうのこうのとか、子どもたちをいかに導くかの世界。いわゆる「教育」の世界。
 あまりにかけ離れている。

 ほんとうに教育されなければならないのは、教育と言うと語弊がある、愛と慈悲と知恵の限りが注ぎ込まれなければならないのは、この暴力とセックスの世界なのだ。

 ほんとうは、われわれは暴力とセックスにしか希望をいただいていない。あとのことは、パーティーに顔を出すための衣裳のようなものだ。
 賢い者ならば、露骨な暴力は振るわない。権威・権力の形で手に入れる。しかし、その権力もセックスも、じっさいに手にいれればパワーでも神秘でもなく、つかの間の興奮を伴う策略と労苦だ。それでも、失望しても、失望しても、われわれはそこに戻ってくる。

 違う?

 われわれの新聞を見たまえ、ニュースを見たまえ、TVドラマを、映画を見たまえ。どこを見ても暴力とセックスだ。それを下品よばわりして、しかも自分の秘かな快楽を持つこと。それが大人の精神生活だ。

 じゃあ、どうしたらいいのか? たぶん、そう尋ねられる。
 方法などあるものか。われわれは小利口に生きようとして、知識と方法の中に閉じこめられている。それで、暴力とセックスに誘われる。われわれは、自分を牢獄に囲い、それからその牢獄を破壊してくれるものを切望する。

 もうじきPISAの結果が発表される。いろんな議論が起こるだろう。それに意味がないわけでもない。

 でも、学力論議など、子どもの「夢」の世界とかけ離れている。あまりにかけ離れている。
 美も愛も、ほんとうはすぐ近くにある。それを子どもに伝えることもできる。誰だって、小利口さだけで生きているわけではない。
 真理も明晰さも、ほんとうはすぐ近くにある。わからないことはわからないと言えることの中にある。

にほんブ

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