« 2010年10月 | トップページ | 2010年12月 »

2010年11月

もしも私が小学校を作ったら(2)

 学校がよいものになるかどうか、とにかく教師次第である。どのような教育方法を採用したとしても、たとえサマーヒルタイプの自由学校だったとしても、教師が最大の要素である。
 もしも私が小学校を作ったら、誰を教師に雇用するかの選考に、全力を挙げる。ただし、自校で人事権を持つ私学タイプの学校とする。

 理論上は解雇可能な私学だとしても、いったん雇った教師は、よほどのことがない限り解雇はできない。採用にあたっては、結婚相手を決めるくらいの覚悟が必要である。

 ペーパーテスト的能力は、大学を卒業する程度あれば十分である。大卒資格があればそれでよく、あらためて試験はしない。教員免許はどうでもよい。

 志願者には、まず、採用担当者を相手に模擬授業をやってもらう。自分が得意の授業と、指定された課目を時間内に準備して行う授業の両方をやってもらう。

 次に、採用担当者を保護者と見立てて、採用担当者との面談をやってもらう。いろんな無理難題に対しての対応能力を見る。

 次に、一日、副担任としてどこかの教室に入ってもらう。子どもを指導することも、子どもと遊ぶこともしてもらう。翌日、子どもたちに、どういう先生だったか感想を尋ねる。担任の判断と、子どもたちの感想を総合する。

 以上で、仮採用するかどうかを決める。
 仮採用した人には、十分な給与を払い、1ヵ月間、副担任をやってもらう。あらゆる局面での対応能力を見る。
 子どもが読めるかどうか、子どもとコミュニケーションを取るのがうまいかどうかを、最大の判断材料にする。
 その上で、採用を決定する。

 採用後、1年は副担任をしてもらう。飛行機の操縦士が、副操縦士としての経験を積むのと同じである。
 なお、私が作る学校では、クラスは常に複数担任とする。一人は主として教科を担当し、一人は主として生徒の日常や生活状況に対応する。

 校内組織で、主任制度のようなものは設けない。誰が指導的立場になるかは、時と状況により変化するものである。柔軟にプロジェクトチームをつくる。

 私が作る学校では、教師が生徒を脅すこと、侮蔑することは許さない。「何やってるんだ」というような表現が飛び出してはいけない。
 とはいえ、誰でも長年の習慣で、気が付かずに脅したりバカにしたりしているものである。これは、研修会や、現場で、指摘し合い、学び合ってもらう。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  ブログランキング投票用バナー

| | コメント (3) | トラックバック (0)

もしも私が小学校を作ったら(1)

 もしも私が小学校を作ったら、子どもにとってどのような活動が必要かを最優先させるだろう。どの教科を何時間教えるかを先に決めることはしない。

 子どもたちは、体を動かし、探索し、互いにじゃれ合うことを切実に必要としている。それが満たされるところでこそ、子どもは育つ。なによりも、脅しと辱めのない場が必要である。安心が、すべてのカギである。

 国語、算数、理科、社会がまずあるのではない。子どもにとって充実した学校生活がまずあり、その中に教科をはめ込むだろう。

 もしも私が小学校を作ったら、子どもたちには大幅な自由時間がある。それは、放任ではなく、教師は常に子どもたちの様子を観察し、子どもがやっていることを認め、援助している。ときには、トラブルの解決にあたる。
 何も言われなくてもやりたがることの中に、それぞれの子どもの天性の資質がある。自由時間の中で、子どもと付き合い、子どもの資質を見抜くことが教師の重要な仕事である。 

 工作や料理の時間がたくさんある。子どもが手を動かすことが大事だ。その中に観察や実験がふんだんにある。教師はスキルを示し、手ほどきするが、決して点数をつけたりはしないし、子ども同士を比較したりしない。

 演劇は正課である。演劇といっても、ごっこ遊びの発展したようなものだ。社会性の発達を促すのは、演劇がいちばんである。ほうっておいても、子どもたちは、テレビドラマの一場面を演じたり、キャラクターになりきったりをやっているものだ。演劇において、台本のある場合と、子どもの発意に任せる場合は、うまく組み合わされる。

 体育は、何かを出来るようにさせることより、自分の身体の感覚を掴むことに重点がかけられる。自分の身体に対する感受性を持つことが、知恵のはじまりである。

 低学年なら、教科らしい教科は、国語と算数だけにする。机に向かう教科学習は、一日2時間くらいでよい。一斉授業、グループでの学び合い、個別の学習は、適宜組み合わされる。
 教科学習は、一日に何科目も教えない。2~3週間国語なら国語だけ、算数なら算数だけにする。子どもが目まぐるしく頭を切り換えなければならない状況を改善する。

 練習が必要なものもある。計算、漢字書取などは、コンピュータやプリントをつかって、一人一人個別に、適切な進度で、適切な分量が与えられる。

 学習指導要領は参考にするが、法的拘束は解いてもらう。学習指導要領を、そんなに絶対視すべきではないと思う。

にほんブ

ログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  ブログランキング投票用バナー

| | コメント (1) | トラックバック (1)

熟議民主主義

 ”熟議”という言葉がある。この4月から、文科省が「熟議カケアイ」というサイトを作って、だれでも参加して討論できる場を作っていた。「政策創造エンジン」という副題がついていた。
 文科省が、もっとも重要なことに手をつけた、と思った。

 私も参加してみた。
 おもしろかった。質が高かった。質が高いという意味は、専門的レベルということではなくて、いろんな人が本音でかかわっているということである。「え? それはちょっと、独善的じゃないかな」という意見があると、かならず誰かが本音の質問を投げかけていた。良識というようなものが、自然発生していた。

 文科省がはじめて、本気で教師や保護者の声に耳を傾ける姿勢を示した。つまり、参加者資格を一切問わずに、参加できた。
 現場の実情を訴える人たち、公式的なことを言う人たち、奇抜なことを言う人たち、素朴な実感派、みんないた。そうしたら、ちゃんとバランスがとれていた。「お利口さん」だけが発言しているのではないところが、また実によかった。
 ヤラセ公聴会みたいなものではなかった。

 この熟議を主導していたのが、鈴木寛という副大臣である。政策通であるが、実際に、大学で先生をやってきていて、実際に若者たちと語り合い、そのエネルギーを引き出すことを知っている。
 彼は、教育の最大問題が、あまりにシステムができすぎていて、人々が窒息してしまっていることだということを、よくわかっている。イワン・イリイチの「脱学校論」まで引き合いに出して語る副大臣がいることには、びっくりした。
 こういう人間が文科省の中枢にいること、いろいろ経緯はあるのだろうが、やはり危機が感じられる時代だからと思う。

 国家財政は、あと十年と持つまい。それは、だれでも単純計算できる。社会全体が大きな変革期にある。
 しかし、教育さえなんとかしてあれば、社会は保つ。

 鈴木寛が十年くらい前に、「私だったら、地教行法をまず変える」とどこかの雑誌で語っていた。日本教育のネックが「地方教育行政の組織および運営に関する法律」(通称:地教行法)なのだということを見抜いている稀な人間だった。
 現実には、鈴木寛は「コミュニティ・スクール」というもっともマイルドな方法で、「地教行法」の構造変革に手を着けていた。

 「地教行法」の何が問題なのか。
 教育のほんとうの当事者である教師と保護者を閉め出してしまい、官僚運営体制を作ったことである。だから、実情が把握できなくなるし、絵空事が流行るし、解決策がポイントをはずす。

 私は、マイノリティ保護とオルタナティブ教育が鍵だと思って、町の片隅でできることをしていた。教育談義は聞き飽きていた。みんなが、行政機構を通じて、自分の理想の教育を実現しようとするのである。それが、教育を悪くする。
 とにかく、意欲的な人たちが試行錯誤できる道がないと、教育談義ばかり流行る。

 しかし、人々が話し合える文化が育っていないと、どんな地方分権も、規制緩和も、学校自治もうまく機能しない。「熟議」を広めて、草の根の意見が芽を出せる道を作ろうとしていること、正道だと思う。
 「熟議」を機能させるのは簡単ではない。いろんな問題も出てくるだろう。しかし、方向は正しい。

 今の教育システムでもっとも重要なことは、人々の意見が吸い上げられる仕組みを作ることと、意欲的な教育者たちが試行錯誤できる仕組みを作ることだろう。
 民主党政権がどこまで続くか、誰も知らない。鈴木寛が退けば、また流れは戻るであろう。その前になんらかの制度的な保障が作られれば、すべてが後戻りすることもないであろう。どうなるかはわからないが、時代が時代だから、案外新しい芽が出てくるかもしれない。

熟議:
 英語ではDeliberation。「熟議」という訳語は、「熟慮」と「討議」の二つの日本語を合体させて作ったものである。90年代にアメリカで、「多数決民主主義」と「利益代表民主主義」を超えるものとして提唱された。平たく言えば、立場にとらわれずみんなの意見を出し合おう、ということである。
 政治学の世界では、すでにかなり知られていたが、一般に持ち込まれたのは、文科省の動きからである。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  ブログランキング 投票クリックのバナー

| | コメント (2) | トラックバック (0)

公式丸覚えでいいのか

 公式丸覚えでいいのか。

 けっこう、いいのだ、....数学や理科などの場合は。

 もちろん、理屈からわかったほうがいいに決まっている。しかし、数学や理科の公式は、よく検証された正しいことには違いない。丸覚えでもそこそこは役に立つ。二次方程式の解の公式なんか、けっこう役に立つ。

 でも、こういうのはまるで役に立たないという公式がある。

  小学生 = 「明るく、元気」

 学校の標語に入っていたりする。今は減ったとは思うが、すぐこういうことを言う校長もいる。
 明るい子は、何も言われなくても明るいわけだし、いっぽう明るくない子が「明るく」と言われて、明るくなるわけでもない。
 沈んでいるときは、沈んでいることに共感してもらったほうが、明るくなれる。それは、大人でも子どもでも同じだ。
 子どもが明るくなれるのは、信頼できる先生や友達に囲まれ、よく世話をされ、「木登りをして落ちても叱られない」とわかっているときだ。子どもとそのような関係を作るという大きな大きな仕事を忘れて公式を唱えると、大事なことがおろそかになる。

 それと、この公式。

  学校と保護者の間の不信 → 協力

 もちろん結論はそうに決まっている、間違いではない。しかし、役立たずで無意味な公式だ。「協力しろ」と言われて協力が生まれるくらいなら、最初から問題は起こらない。
 実際に不信があるときに、「協力しろ」なんて言われたら、もっと不信が増す。
 協力がない状況なら、なぜそうなのか事実を探り、関係者によく事情を聞き、具体的な解決策を作らないと、協力にはいたらない。
 他にもたくさんの公式がある。「のびのび」、「はつらつ」、「自主」、etc

 ほんとうにヒューマン・リレーションを扱う、カウンセラーや企業コミュニケーションの専門家なら、けっしてこんな公式は使わないだろう。

 これらの役立たずの公式に共通したことがある。

 どうしてそうなるのか、どのような構造なのか、そのような問題を見つけ、解決を探る努力を怠っていることである。合っているに決まっている公式を一気にもってきてしまうのである。そのイメージに浸って、解決したような気分になるのである。
 
 では、なぜ、このような役立たずの公式が流行るのか。そこになると、私にもよくわからない。
 小学校から大学まで、問題解決型の知性を育てる教育が浸透していなくて、「答え出し屋」をたくさん育ててしまっている。それは大きな原因だと思う。しかし、ヒューマン・リレーションでの知性は学校を卒業してからでも育つので、それだけで説明もつかない。
 やたら「教育のせい」を言うのも、公式の一つである。

 紋切り型の公式が目立つのは学校なのだから、やはり学校に特有の原因があるはずである。現場の裁量権に比して、教育委員会と文科省の発言力が大きく、けっこうな文書を作ればそれですんでしまう運営体制は、やはり大きな原因だと思う。
 でも、文科省も教育委員会も、そうガチガチに支配しているわけではなく、細部は現場に任せている。現場の人たちがよく考えれば、無意味な策は自然淘汰されるだろうにと思う。
 そうなると、生徒と親の運営参加システムを作っていなくて、「そんな紋切り型を言わないでください」という声が出ないことが、最大の問題かなとも思う。

 学校って、不思議なところだと思う。
 

にほんブ

ログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  ブログランキング 投票クリックのバナ ー

| | コメント (3) | トラックバック (0)

いろんな獲得競争

 学校には隠されたカリキュラムがたくさんある。とくに、子どもをどうやって勉強に向かわせるかの、隠れたカリキュラムがたくさんある。

 学校によって我々は、個人として評価や立場を獲得するように訓練されている。
 賞賛をえるために、自分自身と闘うように仕込まれている。自分は無知蒙昧で、勉強を頑張るときだけ救済があると教えられる。どこかの宗教みたいだ。

 学校がそのような訓練をしているということは、意識化されていない。学習指導要領に書いてあるわけでもないし、どんな教育書にも書いてない。

 でも、我々は、個人として獲得することを訓練される。先生の視線、先生の一言、試験の点数、通知表。

 学校での最初の獲得競争は、教室での愛情をめぐって行われる。先生の気をいかにひくかの獲得競争。

 友達に注目されるための熾烈な獲得競争がある。負傷者もたくさん出る。教室の中の、あの政治。

 小学生は、愛情砂漠の中で、愛情を獲得する闘いに投げ込まれる。やがて、それは、評価、名声、地位、を獲得するための生涯続く果てしない闘いにかわっていく。それは生涯続く孤独を抱え込むことでもある。

 そういうことは、学習指導要領に書いてあるわけでもないし、どんな教育書にも書いてない。

 決して、学校の責任というわけではない。われわれの社会が持ち込まれているだけのことなのだが。
 しかし、学校は意識的であるべきだ。われわれが、ほんとうはどんな動機付けをしているかに気づくこと、そこにほんとうの知性のきらめきがある。そこから明晰さが生まれる。その明晰さが、生徒に伝わっていくのだ。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ  ブログランキングに参加しています

| | コメント (1) | トラックバック (0)

« 2010年10月 | トップページ | 2010年12月 »