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2010年10月

知識ではなく学び方を教える

 貧困者を援助するときの考え方に、「魚を与えるのではなく、魚を捕るやり方を教える」というのがある。もっともなことだ。

 同じように、教育でも「知識を与えるのではなく、学び方を教える」のでないと、子どもたちが充実した生を送れない。

 そのくらいわかっている、と先生たちも親たちも言うだろう。ところが、現実は試験の点数の結果追求になってしまう。
 「わからなくても、とにかくこれを覚えろ」 と指導せざるを得ないのである。わかっちゃいるけど、やめられないのである。

 どうしてそうなるのか? 

「システムの問題だ」

 というのが、私の言いたいことである。
 では、そのシステム問題とはどういうことかと言うと、

1 入試

  中学入試、高校入試、大学入試は現実である。「理想より現実を見る」しかなくなってしまう。

2 官僚運営

 官僚運営があると、かならず文書化できるもの、数値化できるものが肥大していく。
 教育は、生徒のための行われるはずである。しかし、いつのまにやら、行政の定めた基準を達成することにすりかわってしまう。

 幼児を見ていると、その学ぶ能力に驚嘆する。何も教え込まないのに、言葉をしゃべり、モノを扱う。
 どうして、学校ではあの能力が発揮されないのか。

 「学び」のプロセスを理解しないまま、結果を出そうとしているからだ。
 では、結果さえ出せばそれでよしとなる理由は、となると「入試」と「官僚運営」に行き着くのである。

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昆虫脳と人間脳

 昆虫にも脳がある。しかし小さい。昆虫は空を飛ぶ都合があるから、身体を大きくできない。小さい脳しか持てない。そこで、効率よく機能するようにしてある。
 小さい脳に最大限の機能を持たせるため、総合的判断をしないで、特定の条件だけで反応するようにしているのである。

 ファーブルの昆虫記には昆虫のおもしろい性質がたくさんでてくる。たとえば、ある毛虫は列を作って行進するが、前の毛虫が出した糸をたどって後ろの毛虫がついていく。ファーブルがちょっといたずらをして、植木鉢の縁を毛虫が歩くようにしたら、その毛虫の列は前の糸をたどるだけなので、いつまでも植木鉢のまるい縁を回り続けた。

 「飛んで火にいる夏の虫」なんかも、特定の条件があると反応しているだけである。光るものがあったら近づく、というプログラムしか持っていない。自然界ではそれでうまくいっていたのだろうが、人間が出現して火を使うようになったら、火の中に飛び込んでしまう。

 人間だとそんなバカなことはしない。人間だと、初めてのものに出会うと「なんだろう」と言って、慎重に調べる。未知のものを未知と捉えて探究する能力、これが実は人間の最大の能力だ。条件反射的反応をしないことが、大きな脳をもっていることの特典なのである。

 ところがである、人間はせっかくいい脳を持っているのに、教育がそれに対応していない。すでにわかっていることを覚えさせるのに熱中している。
 受験勉強というのは、問題を、「If ‥‥,then ‥‥」というパーツに分解して記憶することなのだと、
 いろんなイデオロギーに固まった脳が、やはり条件反射しか使っていないのである。教育問題といえば、「日教組のせい」とか「文科省のせい」と出てくるのが条件反射脳である。
 不安と恐怖に取り付かれた人間は答えを求める。大人たちは答えでいっぱいだ。問題が起こるとたちまち、「~のせいだ」をわーっと騒ぎ立てる。それらは貯め込んだ答えを条件反射的に出しているだけだ。だから、社会問題も人生問題も、めったに解決しない。
 教育がそもそも、答えを蓄積させるようになっている。もうちょっとましな使い方をしても、せいぜいで、出された問題を解くことに特化している。

 では、なぜ、教育が答えを蓄積させることになってしまうのか。ほんとうにそれがよいと思っている人は多くないだろう。しかし、そうなるのである。どうしてか。

 一つは入試である。入試があって結果を出さなければならない以上、点数を取るために単純化された条件反射を使うことも、やむを得ないことである。

 もう一つは、学校が学習指導要領遂行機関にすぎなくなっていることである。
 「正しい教科書」があって、それを教えるのが教育であり、「かくかくの内容を修得させました」という結果を出さなければならないなら、条件反射を刷り込んで済ませることもやむを得ないことである。

 入試と官僚統制を疑うべきである。

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教育問題:発展途上国と高度産業国家

 前回、教育を伝統社会型、発展途上国型、成熟社会型にわけてみた。

 われわれの社会は、産業が高度に発達したが、教育・文化が成熟社会を支えるまでに発達していない状態である。成熟社会とは呼びにくく、「高度産業国家」としよう。発展途上国タイプの教育問題と比較してみたい。

        発展途上国         高度産業国家
    ---------------------------------------------

        経済的貧困         精神的貧困

       身分、門地の差別       貧富の差

        団体行動の困難       画一性

       知識・技術の不足     ペーパー知識過剰

       地域主義、部族主義      国家主義


 日本教育は、発展途上国が高度成長するためには、たいへんよく機能した。
 しかし、すでに時代は変わった。

 途上国の、身分制や部族主義がはびこる社会では、学歴主義は旧体制の支配を崩し人々のエネルギーを解放する通路となる。しかし、旧体制が崩壊するとともに、今度は「学歴身分制社会」とでも呼ぶべきものが発生する。これは、社会の桎梏となる。

 国が教育を提供すると、地域主義・部族主義は克服されていく。しかし、国を動かす政治家たちは国家主義を吹き込もうとする。
 しかし、国家主義は新たな部族主義にすぎない。

  多くの日本人は、「学校に行けないかわいそうな子どもたち」のことを思い浮かべ、自分たちの子どもは幸せだと考える。しかし、日本は「学校に行かされているかわいそうな子どもたち」のことも考えなければいけない時代にいるのではないか。
 過剰教育がなされてはいないのか。教育は、過剰ということがあり得るのである。

 社会が何を要請するかより、子ども一人一人の発達に焦点を合わせた教育が必要ではないのか。

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